合わせる(4)
人がこちらに合わせてくれていると、いつの間にかそれが当たり前のようになる。いわゆるイエスマンばかりを周りに集めるようになるということ。さまざまな意見をよろこんで聞けるようにしなければならない。そのためには、自分の意見をよろこんで聞いてくれた体験が必要だ。それが親子の関係でなされていれば良いのである。
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人がこちらに合わせてくれていると、いつの間にかそれが当たり前のようになる。いわゆるイエスマンばかりを周りに集めるようになるということ。さまざまな意見をよろこんで聞けるようにしなければならない。そのためには、自分の意見をよろこんで聞いてくれた体験が必要だ。それが親子の関係でなされていれば良いのである。
「解」の文字は、牛の角を解き放ち、刀でバラバラにする意味の文字。こんがらかった問題が突然バラバラになって解ったときに使う。分、判とは違うので、何かがわかってスッキリしたというときにどうしても解の文字をつかいたくなるもの。日本語は視覚的に豊かだなと思う瞬間だ。
合わせる、ではなく今度は合わせられる側に立って考えてみよう。合わせてくれると、これはこれで心地よい。こちらの提案を支持してくれたように感じるからだ。自分の注文メニューがエコーのように返ってくる。私は食べません、とか、えー!などと言われて嬉しく感じる人はいないのではないか。人間は合わせてくれる喜びをもつ一方で、相手の主張も喜んでも聞けるようにしたいものである。
相手に合わせていると何が良いか。それは居心地が極めてよいこと。相手から怪訝な顔をされることがない。相手と同じ分量を食べているせいもある。そうしているうちにますます自分を主張することから遠ざかる気がするかもしれない。その一方で、そのままが普通になってしまうこともあるだろう。どちらを選択するかが問題である。
私たち日本人は、相手に合わせるのが善で、自分を主張するのははしたないことと暗黙のうちにすり込まれてきた。レストランで隣席の二人が店員に注文している。上司が注文した料理を、部下と思われる男性が「私も一緒です」と返答している。ついで、食後のデザート・飲み物までも「私も一緒です」と答えている。そのシーンに関心が向いたのも、かつて自分もそうしていたからだと思い出したのだ。気になるものはすべて自分自身である。
「私」という存在はもともと存在しない。相手が現前した瞬間に現れるのが「私」である。目の前に両親が現れれば、私、ボク、オレになり、勤めている会社の社長の前では自分になり、子供がやって来ればお父さん、友達が来ればカッチャンになったりする。店に入ればお客様になり、Aランチをご注文の方に変身する。いったい本当の私はこの世に存在するのだろうか。存在するとすればどんなときか。
音楽でハーモニーを奏でるには、主旋律より目立ってはいけない、が原則だ。相手を際立たせる、邪魔しない、調和が大事だ。日常生活でのハーモニーとは、自分を出さず、相手を立てることだ。それでは自分がなくなってしまうではないか、と思うかもしれないが、このことを語らせたら右に出るものはいない、と思えるものを一つ持てばよい。ただし、「持つ」だけ。見せびらかしてはいけない。
スマホを開く度に情報が目に飛び込んでくる。文字が読めるからつい読んでしまう。思わせぶりに表記してあるから引き込まれてしまう。いつの間にか「読まされて」いたりする。それはこちらに好奇心があるからなのか。好奇心とは、本当に「好き」なことというより、「奇」のほうに心奪われているからかもしれない。好奇心より探究心が優勢だと良いのかもしれない。
私たちはすべて模倣でできている。オリジナリティは幻想である。悲しいときに泣き、うれしければ笑う…すべて模倣だ。その際オリジナリティを出すことは強く戒められる…それも模倣である。日本語も服装も模倣しながら私たちは身につけてきた。オリジナルなき模倣の世界でいかにして自分を出すか、それを考え続けながら生きていく、それしかないのである。
ネット上は情報だらけ。読むとなにやら物知りになった気持になるが、少し経つと忘れてしまう。だからまたネットを開く、その繰り返しだ。しばらくはネットとおさらばしようと考えて街に出るとそこも情報であふれかえっている。自然に触れたくなる人の心境はそれである。自然は何も語らず、説教することなく、ただそこにいるだけである。
同じ言葉を繰り返す、それが復唱。こちらの言葉が復唱されたとき安心感を得る。レストランや美容院の予約はインターネットではなく、電話による予約が多いのもうなずける。ネットは一方通行、電話は相方向だからだ。予約に限らず、普段の会話もそうあってほしいのだが、そうはいかないのが現実だ。
極める、とひとことで言っても、永遠に極められないのではないか。もっと美しいものを、もっと心地よいものを…もっとをほしがるのが人間ではないか。これで満足と思ったらそれでおしまいだ。極めるのを目的としつつ到達できない、それが人間を長生きさせている。まだまだだな!と思う、それでいいのだ。
困難は自分で作り出しているのかもしれない。妄想だ。思い切って取り組んでみたらあっさりと困難を克服できたということもあるものだ。茨の道と思って斧を振り下ろしたら、茨がたちどころに消滅するのだ。振り下ろすこと、それを勇気と呼ぶ。
生活を円滑に過ごすとは、ストレスのない生活を送ること。とはいえ、毎日悩むことだらけ。その都度、こうすればよいという方法を講じることが大事だ。主張するときは主張し、引くときには引き、謝るときには謝る。リズムを崩さないようにメロディをリズムに載せていくことである。それを考えるための方法が理論である。
一日働いては休息する。動と静の反復が私たちを活かしている。それがリズムだ。友だちとハーモニーが共感になるだろう。生活に美しい流れがあればメロディだろう。この三つが人間の頭のなかで奏でられているのだ。
品物でもなんでも私たちはそのものに触れて買うか買わないかを決めている。触らなくても良さそうなものだが、つい触ってしまうのはなぜなのか。それはかつて母に触れたときの安心感が私たちをそうさせているのだ。いったいそのとき、安心感が得られたのだろうか。私たちは今でも与えられなかったそれを永遠に求め続けているのかもしれない。
天候で人の気持は左右されるのか。天候の上に自分の気持を見いだしているのではないか。気持が落ち込んでいる人にとっては青空も目にまぶしく見えるだろう。気分上々の人には雨も関係なく見えるだろう。私たちが見ているものはすべて心の投影物なのである。
おおいに忙しくすることがベスト。本を読む暇がないくらいがちょうどよい。もし読みたければ数行読めばよい。どのみち疲れてくるからだ。そのとき休めばよい。いつになったら静かな境地になるのか、それはお墓の中に行ってから味わえばよい。
指摘されるとどんなことでも気になるもの。相手は親切のつもり言っているのかもしれないが、言われた方は気になるもの。あなたの歩き方は変わっていますね、などと言われても困る。何十年も支障なく暮らしております、などと反論しても相手はすまし込んでいる。だから何だと言いたい。放っておいてほしい。
人生の下り道に差し掛かったらどうすればよいのか。下りとは、その方法が間違っていることを意味する。頂上を越える頂上を作るのは大変だからだ。異なった道で頂上を目指すことである。それを潜在能力と呼んでいる。
トップに立ち続けるのはたいへんだ。本人にとって2番は奈落の底である。私から見れば全体のなかの2番は夢のような世界であっても、本人は気が済まない。オリンピックでも金メダルだけがクローズアップされるからスポーツ選手の負担はいかほどのものか、測り知れない。
完璧はあり得るか。もし完璧が成立してしまったら先がなくなってしまう。うまくいかなかったからこそ明日に賭けられる。完璧を目指しつつそこに追いつけないところに希望が残るのだ。トップオブザワールドに立ってしまったらあとは下るしかない。ナンバー1になったらあとが怖いと感じるのはそのためである。もし立ってしまったらどうするか。
週に2回は、柳橋の料亭で作ってもらう弁当を取りに行くのが私の仕事だった。小暗い柳橋の路地を歩くと、どこからともなく三味線の爪弾きが聞こえる。立ち止まりそうな足を急がせる。柳橋は、向島、新橋と並ぶ三大料亭街の一つ。田中角栄が足繁く通った料亭の黒塀の横を、漆塗りの弁当箱を風呂敷包ごと抱えて職場に運ぶ。父親と食べる柳橋の味が料理の原点かもしれない。
中毒かと思われるほど夢中になっていたことも、次第に毒気が消えていくような気がする。夢中になる状態をどうしたら持続できるか。それには、異なったモノに関心を向けることだ。聞いたこともないジャズや邦楽を聞いたりするのもよい。昔、街を歩いていたときに聞こえてきた三味線の音は、路地に響いていた風の音だったのかもしれない。
私たちの不満は尽きることがない。日常に出会うことのうち四つに三つは不満という統計もある。出かけようと靴を見れば靴紐は緩んでおり、電車内には席がない。捜し物はいつも見つらず、計算はそのたびに間違ったりもする。一番不満なことは、その不満に慣れてしまっていることだ。それを我慢しているととらえるか、マヒしているととらえるか。それが問題だ。
モノは手に入れるまでが楽しい。手に入れたときからそれは「欲しいモノ」という地位から転落する。それまでは遠くにあってキラキラと輝かしい存在であった。それが一気に目の前にあるのに、無いという不思議な存在になり果ててしまうのだ。私たちは再び欲しいモノ探しの旅へと旅立つのだ。私たちが真に欲しいモノの正体とはいったい何なのか。
夢中になって何かにのめり込んでいるときに注意されたことはないだろうか。「それよりこちらを先にしろ」などと言われれば、そのことの上に叱り言葉がくっついてしまうのだ。そのことをするとき、叱り言葉が想起されるのだ。その瞬間、好きなことに蓋がされる。それこそが本当に好きなことかもしれない。
好きなことをすればよい、などと言われたことはないだろうか。そう言われても、肝心の好きなことが見つからないのだ。見つからない、とは、あるということ。見つけようとしても見いだせないとはどういうことか。好きなことは極めて強い力で押さえつけられているものだ。好きなことの上に蓋のようなものがあって、それが覆い尽くされているのである。その蓋が取れたとき、好きなことが見つかるのだ。
目標とは、たとえ掲げたとしてもいつの間にか忘れるものだ。しかしそれでよい。それが無意識だからだ。目標としている間に、熟成されて体の隅々に浸透してくるからである。そしていつの間にかそこに向かっている、それが目標と呼ばれるものであろう。
自分にとって未体験のことは他の人にとってはさほど興味がないこと。もしそんな体験があったなら、そっと自分のなかに積み重ねていけばよいのだ。ことさら声を大にして他人に向かって語ろうとすれば、相手はそんなことはもう体験済だと言うかもしれないからだ。それは未体験とは言えなくなる。人は自己満足と言うかもしれない。自分だけの秘密を持つこと、未体験なことをこれからも積み重ねていきたい。
明けましておめでとうございます。今年も皆さんにとりまして、充実した一年になりますよう心より祈っております。今の自分を知り、天命を知り、誠実に生きることが大切です。自分を知るとは、自分の弱さを知ること。知ればもっと学びたくなるからです。天命を知るとは、人とは比べられない潜在能力に気づくことです。誠実とは、天命を知ればその道を一心に進む、自らが誠実に生きることができるからです。今年も皆さんが大活躍できる年になることを念願しています。