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私たちは何事も自分と関連づけている。あまたの星々のなかから関連づけて星座を繋げ合わせたり、WBCをテレビ観戦できてもできなくても、これはなにかのおぼしめし…と関連づけている。書物、人との出会い、それを赤い糸が繋いでいると考えている。
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私たちは何事も自分と関連づけている。あまたの星々のなかから関連づけて星座を繋げ合わせたり、WBCをテレビ観戦できてもできなくても、これはなにかのおぼしめし…と関連づけている。書物、人との出会い、それを赤い糸が繋いでいると考えている。
いつか、いつかと待っている喜びはたとえようもない。頼んでいた品物を待つ、人の来訪を待つ、物語の結末、演劇の大団円…ワクワクするものばかりだ。なかでも桜の満開を待つのも一興である。どれも必ず願いを叶えてくれる。その時は必ず訪れる。
テレビ画面でベテラン俳優が鼎談している。三人とも同年代なので話が弾む。その話に私も共感しながら耳を傾けているうちに、これがラカンの言う、「同語反復的会話」と気づいた。その会話の中に入っている限り安心だ。しかし何か物足りない。それはいったい何か。
「人と語る」と、「人に語る」はどう違うのか。前者は相手の話を聞き、かつ、自らも語ること。後者は相手のことなどお構いなしに自分だけが語ること。ツィッターなどは後者だ。相手の話を聞きながらどう答え、自分の考えも加えながら、相手の心証を害しないように語ること。極めて高度な会話術を駆使しなければならない。これは難しい。だから人と会話したくない人が存在するのだ。
順番は一番がいい。タクシー待ちも一番先頭がいい。待っていて自分の後ろに人が並び始めるとその気持ちはさらにつのる。人といつの間にか比べている。自分の後ろに誰もいなければ寂しさだけがつのる。学校の成績が振るわなかったから余計つのるのかもしれない。
物事は実現してしまうと、人はそのことに興味がなくなるものだ。それまでの間、想像しているのが楽しいのだ。良いことを想像していれば良い結果になり、悪いことを想像していればその通りになるのだ。どうしても悪い方向を想像してしまうのをやめるにはどうすればよいのだろうか。
何事も予定通りにはいかない。そうと知りつつやはり予定は立てる。予定とは一つの的である。的の中心に当たることなどめったにない。私たちは的の周辺に矢を当ててそれで良しとしているのだ。もし真ん中に当たってしまったらどうだろう。その時点で終了だ。終了してしまわないためにも周辺で良かったと思う。でもやはりズバッと真ん中に当てたい。
人は数値で判断されやすい。背の高さ、生年月日の早いか遅いか、子供の数…なぜ数値で判断されるかといえば、視覚化されやすいからである。一方の人柄、性格はなかなか分かりにくい。卒業して点数から開放されたはずなのに、どこまでも数値が追いかけてくる。性格も成績も上げるのは大変だ。
言い方一つで、相手の気分は乱高下する。レストランなどでの店員に注文するときの言い方なども、なぜあのようにつっけんどんなのか、普通の言い方で良いではないかとも思ったりするが、そういう自分もいつの間にかそうしている可能性は大だ。だから最近のレストランでは、店員がいても、スマホで注文するようになったのかもしれない。
「少し傷ついた」とか、「ちょっと嬉しいことがあった」などと人が言うとき、相手はそのまま受け取ってはならない。実は、「とても」であったり、「すごく」嬉しかったという場合がほとんどだからである。最初からそう言ってくれたらいいではないか、などと言う人がいたら、その人は話の分からない人、という烙印を押されることになるだろう。言葉の裏側に隠されたメッセージを読むこと、これが思い遣りである。
船上では、船の先頭より船尾に人が多い。その理由は航跡だ。先頭からの景色は全面に海が広がるだけ。それに比べて、船尾からの景色は航跡が長く残っているからだ。人間が未来より過去を思うのに似ている。未来を見つめるようにしたい。
すべては出会いである。観たいと思っていたテレビ番組を偶然観た、ということがあれば、無意識的にそう思っていたということ。書物・モノ…もちろん人との出会いもあらかじめその人が頭の中に存在したことの表れだ。ないものとは出会えない。どんな人生を歩むことになるのか…それも未来の自分との出会いである。
「忘れろ!」とよく言われるが、忘れられないこともある。どうすれば忘れられるのか。それは語り尽くすことだが、これが難しい。それは聞く側の問題。同じ話を聞いていると、さっきと同じだ、あるいは、まだそこから抜けられないのか、という感想を聞く側がもってしまうからだ。たった一度話しただけで忘れられるなら、苦しみを忘れるのは簡単だ。それができないからこそ同じ話をしているのだ。語るほどに気持は楽になる。聞く側は根気よく聞き続けよう。
誰でもが緊張する。相手がどんなことを言い出すのか未知数だからだ。褒めるのか、非難するのか、褒められてウキウキしていた次の瞬間に非難されることもあることを知っている。その経験が私たちを緊張に追い込むのだ。心を無にして相手に向かうにはどうすればよいのか。
子供たちの遊ぶ姿を見ると、疲れを知らないかのようである。周囲の大人が、ほどほどにするように指示するのは、もしかすると夢中になれないことへの嫉妬かもしれない。自分で遊びを考え、実行し、次の遊びを考える…彼らは過去・現在・未来を行き来できる生命体なのである。
身の丈の時代である。何でも容易に手に入れられる時代になった。知りたいことはスマホがすぐに答えてくれるし、休みたければ会社は休ませてくれる。高値の花と思っていた品物も手に入れやすくなった。やっとの思いで…という気持が薄れ、次はこれを手に入れようと考えてしまう。本当の喜びとはいったいなんだろう。
話を盛ることはしばしば私たちはしている。そのことに気が付かないだけかもしれない。心臓が止まるかと思った、頭をガツンとやられたようだ…いちいち挙げていたらきりがない…それも盛った言い方になるだろう。ところがそんな表現を一方では求めかつ楽しんでいるのかもしれない。きっと子供たちも大人の真似をしながら言葉数をふやしているのだろう。そう考えると大人の責任は重大である。
働くときは働き、休むときは休む。遊ぶときは大いに遊び、食べるときは美味しくいただく、それがバランスだ。ところが休んでいると罪悪感を感じる人もいる。怠けはダメと言われたときの影響かもしれない。異なったことをすることで気分転換になるものだ。働くことをやめない人にはどう言ってあげればよいのか。
ほしいモノの対象イメージができたら、それを口に出すことだ。言えないモノは手にすることができないのだ。人にそれを話すと多くの場合否定される。それでも言えればその欲望は本物だ。しかし欲望の芽は実にか弱いものである。とくに子供の場合は親に頼らざるを得ないから余計に言い出しにくい。その小さな声を否定しないこと、それを見守るというのである。
目当てのモノが見つかる、ということがある。それは、あらかじめ自分のなかにモノのイメージが確立されているということである。はじめにイメージありき、なのである。恋愛対象しかり、ファッション、日用品…あらゆるものへの対象イメージがあるからこそ見つかるのである。願えば叶うとは、イメージする力のことである。
野球解説者が、仲間とは何かについて語っていた。曰く、「一緒にご飯が食べられる間柄」と。シンプルで分かりやすい定義だ。食事しながら説教されたり、学校の成績はどうか、などと聞かれたくはないと思うのが人情だ。つまらない話で笑い合い、共感し合える間柄こそ仲間だろう。その原型は家族なのである。
時が解決すると言うが、実は当たり前のことを言っているに過ぎない。子供もいずれ大人になる、と言っているようなものだ。大事なのは、その間の養育をケアすることだ。捻じ曲げたり、横やりを入れることのない養育とは、本人にも両親にも知ることができないのだ。それを客観的に見つめ、両者にとって負担の少ない対応法を伝える必要があるに違いない。
文句を言われる方は心が乱れるもの。文句を言った方はといいと、どことなくスッキリした顔をしているから、余計に腹が立つ。ショップなどで製品に文句を言うのは、その「モノ」に文句を言っているだけで、店員を責めているのではないと知ることで精神の混乱を避けられる。それを理解と言うのである。
モノは買うまでが楽しみ、とよく言われるのは、手にした後に新しいものが発売されるからなのだろうか。そうではなく、もっと良いものを、という向上心の表われと受け取るべきである。もし、一つのモノだけで満たされてしまったら、さらに上を目指す気持ちに陰りが差したと言えるだろう。私たちの皮膚が常に入れ替わるように、志向も常に上を目指してよいのである。
団体旅行を楽しく過ごせるかどうかは、添乗員一人にかかっている。添乗員は過密スケジュールと聞いているが、参加者はそんなことは知らないから、皆、旅行先の話を聞きたがっている。その添乗員が旅行が楽しくてしかたないという気持や言葉は参加者には伝わる。これが鏡像の効果である。添乗員が楽しくしていれば、遺跡や景色もひときわ意味あるものとして輝きをますからだ。それを参加者に伝える方法とは何だろうか。
私たちに目がある限り、モノや人への評価は外見で大きく左右される。華やかな包装や服に気を取られているうちにいつの間にそれを購入することも多々。反面、それで満たされたようになっていることも無くはない。要はとらえ方一つにかかっているのかもしれない。
こうなるのではないか、ああなったらどうしよう…人は頭のなかで想像しがちである。想像世界で右往左往するから疲れるのだ。結果は全く異なる。自分で苦しみを作っていることに自分でも気づかない。あるがままを受け取ることができればきっと人生は楽に生きられることになるだろう。
私たちの見分ける能力は優れたものがある。街の雑踏のなかで知り合いだけを見分けている。帽子やマスクをしていようと、いつもとは異なった服に身を包もうとも、視線にチラッと入っただけで見分けている。それに比べてパートナー選びは難しい。
人が見ているよ…そんなことを昔言われたような気がする。私たちはいつの間にか、誰かから見られているという妄想におののきながら暮らしている。髪型・服装・歩き方…自分で自分を縛りつけながら暮らしている。ふと周りを見渡したところで誰も私のことなど気にもかけてはいない。それがいいことなのか悪いことなのかわからないまま、誰も見ていない街を今日もさまよっている。
森の中を逍遥していると、どこからともなく鳥の啼き声が聞こえてくる…その一瞬、生きていると実感する。そういうほどには歩いてはいないが、きっとそうだろうと思う。つまりは森を歩かなくても頭のなかで鳥たちの声が響いていればよい、それが生きているということなのだ。
故事によると、王さまがよい政治を行うと、しるしとして甘味の液を降らせるという。立派な人の口から出る言葉は心地よく響くし、好きな人が食べているものは美味しく感じるものである。そこには信頼関係が存在する。何を信じればよいのか。それは言葉である。