味方
味方という言葉は、もとは「御方」と書く。両方のうちこちら側についてくれる人を指す。意見が対立すると、相手はこちらの意見よりも相手と同じ意見をもつ側につく。ないしは、自分の好きな人や、強い人につく傾向がある。それで意見の対立が起こるのである。違う意見を言う人はますます意固地になって主張し続け、やがては疲れ切ってしまうのだ。そんなとき、一人でも良いから、こちらの意見に賛同してくれたら、例え自分の意見が通らなかったとしても、心安らぐはずである。
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味方という言葉は、もとは「御方」と書く。両方のうちこちら側についてくれる人を指す。意見が対立すると、相手はこちらの意見よりも相手と同じ意見をもつ側につく。ないしは、自分の好きな人や、強い人につく傾向がある。それで意見の対立が起こるのである。違う意見を言う人はますます意固地になって主張し続け、やがては疲れ切ってしまうのだ。そんなとき、一人でも良いから、こちらの意見に賛同してくれたら、例え自分の意見が通らなかったとしても、心安らぐはずである。
歴史書にはハラハラ・ドキドキするような記述が散りばめられている。当の人物が言った言葉かどうかも疑わずに、私たちはしばしば書物に引き込まれる。信憑性のある話は私たちの語りである。そのなかには、その人しか経験できない真実の語りがある。苦しみ、悲しみ、傷ついた歴史がある。真摯に耳を傾けるべきではないだろうか。
私たちはいろいろな我慢をしいられている。我慢は一種の社会性である。人を押しのけたい、叫びたい、食べたい…最後の欲求は生理的に限界が訪れるので自ずとやむ。我慢を放出する方法のいくつかがスポーツや歌を唄うことだ。ところが、心の我慢は放出のしかたが難しい。我慢していることが本当の欲望か本人でもわからないからだ。その欲望に気づいたとき、人はホッとするのである。
自動販売機の前で、ジュースを求めるかお茶にするかで悩んでいる。ほんの数秒間、目まぐるしく両者の言葉が行き来している。ジュース派とお茶派と、どちらかに一票投じる人がいる。さらに、今回はジュースを買うが、次回はお茶を求めようと言っている人がいる。この人はいったい誰なのか。
気分がよい状態のこと。素敵なものを見る、清々しい空気に包まれる、美味しい食べ物を食す…。私たちには仕事もあるし、食べてばかりはいられない。せめて心地よい言葉をかけられたいものだ。頑張ったね、よくやったねなどの言葉が耳を介して脳に伝わり、体中によい刺激となって広がっていく。どれだけこの言葉に触れられるだろうか。
大きな物音がすれば思わずそちらの方に目を注ぐ。大したことではなくても安全を確保するための行動を私たちはしている。安全という意味を確認すればそれで事足りるからだ。一方、誰かと話している最中に、突然大きな声を出されたらビックリする。それはその言葉の意味を考えているからだ。怖いと受け取らず、単に「大きな声」と受け取ってしまえば心は平静でいられるのだが、それがなかなか難しい。
記憶には必ず感情がセットになっている。楽しかった記憶には快の感情がセットになっている。旅行先での思い出、モノを手にしたときの感情…楽しかった記憶は快の感情とともに思い出す反面、苦しかった記憶は忘れ去られているように思われる。しかし、その記憶は忘れたことにしているだけであり、それは違った形でなにかのときに噴出しようとしている。
細かい文字もよく見えていた頃は、人の嫌なところも目についていたかもしれない。良いところももちろん見えていて、憧れの人のマネをしながら成長してきた。眼力が衰えてくればきっと相手の嫌なところも気にならなくなるかもしれない。反面心配なことは、憧れもなくなる可能性もあるからだ。いつまでも憧れを持ち続けよう。
私たちの無意識にインプットされたものは経験だけとは限らない。経験とは、そういえばあのときああだったな、などと思い出すことができるが、クセや習慣、態度は思い出せない。この悪いクセを何とかしたい、変な習慣や卑屈な態度などは無意識界にとどまっていて、それが私たちを動かしているのだ。自分で自分のクセや態度が直せない理由はこんなことの中に存在する。私は私自身に出会えないのだ。
私たちは経験したことを繰り返しながら生活している。車の運転中に他の車から道を譲られればよい気分になる。それだけではなく、今度は誰かにしてみようという気持ちにもなる。心の寛大さとは、よい経験の豊かさのことである。
人を思いやる、とは想像力である。相手が何を望んでいるか、言いたいことは何かを考えることである。その起源は赤ちゃん時代に遡る。泣き声から、何を赤ちゃんが求めているかを母が想像力を総動員して考えることだ。母はどれだけ試行錯誤してくれたのだろうか。考えてみると赤ちゃんの要求はそれほど多くはない。育児に悩むとはもしかするとその泣き声の凄さなのかもしれない。
私たちが書くときはすまして書いている。コンチキ…と書くかわりに悔しかったと書く。これでは自分を偽ったことになる。いつになったら自分に正直になれるのか。いっそのこと暴言の一つも吐いてみよう、などと思っても、今苦しいのです…などとまたカッコつけている。悪態をつく人は幸せなのかもしれない。
「自信をもて」と人から言われれば、「ハイ、がんばります」と殊勝な返事を返す。しかし、どうしたら自信がもてるのかは教えてはくれない。そこで自分で考える、わからない…の繰り返しのなかでますます自信がなくなる。自分で自信がもてるなら世界は自信に満ち溢れているはずだが、そうはなっていない。それどころかうちひしがれたようにトボトボ歩く自分がいたりもする。どうしたら自信がもてるのか。
相手を褒めることに難しさを感じている人が多い。それは褒めることで自分が下になることの恐怖かもしれない。共に成長する、などと言われるがなかなか難しそうである。その一方で褒められることは大歓迎だ。褒める、褒められるの両方の間で、後者をつい選んでしまう。服を選ぶときなどは要注意である。
雨は適度に降り、適度にやんでほしいが、そうはならない。ときに降りすぎて災害をもたらし、晴れが続いても災害だ。自然は思うようにはいかない。私たちは欲しいときに食べ、寝たいときに寝ることができる。自分で自分をコントロールしている。行きたいときには行き、行きたくなければ行かなくていいのだ。われわれは自分の思考に逆らわずに生きることができる。それはある意味すごいことなのかもしれない。
人はある一点を見つめると周囲が見えなくなる構造になっている。まわりが見えない、などと表現する。他のものに目もくれなくなる。勉強に目が向かなくなるほどの関心事があれば勉強は苦痛なだけだろう。われわれはどんな一点に目を注いでいるのだろうか。
意識は漠然、意志は明瞭といえる。幸せになりたいは漠然。意志は家を建てる、会社を起こすという明瞭さがある。だれもが漠然とした意識はもっている。しかしそれが言えなくなっている。それが常識の壁である。それを突破したとき見えてくるものが自分の姿だ。そのとき私は本当の私と出会う。
見えるとは何か。それは漠然としているものだ。壁に時計が掛けてあるな、くらいのものである。ところが、今何時かな、と思っているときに見る、に変わるのだ。すべてのものが見えていたらわれわれの頭はたちまち疲れ切ってしまうに違いない。四六時中集中してはいられないのだ。たまにはぼーっとしてる。そしてときに集中するのがよい。どんなときに集中するか、それが問題である。
未来を語る若者がいる一方で、語らない若者もいる。語らないのは、語りが阻止された可能性が高い。
レッカー車の運転手同士の会話である。「道路脇から転落して大破した車の引き上げ依頼あり。ドライバーは緊急搬送されて不在。クレーン車を要請するか検討中」。毎日のように大破した車やケガを見ているようで、実は見てはいないのだ。彼らが見ているのは、無事にレッカー車に載せるイメージだけである。だから、転落の様子や大破もケガもない世界にいられるのである。気持ちが揺らいだらレッカー作業はできない。慣れの世界ではなく、言葉だけの世界に行っているからこそできることである。われわれはいかに感情に支配されているか思い知らされる。
人を見るとき、本人より重要視しているのが肩書や役職かもしれない。怖い人かもしれないと思ってしまう。その人自身よりも肩書や役職に恐れをいだいている。それらの情報がベールとなり、本人を見えにくくしている。その人自身を正確に見るにはどうすればよいのだろうか。
私たちの目には、ススキの穂がお化けのように見える傾向がある。車のフロントフェースも顔のように見えてしまうのもそうだ。人の顔を基本としてモノを見ているのである。この世に生まれて最初に出会う顔が笑顔であったかどうかが基本になっているとしたら、私たちは一体何を見ているというのだろうか。
日々予定通りいかないことだらけだ。買おうと思っていた服は売り切れており、思い通りのものが手に入っても、色合いが違うな〜…と不満をかこつ毎日である。服の不満を嘆く割には、予定とは異なった人生を歩まされて嘆くことは少ない。きっとそのことに気づきたくないために、服の色の不満をぶつけているのかもしれない。
世の中には自分と似た人が3人いるというが、なかなかお目にかかれない。その一方、同じ性格をもつ人はたくさんいる。しかしそのことに気づけない。その訳は、自分の嫌な性格は見たくないから見ようとしない。さらにはそんな性格の人にイライラしたりする。あの人のことを思い出すと腹が立つ、というとき、それは自らの性格を語ることになる。そうなると誰も人のことなど非難できなくなるかもしれない。
年長者から、「歳をとるといいことがありますよ」と言われて、そうだな〜、と思うときに、同一化が起こっている。同一化とはマネすること。同一化が生じるための条件は、その人との間に信頼関係が構築されていなければならないこと。私という存在はだれかをマネすることから始まっている。誰をマネるか、環境は大切な課題でもある。
あの人は包容力がある、と言うときの包容力とは何だろうか。それは人の言葉のすべてを受け入れる力である。あれもこれも、すべてを受け入れる力である。八方美人ではなく、すべてを感情をださずに聞く心の広さをもさしている。いちいち感情を出していたら心はあっという間に崩壊してしまうだろう。どのくらいの広さか。東京ドームくらい?とんでもない、宇宙空間並みである。聞くところによると、宇宙は膨張しているという。私たちの心も膨張していくといいのだが。
世の中は欲しいモノで溢れかえっている。テレビからは買えとばかりに商品名が連呼でされる。街の看板からは色彩とデザインとキャッチコピーが目に飛び込んでくる。私にはもともと欲望があったのか。それとも欲望をつかまされているのか。目をふさぎ、言葉も聞かないようにしていると、人から何も知らないと揶揄される。それでも欲望から逃れるようにする、これはもはや戦いなのかもしれない。
気の緩みは、うまくいったあとに起きやすい。仕事の成功、満足体験…そんな体験があっただろうか。満足したと思ったあとでもっと欲しがっている自分もいる。反対に、失敗体験のあとで気は引き締まるものだ。失敗は成功の母。これからも失敗し続けることは間違いがない。
モノにはさまざまな用途がある。ペットボトルを持ち歩くための保冷バッグをスマホケースにしている人もいる。一枚の紙片が重要書類になったり、紙飛行機としてもてあそぶこともできる。授業に必要な黒板拭きも道端に放置されればただのゴミである。わたしたちは何に変身するか、そして変身し続けるのか、はなはだ楽しみである。
モノはどんなものにも変身する。昨日まで小学生だった子も一晩で中学生に変身する。できない人間も、できる人間に、というように意識のなかで変えればよいのだ。変身するか、しないかの方向転換の力を意志力と呼ぶ。
風邪をひいて上司から、「健康管理ができてない」と言われた場合、叱られたと受取るか、助言してくれたと受取るかで気持ちは大きく変わる。前者で受取るばかりでは心が折れてしまうだろう。「貴重なご助言ありがとうございます」と言えればもっと違う人生を歩めるかもしれないのに。そんな言葉は言えない、というのが大半の気持ちだろう。さらに高次な受取り方もあるにはある。