未体験(2)
未体験のことをするとどうなるか。疲れる。いつもとは異なった筋肉を使うからだ。いかに同じ筋肉しか使っていないかの証明だ。同時に、違う脳を使うからそれも疲労の元だ。これで少しは脳細胞が活性化したと思い込みたい。
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未体験のことをするとどうなるか。疲れる。いつもとは異なった筋肉を使うからだ。いかに同じ筋肉しか使っていないかの証明だ。同時に、違う脳を使うからそれも疲労の元だ。これで少しは脳細胞が活性化したと思い込みたい。
今年もあと数日を残すところとなった。今年計画していることを実現させる時が目前だ。今年蒔いた種が発芽するとよい。何でもよい、どんな些細なことでも計画には違いない。些細ことが立派な大木になるかもしれない。計画は自分で立て、自分で実行し、そして責任をとることも大事である。
私たちには未体験のことが多い。ほとんどが未体験ではないか。男にとっての料理・炊事・洗濯…それらも一部の人以外は未体験であろう。女性は仕事もできるから、男性にとっての未体験はさらに増える。年末年始、体がなまらないためにも未体験に挑戦してみることにしよう。
人生とはやり残したことの山積みである。あれもこれもやっておけばよかったことばかり。もっと遊んでおけば…もっと学んでおけば…やんちゃもしたかった…。そう考えると、今していることは昔やり残したことの再現かもしれない。だったらすることがいっぱいだ。楽しまなくては!
樹は上に向かって伸びる。重力に逆らって伸びる。重力に逆らわずにしたがってしまえば樹は生命は得られない。私たちも重力に逆らって立っている。生きるとは自分自身を打ち樹てることだ。何を樹立すればいいのだろうか。
心に響く言葉とはなんだろう。それは、相手が求めている言葉を言ってあげることである。ところが相手がどんな言葉を求めているかはこちら側には分からない。分かるためには、相手の言葉をよく聞いていれば、ほしい言葉は必ず相手の言葉のなかにあるのだ。ちょうどマイクのエコーのように、同じ言葉を返すだけでよいのだ。簡単といえばこれほど簡単なことはない。それを聴くというのだ。
人はいろいろな思いを抱いている。疫病が退散してほしい、戦争が終結してほしい…。しかし、それらは実現しない。自然淘汰によるものかもしれない。生命そのものがもつ性質と言うかもしれない。何かの存在がそうさせていると言えば少し宗教がかっているといわれそうである。それにもかかわらずそれらは太古の昔から存在している。答は生命の叡智としか考えられない。叡智には触れることができるのだろうか。
人はいろいろな思いを抱いている。疫病が退散してほしい、戦争が終結してほしい…。しかし、それらは実現しそうにない。自然淘汰によるものかもしれない。生命そのものがもつ性質と言うかもしれない。何かの存在がそうさせていると言えば少し宗教がかっているといわれそうである。それにもかかわらずそれらは太古の昔から存在している。答は生命の叡智としか考えられない。叡智には触れることができないのだろうか。
人は一人では生きていけないことが基本である。ペットボトル一つ取り上げても私には作れない。だからなんとしても人の支えが必要である。大人は経済的になんとか支援を求められるが、子どもたちはそれができず、私を支えて!愛して!と心のなかで叫んでいる。それを支える親御さんたちは自分だけでなく、子どもたちの分まで支援の手を100パーセント差し伸べなければならない。その支え方を大人も実は知らないのだ。大人も子どもも支え方がわからないままなんとなく大人になるのである。支え方とはいったいどうすればよいのか。
抑えようとしても抑えられないもの、それが涙である。恥ずかしいと理性で知っていてもつい涙が出てしまう。悲しみの涙か、感動の涙か、それともなぜか分からず出て来るものなのか。前の二つは理由が分かっているものだ。肝心の三つ目の涙の意味が分からない。それが無意識だ。きっと自分でも気づくことのできない記憶が涙に置き換わっているのだろう。それはいったい何なのか。
満足とは、欲望との一致である。ピッタリしていなければならない。わずかな違いがあれば満足とは言えない。赤いセーターがほしければ、赤でなければならない。それも自分が思い描いた赤でなければならない。わずかな色調の違いも許されない。自分のほしい赤と出会ったら満足か。光線のせいで朝と夕方では色合いが違う。違いが気になる。そう考えると、満足は手に入らないのか。いつ満足は得られるのか。
美は人を沈黙させると言われる。すらすら解説するようなものは美ではない。スポーツの美技などもそれを見た瞬間「無」の状態が一瞬訪れているのだ。その後、一気に歓声に変わるのである。一瞬の沈黙、それが「無」である。
「元気出して!」とか、「明るくなれ!」と人は言う。それで変われたら誰もが元気になれたり、明るい性格に早変わりだ。そう言われれば、こちらも、「はい!」と言わざるを得ないではないか。しかし、そうは変われないのが現実だ。それどころか、返って自信がなくなる可能性が高い。簡単に言わないでほしい。落ち込んでいる人に励ましの言葉は禁物だ。人が人を励ましてしまうのはなぜなのだろうか。
人間は事実を言うことができない生物である。抑圧という防衛がはたらいているせいだ。子どもは平気で大人を批判する。しばしば教師でさえも批判の対象にしてしまう。その批判も家に帰ってからに限定される。教師の耳に届かないように努力している。そのおかげで、学校でいい生徒が演じられる。すなわち、抑圧を受けることは大人になることである。親は聞いてあげよう。事実を聞くことに徹してあげよう。
人と人との意見が一致することはあるのだろうか。そう思うのは、相手がこちらより少し情報が少ないときかもしれない。反対に、こちらが教わりたくなるほどの情報を相手が得ているのか、のどちらかである。相手より先を行くか、相手より無知であることか。生き延びることを選択したい、もっと良い人生を生きるために。
聞くはただ聞く、聴くは相手のことだけに向かって聴く。聴の右側は徳の右側。「直き心」すなわち、真っ直ぐ対象に向かっている姿。視聴覚とか、音楽を聴くときに使う文字。聞き流してはいけないのだ。しかし、説教や耳ざわりな声は聞き流してよい。そのときは人間の耳の選択能力を使えばよいのだ。
生まれた土地の匂いが脳にインプットされているといわれる。その匂いに触れたときに懐かしい感じがするのはそのせいともいわれている。その匂いはいつか無意識に格納され、その後さまざまな匂いにとってかわられる。香水の匂い、ご馳走の匂い、お香、花…そして振り返って土地の匂いに戻る。その奥にある匂いの原点はいったいどんな匂いだったのだろう。
大学教授と立ち話をしているところに、突然、彼の叔父が現れたのである。「誰々チャンではないか!」と告げたのだ。その瞬間、大学教授の顔から精気が消え、その場から姿を消したのだ。その叔父にとっては「誰々チャン」かもしれないが、その場では教授と呼ぶべきである。叔父は親しみを込めて言っているつもりが、本人にとっては場を読んでくれないかな?と訴えているようであった。
人と意見が一致することはあるのだろうか。人が「寒い」と言うとき、気温のことなのか、懐具合のことなのか、恋人に袖にされたことなのか分からない。今日は温かいよ、と返事しても相手が納得することはないだろう。どうしたら一致するのか。それは「寒いね」と返事してあげることしかないのだ。その後に返って来る言葉のなかに真意が語られるだろう。そのとき初めて、真実が明らかになるのである。
私たちの心の中には何が入っているのか。心の中は言葉がいっぱい入っている。それらはバラバラではなく、互いに繋がり合っている。繋がり方は人によって違うので、お互いに意見が合うことは極めて稀である。そこに誤解が生じるのだ。「冬」と聞いて、スキー愛好家は胸が熱くなるのに、寒さが苦手の人には寒いとしか思われないといった具合だ。互いに互いが理解し合うにはどうすればよいのか。
私たちは色彩によって大きな影響を受ける。無意識的に私たちのなかで決まっているからだ。赤は情熱、緑は穏やか…というように、色彩によって自分の気持に変化が生じる。気持が落ち込んでいたら赤や黄色の服を着るのも良い。冬の服はどうしても黒っぽくなりがち。なるべく明るい色を着るようにしたい。
高校では年に一度マラソン大会が開催される。抜群に足の速いA君がいたので語りかけた。「最後まで走り切れるか自信がない」と。するとA君はこう言った。「俺もだよ」と。あれほど足の速いA君でさえ自信がないと聞いたとき、みんな感情は一緒なのだと感じた。親しみを感じた。これが友情の始まりだった。
準備は未来への投企である。未来を考えるとは、今ここで起きているということだ。何をどれだけ用意し、どう組み合わせるか、未来に生きていると同じである。朝起きるのも、食べるのも、すべて未来をすでに私たちは生きている。生きるとは考えることに他ならない。
難しい本ほど脳細胞を活性化させてくれるものはないだろう。簡単に書いてある本は、さーっと読み飛ばしてしまうので、記憶に残らない。噛めば噛むほど味がしみ出てくるような本は取り組みがいがある。通い慣れた道を歩くだけでなく、ときには歩きにくい道、行ったことのない場所が新鮮に目に映るように、気持ちに余裕があるときは、チャレンジしてみるのもよい。内容が分かるか、分からないかは問わずに飛び込んでみることである。
レストランのメニューを開くとそこはお祭り騒ぎだ。肉もさかなも麺も飯もすべて揃っている。このなかから一つ二つ、三つに絞り込むのは用意ではない。隣席ではすでに宴会が始まっている。反対側の席にはメニューにあったのかと思われる皿が運ばれている。何も食べたくない、というときもあったかもしれない。あれも食べたい、これも食べたいと思うのは欲がある証拠、と考えることにしよう。
■お知らせ
このたび、ホームページをリニューアルし、セラピスト名も、最上高樹と改名いたしました。今後ともよろしくお願いします。
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本格的な冬がやって来た、と言っても、本格的な冬とはいったいどんなことをさしているのだろう。寒いと感じる人もいるだろう、スキーシーズンに入ったと思う人もいるかもしれない。正月を思ったり、春も遠くないな、と感じれば、冬とは異なった連想になるだろう。本格的の言葉がしめしている意味はみな違う。ここに人と人との誤解が生じるのだ。私も本格的な冬日備えてコートを出すことにしよう。
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私たちはどのようにして目覚めるのか。誰かが起きろという信号を発したときに起きるのだ。その信号は言葉である。その言葉は誰の言葉かと言えば自分が発した言葉だ。私の中にもう一人の私がいてその人物が、起きろと言っているのだ。あと10分寝ていよう、と言うのもその人物だ。私はもう一人の他者である。
私たちは一日のうち三分の一は眠っている。家の設計では、寝室を最も心地よい位置にするという考えもあるくらいだ。東南に窓がある部屋に住んでいた頃、夏場は朝日がひどくて寝ていられなかった。最近は朝早くから目が覚めて閉口している。眠るにも体力が必要だ。寝ながらの作業は夢を見ることだ。夢の世界であなたはあなたの世界の住人になる、と言ったのはフロイトである。今夜はどんな夢を見るのだろうか。
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美味しいものを食べたら、しばらくその記憶は残る。人によって、朝食べたことを忘れる、という人がいる。体が記憶していないのだ。だからいくらでも食べてしまう。お腹がいっぱいと感じるのは正常なのかもしれない。
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私たちは毎日、時時刻刻予想し続けている。足を踏み出すのは、この先に踏み出しても大丈夫と予想しているおかげである。次の一歩を踏み出すことに自信がない人がいない。それは裏切られたことがほとんどないからだ。
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人間は予想する。たとえ外れてもなお予想するのは、自分への期待があるからだ。それがなかったら未来を待つことはできないだろう。自分で予想したものなら、外れても期待をかけたのだから、素晴らしいと感じる。予想通りになればもちろん自信につながる。これからも期待をもって未来を見つめることにしよう。
ブティックの店内でお客さんが店員と相談している。いわく、私は緑が好きだから、と。店員は一生懸命、緑の服をあれこれ探している。てっきり緑の服を買うだろうという私の予想は外れ、黒のカーディガンを買っていった。緑・緑と試着するだけで、着た気持ちになるのです、と店員は語ってくれた。私の分析はまだまだだ。
窓から射し込んで来る朝の光線は柔らかい。雲がいたずらをして光線を揺るがせるのもいい。そんなときはLEDライトを消して仄暗い部屋でしばしまどろむのも一興だ。目が悪くなってきたのもその効果を高めてくれる。視力が衰えたことで、感性が強まってきた、そう思い込むこともまた一興である。