思い通り
人生は思い通りに行かないことばかり。電車はいつも来ないし、買いたいものは先を越され、思い通りの品物を手にしても、数日後には新製品が登場したりする。自分で決めたことを受け入れるにはどうすればよいのだろうか。
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人生は思い通りに行かないことばかり。電車はいつも来ないし、買いたいものは先を越され、思い通りの品物を手にしても、数日後には新製品が登場したりする。自分で決めたことを受け入れるにはどうすればよいのだろうか。
人生は出会いがすべてである。人との出会い、モノ・書物・仕事…あらゆることは出会いである。自分を高めてくれる人と出会えるかどうかはその一事にかかっている。その人の無意識が出会いを決めている。私たちは私たちのなかにある無意識に導かれるようにしてそれらと出会うように仕向けられている。どんな人生を歩みたいかも、その無意識を自覚し、ときには書き換えることで決定づけられのである。
しとやかな女性と思っていた人が、ときに男性的な振る舞いをしてハッとさせられるときもある。反対に、男性の中にも女性的な面が出てしまうことで悩むこともあるだろう。両方あってよいのだ。女性的な面だけでは騙されたり、いじめられたりするだろう。ときには男性的になる必要がある。男性にも、ムードも優しさもないようではこれまた堅苦しいだけの人物になること請け合いである。大事なのは、両面があることを自覚することである。
話がはずむとはどういうことだろう。相手の話に同調して話を後押しし合うことだろう。同郷、同年代という場合、話がはずむだろう。だから人は同好の志を求めるのである。ところが、「同」の文字で話が合うことはめったにない。どうすれば話題の異なる人と話をはずませることができるだろうか。
水はサンズイ、木は木偏…文字はそれだけで世界、一つの宇宙。間の字は、門構えと月が合体した文字。門の隙間から月明りが差し込んでいるさま。文字を見ているだけで景色が見える。たまには、本を閉じて文字と対話しよう。
仲間内ではお喋りができても、公の場ではからっきし喋べることができない、なんてこともある。喋り言葉と語り言葉とは違うのだ。喋り言葉には主語が不要だ。語り言葉には、「私はこう思う」とか、「あなたはこう感じているのですね」と言うように、私、あるいは他人をいったん第三者に置き換えて、私が「かくかくしかじかこう考えている」と、私を代理しなければならないのだ。私を他人として眺め代理してやる、こんなに難しい訓練をいつ、いかなるときに教わってきたのか。
読みさしの本が積みかさねてある。いつでもよめるさ、とたかをくくっている、それも余裕。本の背表紙を眺めるだけでも読んだ気になっていたりする。それもまた余裕。ちょっと手にとって読み始める。引き込まれていく。著者の筆致の強さだ。その後に来る静けさ。これもまた余裕かもしれない。
私たちはいつも、誰ともどんなモノとも対話している。レストランのメニューとも対話している。自分の食欲とも対話している。さらに、迷っている私に、これにしろ!と言っている私もいる。そんな対話はすべて心のなかで行われているのが普通である。もしそれを口に出したら要注意だ。
赤ちゃんが母を認識するのは「匂い」だという。目も見えず耳も聞こえない赤ちゃんにとっての唯一の識別能力だという。私たちが匂いを嗅いで懐かしく感じるのは、きっと最初の匂いに出会っているからなのかもしれない。
何事もかたちから入るとよい。本を買う、スポーツシューズを用意する、楽器を買う…たとえ長く続かなくてもよい。それがきっかけとなって本当の欲望にめぐり合える。私たちの身の回りにはそんな道具であふれている。チャレンジする精神を尊ぶべきである。否定せず自分を見守ろう。
相手への関心も、度を過ぎると「監視」に早変わりだ。さらにエスカレートすればストーカー行為に及んだりする。それは自分に関心を向けてくれなかったことの代理行為と考えられる。その情熱を学問や研究、美へのあくなき探究心に変換する機能を知性と呼んでいる。
願い事は未来である。願い事を口に出したら、それは未来で実現しているのだ。実現しないことは語れないからである。私たちはどれだけ未来を語ることを否定されてきただろうか。その残骸をもう一度検証しよう。
情報が世に溢れている。街中に限らず家庭にも電話機の中にも押し寄せてきている。目がつい読んでしまう。それは知っていることの確認かもしれない。知ったそばから忘れていくような情報だ。本当に知りたいこととはいったい何だろうか。
食事の前は必ず「いただきます」と言う。人は一人では生きていけない。その感謝の言葉である。すると、すべてのことが自分一人ではできないことを知るだろう。それほどまでに、私と言う存在はちっぽけな存在である。たいした存在ではない、と知ったとき、すべてのモノや人に頭が下がるのだ。
私たちは顔が違い、声が違い、体つきも歩き方もすべて異なっている。当然、生き方、考え方も違っていてもおかしくない。にもかかわらず人はこちらをなかなか受け入れてはくれない。せめて相手を受け入れたいとも思う。それがまた難しい…難しくない、どちらだろうか。
目の前にあるもの、それは幸せである。それはいつも目の前にあるにもかかわらず、掴むか掴まないかの違いで、のがしているかもしれない。あるいは、それは違うと感じているかもしれず、自分にはふさわしくないと振り払っているかもしれない。その幸せに気づくにはどうすればよいのか。
人は、「批判は成長の糧(かて)にしろ」、などと簡単に言うが。批判された本人にとっては地獄の沙汰に違いない。私たちは大なり小なり批判の嵐の中を生きているし、つい気になるから聞いてしまう。そのときから仕事も食事もビタリと進まなくなってしまう。自分への嫉妬だと気づくには相当の年数を必要とすり。場合によっては退社まで意識してしまうかもしれない重大問題だ。
人には何かの支えが必要だ。その支えになるものが友だちだ。その友だちも私を見るときに何を支えにしているのかを見るだろう。それが立場だったり、地位だったりする。それを失うことは自分を失うに等しいから、何が何でも死守しようと躍起になる。その支えが立場や地位以外のものであれば人は救われることだろう。
人が一番恐れているものが孤立。ただ一人この世に存在するのはまっぴらごめんと思っている。それを慰めてくれる人が何としても必要だ。その人物とは言わずとしれた母親である。しかし母はとても忙しい。その代わりに私たちはぬいぐるみなどをあてがわれた。それに触れ、匂いを嗅ぐことでいっときの慰めを得てきた。大人になった今、それに代わるものを求めて日々探し回っているのかもしれない。
人が人に向かって、「自分にできるかな?」と問いかけるとき、分析家はこう考える。「何を言わんとしているかを考えるのではなく、何を言っているかを聞くこと」と。一般的には一瞬の間が生じます。すなわち、「できるかどうかこちらには何とも言えない」と言うものだ。同様に、「私は大丈夫かな?」、あるいは、「成功するかな?」もそうである。「俺はすごい?」もありそうだ。どう答えればよいのか。それらの質問のなかに、すでに答えが語られていることに気がつけばよいのだが。
デパートにエレベーターガールがいた頃は、子供の私でも「サンガイ」などとかなりの勇気をもって宣言すれば3階で降ろしてくれた。言葉が通じた。今は誰かが3階のボタンを押してなければ自分で押さなければダメである。私は自問自答している。これは対話とは言わない。対話とはあくまでも他者を必要とする。しかも言葉の通じる他者が。
演劇などでは、目線を最重要視するらしい。恋人が並んで富士を眺めている二人の目線が富士の頂きに向いていれば、二人が愛し合っていると観客に思わせ、片方の目線が低くければ、二人は違う感情をもっていることを暗に示すことになるので、演出家は、目線を揃えて、ないしは、目線を下げて、と指示することになる。人と対話するとき目線を合わせるにはどうすればよいのか。
食べ歩きの記事に影響されるのはどうしてなのか。自ら出かけないからだ。出かけて食べて自分の舌で判断する、その訓練が必要だ。経験の多さが味覚を磨く。グルメを自認する方々も失敗を重ねているという。はじめは信頼のある先輩に教わることだ。味覚の訓練にも人との交流が必要なのである。
実現するまでがワクワクする、ということはないだろうか。遠足、旅行、イベント、宝くじ…すべてが私たちの想像力を刺激するのだ。私たちは未来の私に投資している。投資とは、未来においても自分が生きていることへの証明である。ワクワク感を長続きさせるにはどうすればよいのか。
私たちは、言葉で聞いたものを頭の中で映像化して想像する。その想像とテレビ上の映像とがぶつかり合ってしまうから、いちいち修正しながら観ることで疲れることがある。デュカス作曲による名曲「魔法使いの弟子」を聴いているときの想像上の弟子と、ディズニー映画で映画化された「魔法使いの弟子」に登場するミッキーマウスの弟子とがぶつかり合ってしまう。映像の強さに私のイメージが負けてしまう。どうすればよいのか。
仮想空間のなかで私たちは生きている。小説・CD全てが仮想空間だ。今どきの仮想空間と違うところは映像化されているかどうかの違い。この違いは大きい。文字や音という視覚化できないものから映像を思いうかべているのが今までの作業。それが今はやりの仮想空間では必要ないのだ。それがどんな効果を生み出すのか今のところは未知の世界だ。
人との交流には、父との交流が欠かせない。父と交流するのは大変だ。小遣い一つもらうにも交渉しなければならないからだ。母と交流している方が簡単だ。だから母を通して父に交渉を頼むことも多くなるので、ますます父が煙たい存在に見えてくる。父は社会の窓口だ。父と交流するのは社会と交流するための足がかり。父が怖すぎたりして話をする機会が無いと、社会が怖いと感じるだろう。父と交流し、その結果ほしいものが手に入れば交渉した結果に喜びを深めることになる。けむたがられる一方ですごいと思わせる何かが必要である。
図書館には誰ひとり閲覧することのない古い本でも必ず一冊は保管されている。そのいずれかのページをめくれば、忘れかけていた記録や記憶、体験などが目の前に繰り広げられるだろう。そこに書かれているのは、その人だけの記憶であり、事実、苦しみ、悲しみにまみれた真実である。誰も否定できるものではない。そんな記憶を私たち誰もが自分の図書館に隠している。
意見はさまざまあって良い。相手は反対意見を言っているのではない。ただ自分の意見を述べているだけなのに、主宰者の耳には、反対していると感じるのだ。それもおもしろい、と受容してくれるだけで相手はホッとするのだ。なかには、わざと反対意見を言う人もいるのは事実。そんなときはどうすればよいのだろうか。