健康
「健康な肉体に健康な精神は宿る」と言われるが、「健康な精神が健康な肉体をつかさどる」と言ってもよい。精神が活き活きしていると体も軽く、食事も美味しい。健康な精神はどうやって造るのか。楽しいと思っていることが以外も不快なことだったり、反対に、自分に合わないと思っていたことに興味をそそられたりする。それらはすべて無意識的になっているので、その精神が体に表われるのだ。何が好きで、何が嫌いなのか…体の声に耳を澄ませてみよう。
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「健康な肉体に健康な精神は宿る」と言われるが、「健康な精神が健康な肉体をつかさどる」と言ってもよい。精神が活き活きしていると体も軽く、食事も美味しい。健康な精神はどうやって造るのか。楽しいと思っていることが以外も不快なことだったり、反対に、自分に合わないと思っていたことに興味をそそられたりする。それらはすべて無意識的になっているので、その精神が体に表われるのだ。何が好きで、何が嫌いなのか…体の声に耳を澄ませてみよう。
人にはその人だけの記念日がある。その日を濃厚で特別な思い出にしている。忘れないように手帳に書き入れたりもする。数字が並んだカレンダーのところどころを○印で囲むことでカレンダーにリズムをつけている。淡々とした日々が安心を得られる一方で、強く印象づけるようにしている。淡々と特別の二つが生活にアクセントになっている。今日も何かの記念日になるような特別なことを期待しよう。
久しぶりにカバンを替えた。中身を出してみた。余計なものがいっぱい。名刺入れ二つ、巻尺、マスク、バンドエイド、メモ用紙・・すべてが念のためだ。コンビニでいつでも手にできる。なければ不安だ。念のための集積がカバンのふくらみだ。その割には、人からの批判に対する言葉の集積がない。「念のため」をこちらに用意しておけばよいのだが。
予定とは未来との約束。自分で立てた予定には従うからだ。そこまでは生きている、という証でもある。近い予定、中ほどの予定、遠い先の予定…どんどん立てることだ。生きるとは生きて在(あ)ることに他ならない。生きて、なおかつ、生きている意味を感じられる人生を送りたい。
久しぶりの好天に誘われて、人は野や山に繰り出す。秋は空が高く感じられる。曇天とは大違いである。好天の方が荷物も少なくて身も軽い。好天だけでなく、曇天や雨天でも楽しめることがあれば一生楽しめるはずだ。人の機嫌も天気同様に良し悪しがある。良いときには良い理由があり、悪いときにも悪い理由がある。そのどちらにも理解を示せるはずと考えて精神分析が考えられてきた。その理論に照らし合わせれば、すべての人の心情が理解できるはずである。
人は順位を気にする。「人気№1」の札で品物を選定している。それ以外のモノを選定する場合もやはり№1を基準にしている。その食品をその場で口にできないから、というだけではなく、誰かの推薦や札を頼りにする傾向がある。その傾向はスポーツの世界で顕著である。順位のない世界はどこにあるのか。そこでは誰もが人と比べることなく平和に暮らせるのだろうか。
自分が疲れているという自覚はもちにくいのではないか。自覚することは恥ずべきことだ、とか、納期に間に合わせなくてはならないという義務感が疲れを上回るからだ。だから人の上に自分を見てしまうことになる。もし背中を丸めて歩いている人が気になるようなら、それは自分の背中が曲がっていることになる。人の振り見て我が振り直せとは、このことを言っているのである。
こちらは疲れていないのに、誰かから、「あなた疲れてるでしょう」などと言われたことはないだろうか。こちらが否定しても食い下がることなく、「疲れた顔をしてる」などと嫌なことを言う。放っておいてくれてもよさそうなものだが、言われれば気になるものだ。そんなことを言ってくる人のなかでいったい何が起きているのだろうか。
ふとした瞬間に何かを思い出すことがある。それは頭が空っぽになったときである。目の前の仕事に夢中になっているときには思い出せないことに気付かされるのである。そのために、アーティストは部屋から出て散歩するのだ。ときに書を捨てて街に出ることが頭の切り替えになるのである。
物事は忘れがちだ。名前を忘れ、地名、知識、経験…忘れるために学んだと思えるほどだ。もしすべてを記憶していたら、いちいち思い出されてパニックに陥るだろう。名前を聞いて苦い経験を思い出していたら生活に差し支えるだろう。ほどよく忘れることで円滑にくらしている。そう思うことにした。
私たちの語りはすべて起承転結である。FMの「ひるのいこい」に寄せられる投稿は全部そうだ。「50代のマラソンおじさんです。田んぼの畦道を稲の成長具合を見ながらのランは気持ちよいものです。突然雨が降り出して全身ずぶ濡れになりました。帰宅後シャワーを浴びて着替えたら、窓の外には抜けるような青空が広がっていました。」起承転結は、心地良い。
四国八十八か所巡りのなかで、難所と呼ばれるコースがいくつか存在する。海岸線をひたすら歩くコースがその一つ。そのゆえんは単調だから。山あり谷ありも難所に違いないが変化に富んでいる。行ったことのない私が言うのも気がひけるが、確かにそうなのだろう。振り返って私たちの生活もそうかもしれない。平穏を目指す一方で、変化も求めている。人間は勝手なのだ。
話には修飾が加えられている。驚いた、というかわりに、心臓が飛び出るかと思った、などと言い、目が飛び出るような高額な品物だ、などと言ったりする。その方が言う側は相手に伝えやすいからだ。聞く側もいつしかそうした言い方に慣れているし、その方が活き活きと聞く側に伝わってくる。反面、そうした修飾された会話が誤解を招いたりもするから、要注意だ。
歴史は歴史上の人物だけにあるのではなく、私たちすべてにある。それはその人だけの貴重な歴史であり、他人からどうこう言われる筋合いなど存在しない。そのときそうせざるを得なかった現実があったのだ。それはそのまま受け入れることだ。あのときこうしておけばよかったということもあるだろう。この道を歩んでいたら、ということもあるだろう。それらを選択していたらという話も聞きたいものだ。
数字を見ただけでもいろいろな思い出が蘇る。1は成績1番だと思う人もいれば、背番号1の王貞治を思い出したり、巨人軍を連想したりもする。たった一本の線にしか過ぎない棒状のものから野球を思い出すとは、私たちの記憶がはたらいている証である。その記憶が年齢や経験値によってどんどん増えていく。それらの記憶や経験も、まったく同じ人は存在しない。みんな違う。誰かが自分の思い出を語ったら、そっとうなずくだけでいいのかもしれない。その人にとって大切な思い出だから。
展望台で友人同志が景色を眺めている。一人が「キレイだな〜!」と言うと、もう一人が「キレイだな〜!」と復唱する。先の一人がこう言う。「あの灯台がキレイなんだ!」と。もう一人が慌てて灯台に目を移して、「確かに!」と復唱する。目を移した瞬間にズレが生じている。同じ景色を見ていても微妙に違うのだ。人と人との意見が一致することは可能なのか。可能ならばどうすればよいのか。
人には両面性がある。あるときには人に親切にしているのに、別のときにはそっけない態度で接している。どちらが本当の自分か分からなくなることがある。親切なだけだとお人好しになるし、そっけなくしていては社会生活が営めないだろう。真面目な私、不真面目な私…いったい本当の私はどっちなのか。
思いは人によってさまざま。「犬」という言葉を聞いただけでも、感情はみな違う。犬好きの人はニッコリし、苦手の人はちょっと腰が引けるかもしれない。同じ犬好きでも大きさ、犬種によっても起こる感情はまた異なるだろう。犬に限らず、苦しみ、悲しみ、楽しみだって同じ感情を持つことはなかなか難しい。どうしたら、同じ感情を共有できるのか。
人と人との意見には違いがあるだけで、変、という考えは存在しない。私は青い色が好き、あなたは赤い色が好きという、意見の並列があるだけだ。相手の意見を動かせば、それが平行。ただ静止させるだけだ。そこには変わっている、とか、なぜなんだという意見の対立はない。犬が好き、嫌いも同じだ。ところがやっかいなことに経験や感情がかぶさってくる。相手の意見を聞くことの難しさと、興味深さはここにある。
街の声、と称して街頭インタビューする番組がある。ティッシュペーパー一つとってみても人にはいろいろな意見があり、いろいろな思いがあり、いろいろな思い出もあって、それを聞くのが私の楽しみである。皆違っていい、思いや思い出も違っていいのだ。まったく同じ意見があったら、合いすぎて一秒で話が途切れてしまうだろう。違うからこそ楽しい、違っているからこそ私の存在も、相手の存在も際立つのだ。
食べ物の好みや服の好みが皆異なるように、人の生き方もさまざまである。経済に生きる人は日々のお金の出し入れに敏感だし、芸術に生きる人は、お金には無頓着ということもある。こうした人が集まって意見が一致することはほとんどないかもしれない。自分の考えや趣味を語りたいと思う一方で、理解されない虚しさも知っている。それらの考えを真摯に受け止めることのできる人のことをカウンセラーと呼ぶのである。
短い人生のなかで、実現できたものはほんのわずか。私たちの歩んできた背後には実現できなかったモノがたくさん列をなしている。あまりにも多いので引きずってしまっていて前に進めずにいることもある。いっそのことそれらを断ち切ってしまえばスイスイ前に進めるのに、どうしても、ああしておけは良かったと思っている。昔には戻れないと分かってはいるのに。
約束とは実現の別名である。約束した時点は今現在であり、すでに会っていることを意味する。あとは身体がその日時に向かって進んでいくだけである。約束を結んだとき、私たちは想像上でその人と会話している。会って会話すればまた会いたくなるのだ。私たちの想像力がいかに大きいかを物語っている。
私たちの記憶はしばしば修飾されている。それを証明するのが、「すごく…だった」、「とても…なことだった」という言葉に表れている。そう思い込まないと感動の記憶が流されてしまうからだ。人間の五感がはたらいているなかで、限られた情報だけを記憶にとどめておくための方法である。感動を感動たらしめるには、感動に満ちた毎日を送るのがよいのだ。
数学の先生が好きだと数学が好きになる。それは理解しやすい。しかし、嫌いな人を嫌う代わりに、その人がしている腕時計が嫌いだったりする。その人のことを直接嫌うと罪意識が発生するので、別のものに置き替えている。こうすることで、相手を非難しなくて済むからだ。言われる方は驚くばかりである。
人はいつも安心しているとはかぎらない。いつ天変地異が起きてもおかしくはない、などと考えてばかりでは身がもたないからだ。ないだろうと思い込みながら生活している。いつも不安なのである。それがために、備えたり、工夫している。不安が私たち人間を考えるようにしてくれている。不安が多ければ神経質になるだろう。なければないで脳天気になってしまうだろう。ときに考え、ときに忘れる、それがなかなか難しい。
安定とは動いていることで生じる状態をいう。自転車は止まってしまえば倒れるし、車の運転もハンドルを小刻みに動かしているから安定して前に進めるのだ。人間の考えもああでもないこうでもないと定まることはない。定まることはあるのか。あるとすれば、それは一挙に方向転換をしたときだけである。片方を切り、片方だけにする、それを決断という。
人は語っていくと気持ちが楽になる。日々のさまざまな思い、快や不快の感情、不平、不満を心のなかにためこんでいると感情がぐるぐると渦をまいて増幅されていく。だから語るとき、話が大きくなるのだ。小さなうちに語ることで放出してしまえば楽になる、すなわちなくなるのである。語るとは放出である。
気は変わる、変わり続けて止まることはない。犬嫌いの人も飼い始めれば好きになるかもしれず、子どもたちの食べ物の好き嫌いも変わる。今機嫌がよい人も次の瞬間に斜めになる。感情のままに暮らすことはできないので、人は平静を装っているだけだ。ときには感情豊かになることも大事かもしれない。その場所はあるのか。
行動は旬である。すぐやるのがベストだ。あとになってからでは遅いのだ。すぐやる勢いのまま突き進むのがよいのだ。あとでいい、と思っていると、あとになってからの仕事が待っている。行動が機敏になれば志向もはやくなる。はやい志向は健康をもたらすからである。