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2022年6月の31件の記事

2022年6月30日 (木)

意味づけ

私たちは何かにつけて意味づけする。前を走る車のナンバー8888を見ては笑い、あるいは末広がりと意味づけ、頭に鳥のお土産が落ちては意味づけしている。朝蜘蛛は殺すななどもそうだ。そこには何の根拠もないのだが、どうしてもそうしてしまう。単なる文字の羅列とは受け取れず、何らかの関連性を求めようとしている。私も少しは考えている証拠なのかもしれない。

2022年6月29日 (水)

理解

「何を言っているのか分からない」と人から言われて悩む人は多い。本当に分からないのか、それとも、こちらのことを分かろうとしないのか。相手のことを理解しようと思っているなら、何としても理解しようとするだろう。事実を明らかにしなければ、語り手は自信をうしなうだろう。

2022年6月28日 (火)

認識

家の玄関前で会う犬は私になついている。たまたま裏木戸にいる私を見るとその犬は激しく吠えるのだ。慌てて表玄関に引き返すといつもの通りゴロゴロ喉を鳴らす。彼は私のどこを見ているのか。裏木戸とセットの私は不審者なのだ。当の自分だって、コンビニに行けばただの客、親が出てくれば子になってしまう。本当の私は一体何者なのか。

2022年6月27日 (月)

証明

どこに行くにも証明書が必要だ。免許証、保険証…映画館に入るにも60歳以上を証明するものが必要である。私は私だ、と言うためには、この私では信用してくれないのだ。紙片が必要なのだ。私は本当に存在するのだろうか。

2022年6月26日 (日)

自然光

潮来舟に乗った花嫁さんの衣装が目に鮮やかだ。自然光は花嫁さんをまんべんなく照らし出している。どんな映像も絵画に描き出すことができないだろう。川面のさざ波と木目も新しい舟とよく調和している。進行方向に何が待ち受けているか。答えは無意識の中にすでに存在している。衣装の白無垢とは反対にもう書き込まれているとフロイトは言っている。それが読めたらいいのに。

2022年6月25日 (土)

カゴ

スーパーでカゴを手にする。カゴの中をどう埋めて行くか、重いものから入れていくか、大きなものからか、常温、冷凍…どう配置するかを考えているとき、私は一人のアーティストかもしれない。雑然と入れようが、整然といれようが自らの思うがまま。アーティストは毎日キャンバスや原稿用紙に向かって思いのままに記号を書き込んでいるのかもしれない。そんな簡単なものではありません、という声をよそに、今日もカゴの中にきれいなパッケージを詰め込んでいくことにしよう。

2022年6月24日 (金)

消え失せる

たくさんのモノに囲まれながら私たちはそのほとんどを視野に入れていない。目の前に広げた本があったとしても、その向こうを焼き芋屋さんが通過していけば、その瞬間本もコーヒーカップもペンも時計もこの世から消え失せる。この世は焼き芋屋で占められる。私という存在すら危ういものだ。

2022年6月23日 (木)

心機一転

食器一つ変えただけでも気持ちは変わる。長年使い続けたものを忘れてしまうくらいに目に新鮮に映る。服や髪型は変えても自分では見えないが、目の前のものは如実に新しくなったと感じる。日々心機一転し続けたい。

2022年6月22日 (水)

探し物

目当てのものが見つからないとき、それは苦しいことなのか、それとも喜ばしいことなのか。そもそも苦しい、喜ばしいの境界がわからない。探した挙げ句見つかったときの喜びは格別だ。しかしそれもつかの間、机の片隅に放っておかれたまま、ということも多々。見つからなければ見つからないで、違うものを手にして喜んでいる。その喜びが継続すること、それを、楽しみなどと定義している。

2022年6月21日 (火)

水は方円の器に従う。角ばった器にはその形に収まって静かである。丸い金魚鉢にも素直に収まって中に魚を泳がせて赤い色を邪魔だてすることもない。ときに水害を及ぼすほどのパワーを秘めているとは思えない無口ぶりである。それに比べて人はどれだけ喋べり続けていることか。

2022年6月20日 (月)

連想

私たちは一枚の絵を見てはいろいろなものを想像している。キャンバスの大きさ一つで時間がかかった大作だと想像し、題材から歴史や場所を想像し、人物像からは絵描きの人柄、人生までも想像しながら観ている。そして読んでもいる。読み方は人それぞれ。気に入った絵と向き合うとは、自分の想像力と向き合うことに他ならないのである。

2022年6月19日 (日)

使う

私たちは自分の能力のほんの一部しか使ってはいない。車を運転しながら考え、キョロキョロし、喋っているではないか。器用なものである。才能がない、とか、無理だとか言わないでほしい。それを決めるのは自分だからである。

2022年6月18日 (土)

食べる

食べているときは何も考えていない。うまい!としか言うことができない。うっとりして、他のことなどどこかに忘れ去っている。自分がこの世に存在していることも忘れている。無我の境地という表現がピッタリだ。座禅を組まなくても一日三回そんな境地に達することができるとは、すごいことなのかもしれない。

2022年6月17日 (金)

カモフラージュ

本心をカモフラージュするために私たちは様々な手段を繰り出す。出すことでいくばくか心のバランスをとっている。笑ってごまかすのもその一つである。苦しいとき、悔しいとき、それをストレートに出すと非難を浴びるので、笑うことで放出しているのだ。笑ってばかりいる人はもしかしてマイナス感情を笑うエネルギーに変換しているのかもしれない。

2022年6月16日 (木)

実感

生きているという実感はいつ感じるのだろうか。美味しい物を食べているときだろうか。実は、自分が注文した通りのものが目の前に運ばれてきたときだろう。実現から実感への橋渡しになるもの、それが実物の登場なのかもしれない。

2022年6月15日 (水)

マスク

マスクが当たり前になっている。素顔を知らずに学校を卒業しそうである。郵便局でマスクをしていると外すように指示された時とは大違いである。われわれは目に見えないマスクをしているのかもしれない。職場では職場でのマスク、家では夫や妻、父親や母親のマスクをしている。その場にふさわしいマスクをもっていることが大切である。

2022年6月14日 (火)

良し悪し

物事に良し悪しの区別はない。仕事を休みがちなのは祖父母の介護のためと知れば、美談になるだろうし、車内で先輩に席を譲れば、足を弱らせるのを助長することになる。私たちは常識と欲望の間の狭いなかで生きているのかもしれない。

2022年6月13日 (月)

出す

私たちはいつも三つを出したいと思っている。それは感情・言葉・欲望の三つだ。一つが出ると堰を切ったように次々出てくる。怒りが残り二つを出すきっかけになる。不満・不足がなければ次に進むことはできない。それを語り始めたら耳を傾けてあげよう。進歩しようとしているのだから。

2022年6月12日 (日)

躁とうつ

ひとの気分はコロコロ変わる。ときにはハイな気分だっり、別のときは落ち込んだりして定まりのない日々を送っている。そんなとき人から「どうしたんだ、そんなに暗い顔をして…」などと言われても、人間はいつもニコニコしているわけではない。むしろ毎日ニヤケ顔でいる方が変である。私たちは躁とうつの間を行ったり来たりしている。両方ともまごうかたなき自分である。

2022年6月11日 (土)

味わい

同じ食べ物を食べていても、同じ味わいを感じているかという証明はできないだろう。異なる味を感じているかもしれない。ある人にとって濃い味が他の人には丁度よいということも日常大いにあり得る。大雑把なところで味わっているに過ぎないのだろうか。もし同じ味わいだけしか存在しないとしたら、この世は一つの味だけになってしまうだろう。みんな違っていい。その違いを分かち合う世界、それだけがあればいいのである。

2022年6月10日 (金)

動揺

私たちは常に揺れている。良い気分だと思う次の瞬間にはもう落ち込んでいたりする。子どもの成績表を見ては揺れ、成績が上がっても揺れ、自分の成績がどうだったかは棚に上げて眼の前のことで揺れている。歩く動作も乗車中の私の体さえじっとはしていない。そのくせ揺れる車内で寝たりもする。いつになっても揺れ続けている。それも生きているからなのだ、そう思うことでいっときの慰めを得ることにしよう。

2022年6月 9日 (木)

本気

本気とは何か。本気とは居ても立ってもいられない状態をいう。早く出掛けたい、手に入れたい、見に行きたい気持ちをいう。早く到着してしまう。前の日から持ち物を何度も確かめたりもする。日曜日が待ち遠しいのもその気持ちの一つである。その日何をし、何を食べ、どう過ごすかが最重要課題となる。計画するのが面倒などと言ってはならない。楽しみとは面倒の裏返しかも知れない。

食事

食べる事、と書くくらいだから、食事は一つの重大事かもしれない。どんな食材をどれだけ、他の食材と組み合わせて食べるかを考える。もちろん、前日のことも考慮して食材を選択するのだから、やはり重大事なのだ。そんなふうに考えて作られた食事も食べるのはほんの一瞬だ。一大イベントを楽しむように食事も大盛り上がりのうちに楽しむべきである。

2022年6月 8日 (水)

世界

駅の待合室の片隅にテレビが置いてあって、野球中継がかまびすしい。椅子に腰掛けている人も、所在なく佇んでいる人も、いっこうに試合の行末に関心がないという風情である。一方テレビ中継の向こうでは観客が熱狂している。同じ時間に生きているのに、同じ世界を共有できないのだ。同じ世界、同じ感情を共有することはできないのだろうか。

2022年6月 7日 (火)

復唱

レストランなどで注文したメニューを店員は必ず復唱する。それは確認のためだけだろうか。そのやりとりを見てみよう。店員の復唱とともにお客さんが安堵の表情を浮かべている。それは自分の注文が店員さんのきれいな声に載せてお客さんの耳に届いてきたからだ。自分の声を他人の声を介して受け取る心地よさがそこにあるからだ。

2022年6月 6日 (月)

名称

私たちは木や花を見ては名称を聞く。きれいと思えばそれでよいというものではない。なんとしても名称を確認したいと思っている。それは視覚と言葉とを一致させたいという欲求である。その欲求は絵画、音楽、食べ物などすべてに及ぶ。人間は言葉を見、言葉を聞き、言葉を食べていると考えてもよいのである。

2022年6月 5日 (日)

悩み

このままでいいかどうかで人は悩む。それは進歩の証である。とくにはじめの一歩が難しい。歩きはじめてしまえばよいという知識よりも不安が襲うからだ。それを払拭してくれるものは何か。歩きはじめた先にあるものは何か。

2022年6月 4日 (土)

捨てられない

不要なもの、余った物干し竿、ヒビの入った植木鉢、壊れた時計、読まない本…身の回りはそれらで埋め尽くされている。捨てられないものとはそのすべててはないか。捨てたい、でも捨てられない、熟慮に熟慮を重ねた結果そのままにしておくことにした。

2022年6月 3日 (金)

のど元過ぎれば

のど元過ぎれば熱さ忘れる、のことわざ通り、人間は忘れるのが得意だ。自分を基準にしているのではなく、もともと忘れるようにできているのだ。もしすべてを記憶していたら頭がパンクしてしまうだろう。何も考えることができなくなるに違いない。そのための防衛として人は忘れるのだ。食べたことも忘れ、今言ったことも忘れるのは、ある意味幸せなことなのかもしれない。

2022年6月 2日 (木)

備え

いつなんどきやってくるか知れない災害・天変地異。いざというときのための食料も賞味期限切れが近づいている。備蓄品をよそ目に新品の品に手が伸びてしまう。食べ物は旬が大事だ。今日買ったものは今日食べたい。そのためにスーパーに出かけるのだから。考え方も生き方もいつも新鮮でありたいと思っている。

2022年6月 1日 (水)

キャンプファイヤー

最近のキャンプ場は電源完備、スマホも炊飯器も使用可能だから至って快適だ。広場の真ん中にキャンプファイヤーが燃やしてあるだけのキャンプ場とは大違いだ。ファイヤーの周りで輪になって踊っている集団が楽しそうである。ギターに合わせて踊っている。仲間や先輩諸氏には感謝の言葉しかない。弾いてあえる人に聞いてみると、今弾いている曲のギターコードをかき鳴らしながら次の歌のコード進行を思い浮かべるのが難しいという。次の曲と曲の間を空けないための工夫だという。しまいにはガチャガチャさせているだけの音になってしまうこともあるというのだ。それでも構いません、輪にいるのがたのしいのですから、と彼は語っていた。

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