幸せ
「幸」の字は「辛」の字に似て感情の表裏を表している。つらさをしっかり感じることが大切だ。欲しいモノが手に入らないつらさを感じることが大切だ。つらければそれを手に入れようと頑張るからだ。逃れたら幸せは来ない。
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「幸」の字は「辛」の字に似て感情の表裏を表している。つらさをしっかり感じることが大切だ。欲しいモノが手に入らないつらさを感じることが大切だ。つらければそれを手に入れようと頑張るからだ。逃れたら幸せは来ない。
さくらは毎年私たちを迎えてくれる。さくらは考えていないと知りつつ、人はそう思いたい。何も言わず、ただそこにいて春を迎えている。そして、黙って花を散らせたあとはなにごともなかったかのようである。人の話を聞くとはそうしたものかもしれない。
触れただけで品物の良し悪しが分かる?と思いながらもやはり触れながら判断している。ネットで検索しているときは触れずに良し悪しを判断しているのに、目の前にモノがあれば無意識的に触れている。きっと幼少時代の何かがそうさせるのだろう。よいモノだけに触れていたい。
日々刻々私たちは呼吸している。酸素を吸い炭酸ガスを吐き出している。呼吸は口だけではなく皮膚も呼吸している。私たちは何を体内に入れ、何を出しているのか。悪い言葉を入れるのではなく、よいモノやよい言葉を入れていたらきっとより健康になれるに違いない。目に見えないものが私たちの健康を支えているのである。
私たちはときどき呟く。「困った」と。すると誰かが「困ったね」と答える。再び私が「困った」と問いかけると、その背後からさらに人が登場して、「そんなときはこうするのだ」とアイディアを告げる。そこで私は、そうしよう、と体を動かして難を逃れる。そのとき二人の人物は消え去り、何事もなかったかのような顔をしている。まるで魔法のランプみたいである。
人間は常に動いている。じっとしていることなどない。運転中も常にハンドルを小刻みにふるわせている。座っていても歩いていても微調整しながら体を動かしている。だから前に進める。体もそうだから、心も同じように動いていいのである。それを変化という。
テレビを観ると疲れる。一生懸命観る。登場人物はもちろん、大道具・小道具、背景のセットから通行人が通るタイミングなどすべてに関心が向く。それが面白い。それに加えて筋立てが面白ければ余計のめり込む。もっと楽しめばいいと決めて観始めるとやっぱりのめり込んでしまう。テレビ番組はよく作られている。
私たちが興味をいだく対象とは何なのか。「私たちの興味を惹く」、という受身型で表現したりもする。あたかも、対象の方が私たちを見つめているようでもある。私たちは投げかけてくる対象の方に向かって振り返る。あなたはいったい誰なの?
テレビは四六時中同じ情報を放出している。街に出れば、そこにも「足元注意」や、「一時停止」などの標識で溢れかえっている。情報を遮断してただの自分になる方法はないものだろうか。それがかなったとき、何が見えてくるだろうか。
ふとしたときに、ハッと気付くことがある。思考がグルグル回っている最中に、そうだったのか、と気付く体験である。私以外にもう一人の人がいるとしか思えない。私はもう一人の他者、という詩人の言葉が思い出される。もう一人の私と対話できた瞬間である。
ことのほか横文字に弱い私などはコマーシャルの、「エンジン音のエグゾーストノートに男はエキサイトする」(某自動車メーカー)、とか、女性の方々だと、多分、「レディ・ビューティーをサイエンスでクリエイトしたローション・イマースです」(ポーラ化粧品)の言葉にブライト感(?)を感じるのかもしれない。私たちは言葉に酔いしれ、言葉を身につけているのだ。
私たちの心はいつも揺れている。ああしよう、こうしよう、あれもして、これもして…。いったいいつになれば安定するのか、それは最後の最後のときかもしれない。今日も揺れているなと感じたらこう思うことにしよう。生きている証拠だ、と。
視点を変えて見ると、気付かなかった面が見られる。ネットだとそれが出来ない。やはり五感を使ってモノは確かめたいと思いつつ、ネットに頼ることも多い。こんな便利なシステムが社会を混乱させる道具にもなっている。便利と恐怖、二つの面がまた見えてしまった。
自分で自分に大丈夫、と言うことが自己肯定だ、というが、そのためにはどうしても他者の言葉が必要である。自分で自分に言うだけでは証明されないからだ。ちょうど、証明書に印鑑が押してあるように、第三者による言明が欠かせない。その第三者とは誰か。
人はハッとひらめくときがある。作業をしている最中は気付かないことに気付かされるのだ。ひらめくのは、たいてい散歩中や、電車の車内、食事のときなどである。まったく異なったことをしているときにひらめいたりすると、ついまた、何か食べてしまいたくなるのである。
ああしておけば良かった、という思いが次のステップを踏む原動力だ。その悔しさこそが更なる成長にわれわれを導くのである。それを自分のなかで熟成させることが大事になる。それを子に託したりすれば、子はきっと辛く感じることだろう。これが期待というものかもしれない。
人間に満足があるのだろうか。ああしていれば良かった、こうしておけば幸せだった…人はいつも不満をいだきながら生きているみたいだ。しかし、その不満が次の成長への原動力にもなっているともいえる。今のままで良いと考えてしまった瞬間に、また不満が湧いてきたりもする。何か良い方法はないものだろうか、それも不満と成長の言葉なのだろう。
品物を注文してからのワクワク感はたとえようもない。いつ来るか、子供のようにポストを何度も確認する。ところが手にしたとたん机上に置いたまま、ということもある。反対に、あまりの嬉しさでそのCDを聞く気にならないということもある。想像で楽しみ、手に触れて楽しみ、解説を読んで楽しみ…喜びは尽きることがない。
アイディアが飛び出してくることがある。それは、無意識のなかに隠されていた真の欲望のことである。普段は常識の壁にはばまれて抑えつけられていた本心に他ならない。アイディアを出すためには、人に語るのが良い。いったん口に出したことが、まるで他人がそのアイディアを聞くかのように自分で検証できるからである。語ることの効果はこんなことのなかにあるのだ。
私たちの生活は試練だらけだ。電車は時間通り来ない、座席に空きはなく、子どもは言うことを聞かず、ほしい食材は売り切れ…さあどうするか。知恵の出しどころだ。そんなとき父はどう対処していただろうか。それが文字どおり工夫と呼ばれるものかもしれない。
私たちはいつも何かを感じている。肩はいつも痛いし、足も痛い。空腹は辛いが満腹になればそれも苦しい。生きている証拠、なんていう言葉は慰めにはならない。だから好きなことだけしていればいいのだが、それを見つけるのもたいへんだ。今日も不満を言い続けることにしよう。すると回りの人が苦しくなるかもしれない。
私たちは時間に追われる毎日だ。仕事に家事に…いつも時計を見ながら生活している。時計が私に指示しているかのようである。いっそのこと寝てしまえばいいと思っても、朝には起きなくてはと、ここにも時計が顔を出してくる。時計がない生活があったらどんなに支配されずに済むだろう。半面、どんなに退屈な暮らしになっているだろう。
車を運転している自分の姿には気づけない。背中を丸めて運転しているかもしれず、車とどんなマッチングしているかも外側からみられない。仕方なく同じような車種を見つけては、だいたいこんな姿かなと思いながら運転している。誰も見てないとは知っていてもどこかカッコつけてカーブを曲がろうとしている自分がいる。そのとき私は想像上の私をみている。その人はいったいどんな人?
もし自分のことがすべてわかってしまったら、意外に不幸かもしれない。おっちょこちょいで、無責任、人には厳しく自分には甘く…などとは絶対に思いたくない。自分だけは聖人君子であると思っている。それと同時におっちょこちょいで…の面も認識できれば世界中から戦争はなくなるはずである。
自分のことはわからないもの。曲がっている自分のネクタイにも気づかず、頭の寝ぐせにも気づかないまま澄ましこんでいる。だから、人のネクタイや寝ぐせがやたらと気になるのだ。昔の人は、人の振り見て我が振り直せ、と名言を残している。
ああそうか!と気づくときがある。目の前が突然ひらけたように明るく感じられる。また別のときには、大きくうなづけるような気づきがある。そんなとき、人は感動のあまり、回りが見えなくなったり、他のことがどうでもよいと感じられるような気分になる。前者を小悟と名付け、後者を大悟と呼んでいる。
私たちが、知っている、というとき、どれだけ知っているのだろうか。ゴッホについて知っている、といっても、私たちはゴッホのどこまで知っているというのか。ルーブル美術館には何度も足を運んだという人がいたとしても、知っていることといえば、モナリザがあることと、ミロのヴィーナスがあることぐらいが関の山だ。絵がたくさんあった、とか、混んでいた、というのも知っていることになるのだ。私たちはほんの一部、それもリンゴの皮よりももっと薄い表面しか知ってはいないのかもしれない。
人はなかなか変わろうとはしない。服や靴、通う道…何から何まで変えようとはしない。それは、変わることへの怖さがあるからだ。人から変に思われるのではないか、嫌われるのではないかという恐れがあるからだ。人はそれほど自分のことを見てはいない、見られているのではないかという想像の産物が自分を苦しめるのである。変える勇気とは、自分と向き合うことそのものである。
人間は気分的生き物である。天気一つで気分が上がったり下がったりしたり、食べ物の味でテンションが上下する。一番影響を受けるのが言葉である。単なる発音だけなのに、心も体も反応してしまう。一喜一憂しないための方法はないだろうか。
質問を投げかけられるとは、ある意味、相手からの攻撃性を含んでいる。準備がない状態でやってくるからである。何を聞かれるか、聞かれたことにどう答えるか…相手のことも考えながら答える。それは極めて厄介な対応ではないだろうか。心の準備もない状態で相手から問いかけられ、相手に合わせて答えるとは、なんと高度なことをしているのだろうか。この作業を難しいととるか、楽しいととるか、それが問題だ。
人は何かの瞬間に、ハッと気づかされることがある。この、「気づかされる」という受身型とはいったい何だろうか。それは私のなかにもう一人の私がいることの証拠である。考えている私と、それを冷ややかに見ている私とがいるということ。そのもう一人の私とうまく対話できればよいのである。