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モノはそれを手に入れるまでが楽しい。手に入れた瞬間、欲しいと思っていた気持ちが消えてしまうからだ。もし私たちがたったひとつのモノだけで満足してしまったとしたら、生きる意欲も目標もなくなってしまうだろう。するとモノとはいったい何者なのだろうか。モノ自体に価値があるのだろうか、という疑問が生じてくる。すべては謎である。
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モノはそれを手に入れるまでが楽しい。手に入れた瞬間、欲しいと思っていた気持ちが消えてしまうからだ。もし私たちがたったひとつのモノだけで満足してしまったとしたら、生きる意欲も目標もなくなってしまうだろう。するとモノとはいったい何者なのだろうか。モノ自体に価値があるのだろうか、という疑問が生じてくる。すべては謎である。
人と人とが共感し合えるときはいつか。それは同じ感情を共有できたときである。しかし、同じ言葉を聞いてもそれぞれ違う感情をもっているから、共感しているようで異なっている。3月という言葉を聞いても思いは全員異なるからだ。ではどうすれば共感し合えるのか。それは聞く側の感情をいったん脇に置いて聞くことである。簡単なようで難しい。難しいようで意外と簡単かもしれない。
私たちは理想と現実の間で悩む。こんなはずではなかった、と思うことが就職ではないか。勤めてはみたものの、思った通りの仕事がさせてもらえない、というわけである。その間を調整するのが工夫である。自分で考えた工夫のだいたいが間違いのようである。一度の工夫で改善されれば誰でも成功する。工夫をいったん、他人の目になって考えることができればよいのだ。それが他人に語ることなのではないだろうか。
自分には関係ないと思っていることが意外にも大いに関係があったりする。ありすぎて嫌になっている。だから関係無し!と心のなかで処理している。処理しているつもりであってもどこかでそのものと出会ってしまう。それはどこか。出会わないためにはどうすればよいのか。
私たちは何をするにも五官をはたらかせながらしている。コーヒーを飲むにも色や器を見、そそぐ音を聞き、カップから伝わってくる重さや熱さを確かめ、香りを嗅いで口に入れて飲む。鼻の調子が悪いときは味がしないのはそのためだ。人間の感性の豊かさを感じながら産地を見てから飲もう。
たとえばボールペン一つにしてもたくさんの部品でできている。分解したら、何がどこにあったのか定かでなくなるほどだ。複雑なものになればなるほど部品の数は多くなる。そう考えると、人間の心の構造はもっと複雑に違いない。
私たちは文字を読み、その意味を考え、感じている。「イタリア製」と書いてあればお洒落をイメージし、ドイツ製とあれば頑丈そうと感じている。それを着たり使ったりするときにも感じている。何度も確かめては、やっぱり、とか、さすがはドイツ製だ、などと一人心のなかでうなずいたりもしている。それが心の拠りどころになっているとすれば、私たちは文字という引力に縛りつけられているとも言えるのではないだろうか。
人が語るとき、順序立てて語ってはいない。すべて無意識的に語っているからである。失言の訳はそこにあるのだ。名前を忘れる、言い間違える…失言し通しである。どうしたら失言せずにすむだろうか。それは無意識を意識化しておくことである。苦手な人がいたとしたら、なぜその人が苦手なのかを意識に上らせることである。これがなかなか難しい。
もし満腹になるまで食べたら、満足を通り越して苦痛になってしまう。それを知っていてもやはり満腹になるまで食べたくなってしまう心理が私たちの心にあるに違いない。それはもしかしたら、十分にお乳を与えてくれなかった幼児期の体験かもしれないし、いい加減にするようにと叱責を受けた体験がそうさせるのかもしれない。いずれにしても、残りの二分目が、明日の食欲の種になっていることだけは間違いなさそうである。
知り合いのレーサーは公道を走るのが怖いと言う。サーキット上を走るのは自分のマシンだけ。突っ走ろうが、急ブレーキをかけようがお構い無しだ。公道はそうはいかない。車や人が飛び出して来るからだ、と言う。彼の運転で送ってもらったらその通りだった。ノロノロ走るし、交差点ではまるで初心者だ。サーキット上の彼と公道での彼と二人の人物がいる。
どこかの建物が突然なくなっていたりすると、ここに何があったのかな?と思う。普段見ていたはずの建物が思い出せないのだ。当たり前のように感じていたものが思い浮かばないのだ。だから人は銅像を残すのかもしれない。私たちは何を残そうか。
目じりに手をあてただけなのに、「泣いてるの?」と言われたり、考え事をしているだけで、怖い顔だ、などと言われたり…それが当たっていたことはほぼない。人間の心はそんなに単純ではない。相手はこちらを見ているようで、実は自分を見ている。今の自分はいったい何を見ているのだろうか。
人は何をするときにも誰かの視線を感じているかもしれない。車のドアのあけ閉め、交差点のカーブを曲がる…どこか格好をつけている自分がいる。
人の一生は不満の連続だ。あれがない、これが不足…欠けているものばかりである。ところが、不満があるおかげで知恵が生まれるともいえる。どうしたら埋められるか、何を食べれば空腹を満たせるかを必死に考えるからだ。考えては不満を訴え、満たされたらまた考える。不満と満足の間で行ったり来たりしているうちにここまで来てしまった。
モノを買うときに迷うのが普通ではないか。買うか買わないかで迷い、買ったら買ったで悩み、買わなくてもやっぱり悩む。いっそのことどちらかにしてしまえばいいのに、どちらかにするかで迷ってもいる。ボールペン1本買うのに迷うくせに、ちょっとしたモノはすぐに買ってくるのだから人間は勝手だ。たぶん、ボールペンで迷う自分が嫌になっているので、ここらで心の広いところを見せてやる、とばかりに何か買い物をしているのかもしれない。見せてやるとは、いったい誰に対してなのだろうか。
人の心はもろいものだ。自分で自分を強く持て!などと言われて強くなれたら苦労はない。人は他者から背中を押してもらうことがどうしても必要なのである。自己肯定感とは他者による肯定の言葉である。子どもの自己肯定感となれば、まさに親からの言葉が子どもを立たせるのだ。大人の心だってもろいのだから。
言葉のなかにはあいまいなものもある。ぬくもり、あたたかさ、触れあい…わかったつもりで済ましている。それらの言葉が指し示しているものは何か。その起源はどこにあるのか。すべては経験ではなく、体験かもしれない。それは遠い記憶。記憶と呼べる以前の記憶。
空模様が刻々変化するように、私たちの気持ちもご機嫌とはかぎらない。斜めのときもある。それが続けば雨季だ。相手にも雨季と乾季があり、こちらにはこちらの季節がある。こちらは相手の雨季に合わせられず、相手もこちらの乾季に合わしてくれない。だから試合観戦で味方のチームの席に座るのかもしれない。その喜びが試合のときだけとは、少し悲しい話ではある。
毎日は驚きの連続ではないだろうか。子どもたちの成績は乱高下し、思っているものは手に入らず、人は思った通りに動いてはくれない。それをがっかりととるか、驚きととるか。いっそのこと感じなくなってしまうのも一案だ。それはそれで悲しいことかもしれない。
セラピールームの前の高いところを新幹線が走っている。その度にレコード針がとんで困っていた。毎日のように橋げたの補強をしている。その効果があったようで6年経った今では針はピクリともとぶことはない。人生の補強とは何だろうか。知性をつけていくことかもしれない。
急に対処しなければならないことが生じたとき、ひとが冷静でいられるにはどうすればよいのか。それは言葉に従うことだ。何をどのようにするか、という言葉の通りにすることである。慌てる必要はない。次の手を考え、それに従うことである。そのために必要なことは、順序立てて言葉を紡いでいくこと。それが文章作成能力であろう。
散歩に出かけてみた。朝5時だ。10分も歩かないうちに2人とすれ違った。暗い時間に散歩に出かける人の心境はいったい何だろう。すれ違った人も同じことを考えているに違いはないのだが。
車の運転中、警告ランプが点灯する。慌ててサービスセンターに電話した。係がこう言う。「ランプが付いてもしばらく走れます」と。平然とした声で言われて安心した。それ以来、ランプはしょっちゅう点灯するし、一度にいくつも点灯するので、パネルは賑やかである。警告が警告にならない。警告と安心の間を今日も車を走らせている。
大谷翔平選手を日本ハムファイターズに入団させる交渉が困難を極めた、という話をテレビで回顧していた。最後に監督自身が交渉に望んで交渉に成功したのだが、嬉しかったのは最初の3秒間だけだったという。そのあとは、預かるのは大変だなー!というのが実感が監督を襲ってきたらしい。私たちも、考えに考えた末に手にした品物の喜びはほんのわずかの時間かもしれない、ということにして喜びを何とか長続きさせている自分がどこかにいるのかもしれない。
生き方は人それぞれ。ところ他人の生き方に影響されやすいのも事実。とくに成功した人の生き方はかがやいて見えたりする。それを少しは取り入れてみたりもするが、長続きしない。みんな違うのだ。では自分だけの生き方はどこにあるのか。
言いたいことを言えたらどれだけ楽になるか。世の中には、言いたい放題の人はいる。こういう人は心の毒を吐いているから楽な生き方をしているかもしれない。ところが吐かれた方、つまり毒を聞かされた方はたいへんだ。近寄らないのがベストだが、また違った方法もある。それは何か。
ちょっとした文章にも、ハッとさせられる言葉があって立ち止まってしまう。いい言葉だなと感じて、先に読み進むことができないことがある。神の啓示かと思われる言葉のおかげで本のページが先に進めない。そんなこともあってよいのかもしれない。
注文した品物が届くまでの間は、早く来ないかという苦痛にさいなまれる。品物が到着したとたん、苦痛は一気に退屈へと早変わりだ。手に入った喜びは到着後のほんの一瞬でしかない。苦痛と退屈の間を、呼吸のように行ったり来たりしながら今日も注文した本を待ち続けている。