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私たちが、知っている、というとき、どれだけ知っているのだろうか。ゴッホについて知っている、といっても、私たちはゴッホのどこまで知っているというのか。ルーブル美術館には何度も足を運んだという人がいたとしても、知っていることといえば、モナリザがあることと、ミロのヴィーナスがあることぐらいが関の山だ。絵がたくさんあった、とか、混んでいた、というのも知っていることになるのだ。私たちはほんの一部、それもリンゴの皮よりももっと薄い表面しか知ってはいないのかもしれない。