感情
褒められても、叱られても心の底から湧き上がってくるのが感情である。私たちはその都度一喜一憂させられている。いっそのこと感情などなくなってしまえばいいのに、などと思ったことはないだろうか。そうすれば叱られても平気である。しかし片方の感情だけを出すことはどうやらできそうにもない。もし私たちの心から感情がなくなってしまったとしたらいったいどうなるだろうか。
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褒められても、叱られても心の底から湧き上がってくるのが感情である。私たちはその都度一喜一憂させられている。いっそのこと感情などなくなってしまえばいいのに、などと思ったことはないだろうか。そうすれば叱られても平気である。しかし片方の感情だけを出すことはどうやらできそうにもない。もし私たちの心から感情がなくなってしまったとしたらいったいどうなるだろうか。
私たちの目はすべてのものを見ているわけではない。ほとんどの情報を犠牲にした上で、ある特定のものしか見ていない。自分の興味のあるものしか見てはいない。だから、人と同じものを見ていても全く気づかないことだっておおいにある。そこに関心、趣味、好みの差が入り込んでくるのである。その差を互いに理解し合えればよいのだが、それがなかなか難しい。もし見ているものがまったく同じだったとしたら、それもまた怖い話ではある。
欲望は不思議だ。「今日一日遊ぼうかな」などと誰かに話したとき、相手が「そうしよう」と返事してくれた瞬間、その欲望が消えてしまうことがある。逆に「やめた方がいい」と言われたら、「遊んでやる」と決心してしまうのだ。欲望を欲望のまま生かしておくためには賛成してしまうことである。ロメオとジュリエットの物語を思い出してしまう。
私たちは、成績が上になるようにせっつかれてきた。人より一点でも高い点を取るように言われてきた。社会に出てからもそうだ。役職が上がることが善であるかのようにいつのまにか思い込んできた。ところが、辺りを見回してみると、役職が上がったとしても、その上があり、社長は社長でさらに上のコンサルタント会社の指示には従わざるを得ない。どこまで行っても上がある。
服に包まれていれば当然のことながら温かい。服を着ていれば何かにぶつかったとしても安全だ。もう一つの安心は何によってもたらされるのであろうか。それは言葉。それも、温かな言葉だ。それを頭のてっぺんから足のつま先まで全身で感じることが大切である。
青空を見ては鼻歌の一つも唄いたくなる。反対に、今日も仕事か、などと思う人もいるだろう。雨・風の音…なにごとにも心は動かされっぱなし。それが感性である。それに動かされてばかりでは疲れるのだろうか。疲れるほどの大きな喜びに包まれていればいいのではないだろうか。
計画を立てる、などと言うとあらたまった感じだが、何も物事の計画だけではなく、今晩の食事のメニューだって私たちは計画を立てている。サラダのあとは、コロッケにウスターソースをかけ、ご飯は五穀米で、食事の後はバニラのアイスクリーム…といった具合に計画を立てている。私たちはその計画に基づいて食事をし、遊び、くつろいでいる。私たちは昨日の食事を勘案しながら未来を食べ、そして現在を楽しんでもいるのである。
モノはいったん手にしてしまうと欲望は消えてしまう。買っった瞬間にそれを店に置き忘れたり、机の上に置きっぱなしにしていたりするのがそれだ。したがってまたモノを求めて街に出かける。その繰り返しが日本の経済を支えている?などと考えたりもする。しかし欲しいモノはやはり欲しい。その欲望がなくなった先にはいったい何があるというのか。
文鳥を見せられたときの驚きはたとえようもなかった。ハッと息をのむ、とはこんなことを言うのかと思った。しかもその生き物が動きながら、自らの白さを誇っているようにも見えた。文鳥は毎日の水浴びは欠かせないという。虫除けをしているのか、白さに磨きをかけているのか、パールの色でもなく、絵の具の白さでもないその鳥は私たちに白の雄弁さを見せつけているかのようであった。そんな驚きの心を失わないようにしたいものである。
テレビに映された風景を見れば私たちはそれからいろいろなことが思い出す。そこに行ったことがあるな、とか、その土地の友人を思い出したりする。映像だけではなく、地名を目にしただけでも様々なことを想起している。「渋谷」という文字から、目にした人の数だけ思い出がたった二つの文字の中に詰まっている。漢字はすごい、そして文字の力はすごいのである。
私たちが欲しいものは、本当に私たちが欲しがっているものだろうか。どうもそうではない気がする。それは新聞やテレビで宣伝しているものかもしれないし、周囲の人がその名称を口にしていたからかもしれない。それは無意識になっていて、自分で選んだと思い込んでいるようである。そう考えてしまうと、ショッピングセンターの店先でふと手にしたセーターへの願望が失せていくような気がしてくる。それはそれで少し寂しいような気がしないでもない。
私たちは知らず知らずのうちに外界からの影響を受けている。自分だけは受けてはいないと思っていても、街に出れば看板の文字を読まされているし、テレビからは買えと言わんばかりに言葉や映像があふれ出している。見聞きしていないものの、それらは我々の脳細胞の奥深くまで侵入してくる。ときにはスマホの電源をオフにし、テレビを消し自然に触れることも必要なのではないか。
洗面化粧台の鏡が開いていた。左右に開くんだ…それだけでも私にとって大発見だった。鏡の向こうには今まで見たこともないものが並んでいた。人にとって不要なものは視界に入ってはこない、その典型的な見本である。瓶の表面には何やら横文字が羅列しているけれどわからないし、わかろうともしない。そうした見たこともない世界がまだまだ私たちの身近なところにあるはずである。あるにはあるけれど見えない世界、それをフロイトは無意識と名付けている。その中には未だ開発していない可能性が眠っているはずである。
人間は天気に左右されている。雨が降れば傘が売れ、良い天気だと行楽地が繁盛する。経済だけでなく気分もしかり。人間が自然の一部であることの証明である。お天気屋と呼ばれる人もいる。気分や態度がコロコロ変わる人は扱いに困る、と考えるのではなく、彼らは自然と共に生き、自然の摂理に従って生きていると考えるとそれもまた真理と言えるかもしれない。
何事も真剣にやらねばならない。いい加減にやると事故やけがのもとになるからだ。高いところのモノを取るときの脚立の乗り降りでさえ、真剣にやらないととんでもないことになる場合がある。車の運転然り、食事、読書…真剣に取り組もう。
子どもたちの成長と同様、大人も成長し続けている。成長の証は悩みの発生である。このままでよいのか一瞬立ち止まるときがある。それが悩みだ。ときに立ち止まり、再び歩み始めようとすると、すぐには動けないときもあるものだ。そのとき人はあせる。その期間に慌てて何かに引きまわされたりしないことが肝要だ。その期間がとても長く感じられるかもしれない。しかしあせりは禁物である。じっくりと自分とは何かを考えることである。停滞をマイナスに考えるのではなく、プラスととらえることも重要である。
人の一生は行ったり来たりの連続ではないか。今行くか、後にするかで悩み、買うか買わないかで悩み、買えば買ったで悩んでしまう、それが日常ではないだろうか。しかし、いつかはどちらかに「けり」をつけなければならない時がやってくる。私の中に片方に賛成している誰かと、反対している誰かがいる。それだけではない。その葛藤に決着をつける第三の人物がいる。その人物がいるおかげで、後悔という厄介とおさらばできるのである。その人物とはいったい何者か。
聴いている音や声はすべて脳で聴いている。耳が良いとは、脳すなわち音声処理がすぐれていることの他ならない。多くの音の中から必要な音声を聞き分けている。私たちの潜在能力は非常に優れているのだ。その選択能力は幼少時代に養われてきたものである。さらにさかのぼれば、母の胎内に起源を発する。母の声をデータベース化するのに10か月プラス数か月かけてきたのである。音声の選択能力とは、母の声を基準として他の声を識別しているのかもしれない。
「夢を持て」と言われた経験はないだろうか。よしとばかりに夢を語った瞬間、他人から否定された経験もあるはずである。「持て」と言われて「語った」のが間違いなのだ。言葉は正確に受け止めなければならない。「持つ」にとどめておけばよかったのである。誰に語ればよいのだろうか。
物事は簡単に理解できることが果たして望ましいことなのだろうか。簡単に分かったことや、容易に手に入ってもすぐに忘れたり大事にしなかったりすることもあるものだ。本当に分かるとは、ずっと後になってから、そうか!と、気づくことなのかもしれない。
人はいつも語っているわけではない。ときには沈黙する。そばにいた友人は、どうしたのかと怪訝な顔をする。こちらは想うところがあるだけなのだが、相手は勝手に案じてくる。人にはその人だけのリズムがあり、メロディーがあり、気分の高低があるのだ。人生は音楽?などとすましこみながら今ちょっと沈黙している。
落ち込んでいる人を励ましてはいけない。激励の言葉をかけられれば当然のごとく「頑張ります」と返事をしてしまうからである。それは無理をしているのである。言った側も本人に無理をさせてしまっていることに他ならないからである。相手の気持ちに寄り添うとは非常に難しいことである。慎重な上にも慎重に対処しなければならない。
アナウンサーの一言。「ちょこっとホームステイしていました」。それまでの語りの表向きのアナウンスの途中で突然、この一言であれっと思った。私たちはそうした言い方を普段しているにもかかわらず、公的な言葉の中で現れるとハッとさせられる。私たちは、表と裏の言い方の両方を備えている。それだけではなく、子供向き、先輩や上司に対しての言い方など、多くの言い方を備えている。それをその都度形を変えながら繰り出している。自分らしい言い方など、どこに行ってしまったのだろうか。
私たちは、はっきり言うことがほぼ禁じられている。ゲーム終了後のヒーローインタビューなどで、「自分の努力のせいでチームが勝てた」と言うかわりに、「ファンのご声援のおかげで」と言うのが常識になっている。公人だけでなく、私たちも同様、それが当然の言い方であると教わってきた。それを常識というのだろう。たまには、「自分は頑張ったな」と言いたいのではないだろうか。
話が通じるとはいったいどんな内容なのだろうか。それは事務連絡の場合である。ホットコーヒーくださいとかを店員に言うときだけである。しかし、感情や気分、考えなどを伝えようとすると急に困難が生じる。予防接種の注射がどれだけ痛かったか、とか、誰かの一言が私の気分を害した、こんな計画がある、ということに関してはなかなか伝わりにくい。事務連絡には共通の言葉が介在しているのでお客の言葉に従っていればよいのだが、お腹が痛いという場合その真意がなかなか伝わらない。どのようにしたら相手の感情や症状に寄り添うことができるのだろうか。
よく人は、「自分と向き合え」というが、それは果たして可能か。もしそれが実現できていれば、今まで自分は自分らしく生きてこられたはずだ。しかし現実はそうはなっていない。すなわち、自分と向き合うことは誰もできなかったということだ。自分と向き合うためにはどうしても他者を必要とする。自問自答していては埒が明かないからであり、どうしても自分に都合よく考えてしまうからだ。自分と向き合うためには、公平・中立・無個性な人に語ることが一番望ましいことかもしれない。本当の自分と出会えた時、ああ、そうだったのか、それが自分だったのかと、すっきりとした気持ちになるはずである。
忘れ物をした経験は誰にでもある。それらは、うっかり、とか、ぼーっとしていてなどと思いがちだが、フロイトはそれらはすべて無意識のなせるわざであることを明言した。それによって、私たちは忘れ物や名前の失念、道や約束の時間などを間違えることの葛藤から解放されることになった。すべてに意味があるとフロイトは断言したのだった。そう考えると私が私を支配している領域など私のなかのほんの一部でしかないことをフロイトは気づかせてくれたのだった。私は私の主ではないことを。
人生とは不満の連続ではないか。両親の愛を独占できたはずが、弟や妹が生まれた瞬間から私たちは王の座から引きずり降ろされる。これが不満の原点である。それからというもの、兄弟が増え、仲間が増えるたびにどんどん自分の場は少なくなるばかり。しかし、だれもそんな不満を言う者はいない。そんなことをすれば蔑まされるに決まっているからである。だからその不満を共感しあう仲間もできるはずもない。そうした不満はいずれ大人になった今でも何らかの形で生き残って悪さをしているに違いない。それはどんなときか。
クルマをのんびり走らせても、猛スピードで走らせても目的地に到着するのに、さほどの差はつかない。にもかかわらず急ぐ時には急いでしまう。それは、心地よさの差であろう。その時の速度が精神にぴったり合うかどうかである。話し方や食べ方にも言える。その人だけの速度というものがあるものである。
同じ「好」の字をもつこの文字はいったい何を意味しているのだろうか。共通しているのは「興味を示すこと」であろう。母が私のどんなことにも興味をもってくれたかどうかがカギとなる。私の良いことも失敗したことも、長所も短所もひっくるめて好きになってくれたかどうかである。失敗が成功のきっかけになったり、短所が長所になることを私たちは知っているからである。
人は何かに夢中になっていると、食欲は発生しないものである。ゲームなどはその典型かもしれない。仕事中毒になりやすい人の関心ごとは仕事である。それでは偏りが生じることを体が食欲を生じさせているのだ。そこで仕事を上回るような食事に出会えたら、人生にまた一つ味わいが追加されることになるだろう。