変身
人は変わりたいと思っている。反面このままでいいとも思っている。昆虫のように大変身をとげるように変わることはできないものか。お化粧や仮装は相手をあっと思わせることができる。きっと楽しいに違いない。あとは身体そのものが変われば完璧だ。変化ではなく、変身するにはどうすればよいのか。
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人は変わりたいと思っている。反面このままでいいとも思っている。昆虫のように大変身をとげるように変わることはできないものか。お化粧や仮装は相手をあっと思わせることができる。きっと楽しいに違いない。あとは身体そのものが変われば完璧だ。変化ではなく、変身するにはどうすればよいのか。
人と人との間を取りもとうとすると板ばさみになる。三者関係の難しさはここにある。こちらが片方の味方をすると、もう片方を排除するからだ。私はそんなときにどういう位置をとればよいのか。それは「私」という存在を消すことである。え!居るのに居なくなるとはどういうこと?と思われるかもしれない。それができるのだ。
世界一周クルーズの広告が目に飛び込んできた。あのときの記憶が少し薄れてきているようだ。隔絶された船上の世界に身を置くのもよいだろう。無記名の人として、知らない人たちと接することもよいだろう。纜を解いた瞬間から、人間は「ただの人」に早変わり。そのときいったいどんな景色が見られるだろう。
旅行日和、洗濯日和など、日和とは、何かするのにふさわしい天気のことを言う。反対に、雨のおかげでお休み日和になる人もいるし、俳句を作る方々にとって雨は発見のためのよい天気だと喜んでいる。できることなら、日和に関係なく毎日楽しみ日和を感じることができたら…それもまた退屈かもしれない。
普段のんびり屋を自称している自分でも、せっかちな自分があらわれることもある。電気はすぐに点灯してほしいし、電車はいつも到着していてほしいとも思っている。人やモノにそれを要求するのだから、自分もそれに努めることにしよう。夢の解釈はすぐに伝え、質問には瞬時に答えたい。ほんの一秒でも早く答える。それが現在の目標である。
日本人はことのほか言霊を大切にしている。その言葉を言うと実現する、と思い込んでいる向きがある。戦争で負けがこんでいても、善戦、と言ったりするように、不吉な言葉を避けて表現する。失敗するかな、とか、ダメかもしれない、などと口に出すとその通りになると信じてもいる。反対に、良い言葉を言えばよいのだ。それがなかなか言えない。脳天気と言われるくらいが良いのかもしれない。
私たちはときに、「この景色は見たことがある」と感じることがある。初めての旅先であっても同じことを経験する。そこにきたことがあるのではなく、その景色のどこかに昔のことを思い出しているのだ。それが良い思い出であろうとなかろうと、無意識に刻み込まれた体験を物語っている。いったいそのとき何があったのだろうか。
人と人との意見には相違がある。相手が「天気がいい」と言っても、こちらはそうかな?と思うこともある。「喉が乾いた」、「私はかわいい」、「景気がいい」…相違ばかりだ。その感想の一つひとつに、こちらの感想とが衝突するから疲れるのだ。いっそのこと、こちらの感想を持たなくすればよいのだ。「天気がいい気分…いや、悪くなった…」と感想がコロコロ変わっても平気である。これが「無我の境地」というものだろう。
私たちが人と交わす会話は最近の話題が多い。それは聞き手もその話題について知っているかもしれないと想定されるからである。その話がきっかけとなって話が紡ぎ出されるからである。それが次の話題に連鎖し…の繰り返しがそのうち尽きてくるころになって本題が出されることになる。その頃になると聞き手の方がいささか疲れてくることがたびたびである。語る方は気持ちよい。聞き手も気持ちよく聞くにはどうすればよいのだろうか。
太陽のもとで人はみな平等。そこには、老若男女の区別はない。同じ悩みを抱えているし、命令されながらの仕事は誰もが辛いし、いつも空腹を嘆いてもいる。一方で、服を見れば華やかな人がいたり、カップルが笑顔で自分のわきを通り過ぎていくのを目のあたりにすれば、うらやましく感じるのが人情。写真館のショーウィンドウには正装に身を包んだ家族が笑顔でプリントされていて、どんな仲良し家族なのかと想像させられてしまう。それが普通ではないか。新聞に目をやれば、人生相談の欄は、苦しみ、悲しみの言葉で埋め尽くされている。すべての人が喜びと悲しみの両方を背負っていることを知らされる。自分だけが不幸ではない、そういう知識が感情に追いつかない。太陽は今日もすべての人に満遍なく照らし続けている。
人生の道は自分で決める、というとどこか勇ましく聞こえるが、実は誰かの後押しが必要だ。「この道を行く」と宣言したことに、それで行こう!と誰かが言ってくれないと、行くべき道が確定しないのだ。身につけた洋服に、誰かが似合うね、と言ってくれることで自分を知るように、私たちは他者による言明が必要である。ときには、もう一つの道を断念させてもらう必要もある。自分で決めることの困難さはこのような所にあるのだ。
レストランのテーブルの上部には太陽のような灯りがあって、運ばれた料理の味を引き立てている。加えて、テーブルを囲む家族の顔を照らす役割も秘めてもいる。その空間でいったいどんな話題が出されているのだろうか。さきほど観た映画の感想だろうか、学校のこと、未来のこと…いろいろな話題を出し切ったころには、お皿の上のご馳走も姿を消し、テーブルを囲んだ家族も家路につくころには、太陽を模した灯りも消されて、レストランにも静寂のときが訪れることだろう。
本音は言うことができない、というよりも、言ってはならない言葉である。もし口に出したら非難されることを知っているからだ。野球選手が言う「皆さんのご声援のおかげ」という言葉もそうだ。「自分の努力のせいです」、と言うことは禁止されている。ぼちぼちです…大丈夫…がんばります…などなど、本当のことは言わないように私たちは訓練されてきた。おかげで、人から非難されることはなくなったが、苦しみ、悲しみの言葉を言い出せなくなってしまった。大人になるとは、抑圧を受けることである。
語ることと傾聴することのどちらが難しいだろう。語ることは、予め準備した内容を語ればよい。一方の傾聴は、語りに対して、相手の辞書に合せて聞かなければならない。相手がどんな反応を期待しているかを考えて聞かなければならない。わからなければふたたび聞かなければならない。そんなわけで、傾聴の方が難しいのである。
心を幸せで満たすことは可能だろうか。クルマを満タンにしても、走り出したときからガソリンは減り始めている。新車も手に入れたらすでに中古車だ。満腹の直後から次の食事に向かって空腹が待ち構えている。満たされた、と感じるのは須臾のときだけである。もし満たされ続けていたら、きっと未来に向けて楽しみを思い描けないだろう。そうしたら、そのとき楽しめば良い、そう考えて行くことにしよう。
失なう苦しみはたとえようもない。失物・失念・失恋、いずれも元はと言えば私の所有物だ。それがあるときを境に目の前から姿を消すのだから。もともと自分の持ち物でなかったならば、最初からゼロだからなんの痛みもない。ところが、私の手の中にあったはずのものがパッと無くなるのだ。もう恋なんかしたくない、などと歌詞のようなことを口走りたくなるのも当然である。人はその処理をある方法でなくすことを覚えたのである。
物体は見る角度でその印象は千変万化する。そこに、照明の当て方、光度の強弱が加われば印象はますます異なってくる。物体でさえ変化して見えるのだから、人に対する印象はもっと変わるのは当然だ。そこに他人から伝わってくる評価や表情、経歴などの付帯情報が加われば、ますますその人の印象を複雑に彩る。その人を正確に知るためには、何を基準にすればよいのだろうか。
私たちが、そのことについて「知っている」ことも、どれだけ知っているのか。浅草に詳しいと思っていても、その地域のすべてを知っている地域の人に比べたら、ほんのわずかである。歴史に詳しい、ある国について知っている、音楽に、絵画に…はたして専門家ほどには知ってはいないのではないか。知っていると思い込んでいるのが実情ではないか。同様に、自分のことについても知っている範囲は極めて狭いのかもしれない。
挨拶はなぜするのか。挨拶には挨拶で返さないと叱られる、ないしは嫌われること間違いなしである。ところが、挨拶の言葉にはさほど意味があるとは思えない。「今日は」、「やあ」など、言葉としての意味はない。「グッドモーニング」を日本語に翻訳しても意味を感じられない。挨拶の意味とは、互いが互いの存在証明になることである。自分が生きていることの証明は、他者が声をかけてくれることでなされるのである。
物事に良し悪しの区別はない。良し悪しは表裏一体だ。積極的と言えば聞こえはよいが、落ち着きに欠けるかもしれない。優柔不断と言えば心が定まらないな人に見えるが、慎重な人ととらえればよいではないか。マイナスの言葉だけで暮らしてきたら、きっと自分は何か足りないと感じるだろう。プラスの言葉だけをかけることで、人生もプラスに生きられると感じるに違いない。
人が「楽しかった」と言うとき、聞く側はどのようにして楽しかった気持ちを共感することができるのか。答えは言葉によってだけ、である。それにも関わらず、その言葉を言う心理は何か。それは一緒にその言葉を言ってほしい気持ちである。もし共感してくれることがなかったとしたら、気持ちは半減するだろう。楽しかった、美味しかった…共感してもらうことで、気持ちも味わいも倍増するに違いない。その言葉を復唱してあげることである。
品物を選択するとき、私たちはものに触れて選んでいる。触れなくてもよいように思われるが、どうしても触れてしまう。その起源はきっと母との触れ合いにまで遡るのかもしれない。母の手に触れながら、私を歓迎してくれるかどうかを確かめながらそっと伸ばした私の手を握り返してくれたのは遠い日の記憶。あの日はもう帰っては来ないと知りつつ、もしかして…とそっと手を伸ばしているのかもしれない。
生きている限り不平がなくなることはない。心に溜まっている不平はたまる一方だ。それは言うこともできないまま心の奥底にとどまり、やがて体の不調となって表面化する。だから友達に訴えることで解消しようと試みるが、逆に友達の愚痴を聞くことになるので、総量としては変わらない。だから再びため込んでしまう。こうした繰り返しのなかでますます不平はたまり続けていく。それらが大洪水となって病気やストレスとして現われる前に解消しておきたいものだ。
人の印象は髪型が8割、と美容師は言う。メガネは顔の一部と言ってみたりと、外見で判断するのが普通ではないか。外見を見ずに人を判断できないものか。できるとすれば、それは言葉である。少ない言葉数でも、その人自身が表れるのだ。言葉の中に、長い年月培われてきたものが出てしまう。一度口に出してしまえば後戻りできない。そうならないためにはどうすればよいのだろうか。
出社の服はスーツ、日曜日は遊び着、近所に出かけるときは普段着に着替えて出かけるだろう。服と同じように、相手によって異なった自分を振舞っている。子どもの前では父や母であり、そこに自分の両親が現れれば私が子になる。このように、私たちは瞬時に着せ替えながら対応している。着せ替えに失敗して、普段着で出社すれば周りから奇異の目で見られるだろう。失敗しないためにはいろいろな服を用意し、失敗しないような態度を身につけるように教わってきた。本当の私はいったいどこに行ってしまったのか。
目が覚めたら今日一日の段取りを考える。それは未来への志向…などと書くと大げさだろう。それは未来の自分を創造することかもしれない。すでに出来上がったものは過去だ。作家が次々と作品を創作するように、と書けばまた大げさだ。しかし、私たちは仕事や料理、待合せ…すべてに未来を創造しているのではないか。近い未来、中位の未来、そして遠い未来を創造しよう。
願えば叶う、という言葉がある。ほしいモノを強く願うと実現する、という。その逆に、願わなければ叶わない。願うとは、100%の願うこと。赤い車がほしいと思っていても、わずか1%でも「目立ちすぎるかな」という気持ちがあると実現しないのだ。その1%が意識できない。無意識の奥深さはここにある。
味わい深い人生とはいったいどんな味か。味には、甘み、辛み、塩味、酸っぱ味、苦味、旨みの他に渋みがある。甘いものを食べたあとで塩辛いものが欲しくなることで、味覚が一つひとつ増えていくのである。子ども時代に味わえなかった渋みも、歳とともにわかるようになる。歳をとるとは、味の幅と、深さが増していくことなのである。
私たちは自分の行動に順位をつけながら暮している。鏡の前で髪型を調整している最中に、家を出る時間に気づけば、髪型は順位を一つ落とされる。腕時計を忘れたことを思い出すころにはさらに順位は転落する。仕事・家事あらゆる作業の順位を入替えながら生活していることを考えると、人間の頭はすごいと思わざるを得ない。
関心事は人によってさまざま。椅子に関心がある人、犬、猫、紅葉、雪…みな違う。関心を示すものはその人自身である。その人が犬や葉っぱという意味ではなく、そのものの背後にある「何か」である。それは得られなかったものかもしれず、憧れのものだったかもしれないものだ。それを意識することに抵抗があるから思い出せないのだ。そう考えると、関心を示しているものは、それそのものではなく、代理のものかもしれない。
機嫌がよい、悪いの違いはどこにあるのか。ほしいものが手に入っても機嫌が悪いときもあり、特別なことがなくて、機嫌がよいときもある。そんなとき、天気のせいなどというが、すべての人が天気で左右されているわけではない。機嫌の良し悪しはすべて無意識のしわざである。原因を知ることはほぼ不可能。もし知ることができたら自分をたやすくコントロールできるはずなのに。