トラブル
私たちの日常はトラブル続きである。突然の雨をはじめとして、遅刻や勘違いなど、毎日がトラブルの合間に生活しているかのようである。それを切っては捨てながら切りぬける名刀正宗のような切れ味を楽しむ余裕があったらどんなに救われることかしれません。それを臨機応変というのだろう。
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私たちの日常はトラブル続きである。突然の雨をはじめとして、遅刻や勘違いなど、毎日がトラブルの合間に生活しているかのようである。それを切っては捨てながら切りぬける名刀正宗のような切れ味を楽しむ余裕があったらどんなに救われることかしれません。それを臨機応変というのだろう。
語ると心が軽くなる、とか、つかえが取れたなどと私たちは表現する。まるで言葉に重さがあるかのように。語れないでいると、重くなったり、体までもが重く感じられたりする。語ればいいじゃないか、と言われても一番重い話はなかなかすることができないものである。しかしどこかでそれを語っているのだ。それはどこか。
人は忘れる生き物ではないか。2階に上がれば何のために来たのかを忘れ、行き先を忘れ、しまいには、「お名前は?」と聞かれるときがきますよ、と教わる始末。すべてのことを覚えていたら、きっと頭のなかがこんがらがってしまうに違いない、などと自分を慰めている。昔は記憶力が良かったのかと問えば、そこでもまた?と思っている。
人間の性格はなかなか変えることが難しい。明るく振る舞えといわれてすぐにできるものではない。しかし、変えることができれば、また違った人生を歩めるかもしれない。どうすれば変えられるのか。それは髪型を変える、散歩コースや読む本を変えればまた違った発見があるものだ。変えてみよう。
世の中には一時停止の交通ルールを守らない人がいて、取り締まりのためのパトカーが交差点に止まっている。そのようなことは一年の間にたびたびあることではない。しかしその交差点にパトカーがいるように見えてしまう。それが想像による効果である。いないのにいるように見えるのだ。子供に向かって「お父さんが来たら何と言うかな?」の言葉でふるえあがったこともないではない。そんな効果をもろともせず一時停止を怠る人がいるのも困ったことである。
ものごとに良い悪いはない。失敗が成功を導くことがあるし、成功したために失敗することだってある。結果はすべて無意識の仕業。そうなってしまうようになっているのだ。まるでコンピューターのプログラムのように組まれているとしか考えようがない。だからプログラムを書き変えればよい。そのためにはすでに書き込まれているプログラムがどんなものなのかを知ることが必要である。どうやって読むか。
私たちが気になるものは全て自分である。良いモノに目が行けばそれも自分。不快なものが気になればそれも自分である。国同士の紛争のことに心を奪われるなら、自分の中に訴えたい何かがあるのだ。しかしそれを口に出すことはできない。それが無意識である。口に出せたらどんなに楽になることだろう。
料理にとって盛り付けは華である。器もそれに華を添えるアイテムだ。日常生活における華は言葉であろう。同じ要望でも言い方一つで相手のやる気をそそるからだ。
私たちの生活は触発されることで生きている。青空を見て触発され、匂いで触発され…年がら年中触発されっぱなしである。特に触発されるのは言葉だ。他の人にとっては感じなくてもこちらにはショックな言葉や言い方があるものだ。言葉のなかで右往左往させられている。触発されずに生きられたらいいのだが、きっと喜びも触発されなくなるのは考えものである。
私たちは思い込みをする。「警察の者ですが」と言われれば、そう思い込み、お似合いですよと言われればやはりそうか、などと思って済ましこんでいる。警察手帳を見せてと言う人もいないだろう。似合う証拠などもちろんありはしない。純粋にその人を見ることはできないのだろうか。
私たちの日常は不満の連続である。好天が続けば乾燥が怖いし、空腹のあとは満腹が苦しい。ちょうどよいのは幻かもしれない。しかし、その不満が次の満足に私を向かわせるのだ。これからも不満を抱え続けていくことになるだろう。
新製品は以前のモノと較べて改良されてます、と言われて買ったりする。新しいものへの期待が膨らむと同時に、今まで使っていたモノはなんだったのかとも思う。改良ではなく、変わっただけかもしれない。私は前を向いていたいという気持ちが、以前のモノを意識から遠ざけている。
スマホを買ったりするとき重さで製品を較べることもある。使い始めれば気にならない。その一方、自分の出生時の体重が他の兄弟に較べられるたびにモヤモヤした気持ちになったりもする。大人になった今でもまだその事を語られる私はいったい何者なのか。
人同士の意見が一致することはあるのだろうか。もしかしたら、そう感じているだけなのかもしれない。その意味で鈍感になっているのだ。そうでもなければ毎日がつらいことだろう。もし一致しないことで悩む人がいたとしたらその人の方が正常と考えられる。いったい私はどちらなのか。
意見が一致したときはうれしいが、そうでないときはがっかりだ。一致したと思っても微妙な点で異なっている。その相違を相手は突いてくるのがつらいのだが、相手は容赦しない。しかたなくこちらが譲歩することで難を逃れる、そんな毎日が続くのはもっとつらい。この世から消えてしまいたくなるとは、こんなときなのである。
漢字はおおよそ5万字あるといわれているが、たった一文字のなかにいろいろな思いがつまっている。「笑」の文字はいかにも笑っているようだが、ある人は恋人の名前を思い出して涙するかもしれない。からだが軽い気持ちも、心が軽い、エンジン音が軽い、軽自動車のボディも全て「軽」の一文字のなかに詰め込んで平然としている。漢字はすごい。
五感の感性の起源はどこにあるのか。触れる、嗅ぐ、味わう、聞く、見る…。コーヒーを飲むときにもこの五感を総動員している。コーヒーカップを手に取り、色合いを見、すする音とともに味わう。人間にはすごい能力を身につけている。
行くか行かないか、食べるか食べないか。決められないのには訳がある。どちらにも良い点と悪い点があるからだ。出かければ時間は取られるが、家にいれば体は休まる…食べれば満足、食べないと空腹…どちらを選択しても片方が残る。残念とはこのことだ。人はいつも残念を引きずっている。
ものごとは決めれば決まるのだ。うまくいかないのは決まってないからともいえる。心の片隅にほんの少しでも、ダメかなという気持ちが決める気持ちを覆している。覆す源は何かといえば言葉である。口に出せていないのだ。宣言とは自分への宣言なのである。
気分を変えるには服を変えるのが一つの方法だ。街のブティックが気になり始めたら気分を変えたくなった証拠だ。明るい服を着れば気分も明るくなり、落ち着きたいときには黒っぽい服を着ればよい。身につけた色に自分が近づこうとするからである。模様替えとは自分を変えることである。
人は天候に左右されやすいのだろうか。雨男、雨女などと揶揄されたり自分でもそう思い込んだりしてはこなかっただろうか。空模様のせいにしても空は文句を言わない。誰かのせいにするよりも、当分の間は天気のせいにしておくことにしよう。
私たちはレストランのメニューを見ながら賭けている。味・量に値段や昨日食べたモノ、きっと今晩はカレーではないな…といったいろいろなファクターを掛け合わせながら賭けている。当たりが出れば自分のせいだし、外れても自分で責任を取って腹におさめている。もしかすると自分で自分に賭けているのかもしれない。
自分の言った言葉を相手に復唱されると安心する場合と、逆にドキリとする場合とがある。レストランなどで店員がこちらの注文の品物を復唱したときホッとするのは、自分の言葉が太字になったような安心感がある。反対に、自分の言い方が間違っていたときなどにその言葉を復唱されると、確かにわかりにくいなと感じるのだ。いずれにしても、自分の言葉を他人の言い方のように聞くとは不思議な体験ではある。
期待はしばしば裏切られる。思い通りにはいかないのが人生当と心得れば良いが、それは人間不信につながるかもしれない。期待は多くの場合、誰かに向かってされるものである。自分への期待を自分で裏切って平気なのはなぜなのだろう。
誰にでもお気に入りのモノはある。肌身離さずもっているモノなどがそうだ。それはその人だけのものであり、ほかの人には理解できないかもしれない。それを語られたときには、そっと耳を傾けてあげるだけでよいかもしれない。一番お気に入りのモノ、それは場所かもしれない。その場所でそのモノに身を包まれているように感じるからだ。その場所はいったいどこか。
自分では自分のことはわからない。最もわからないものは声ではないか。留守番電話に録音した自分の声を聞いたときに感じる不気味さがそれを証明している。声でさえ自分ではわからないのだから、その内容などはわからないのだ。自分でも気づかないうちに互いに誤解し合っているのかもしれない。
人と人とがコミュニケーションをはかるときに話題にするものが天気や花の話題であろう。天気を語るとき人は遠い空を見つめ、花を語るとき優しくなれるからだ。その言葉のなかで人は憩い、自分を取り戻していくのである。
ある落語家の一言。「自分はたいしたことない人間だ、と受け入れてしまえば結構楽になりますよ」と。大賢人やアラブの王様に比べれば人は皆同じである。背くらべすることに私たちは駆り立てられてきた、その名残が無意識のなかに残っているのかもしれない。
「快」を感じることは人間の頭を活性化させる。その快は人によって異なる。マラソンをすることで感じる人もいれば、それを見るだけで味わえる人もいる。ボーッとしているのも快である。そう考えると三つすべてが自分に当てはまる。人はいろいろな面で快を味わっているのかもしれない。
私たちは節目をいつも気にかけている。いよいよ4月だ、とか、3分の一年が過ぎた、とか、新学期だ、新年度だとつぶやきながら一つのことを終わらせ、一つのことを考えようとしている。一生懸命過去を忘れようとしている自分がいるのかもしれない。古い竹の節目の中味を見ることができないように、私たちも過去を見なければいいのだ。