気質
人の気質はなかなか変えられない。かと言って、明るいから良い、暗いからダメという二分法は有害である。明るいときもあり、暗いときもあるのが人だ。今、この状態をありのままに受け容れることが大切だ。それを受容というのである。
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人の気質はなかなか変えられない。かと言って、明るいから良い、暗いからダメという二分法は有害である。明るいときもあり、暗いときもあるのが人だ。今、この状態をありのままに受け容れることが大切だ。それを受容というのである。
美味しいものを食べたあとで、割合と美味しいなどと評価することがある。美味しい方だ、結構いける、まあまあ、いろいろなことを言うが、最高に美味しいとは言わないのはなぜだろう。それはもしかすると、最高を極めてしまうとそれで終わってしまうからかもしれない。人間は終点を目指しながら、一方では、終わりたくないのだ。終わりとは死を意味するからなのだろう。
頭が痛い、おなかが痛い…これらはすべて「言葉」である。仕事に行きたくない・学校に行きたくない、などと言えるでしょうか。言えない言葉は、症状を介して体外に排出されることになる。それが「症状」である。症状とは一種の「言葉」だから、解読することができれば、本人の言いたいことが見えてくる。だったら最初から、行きたくない、と正直に言えばいいではないかというのは他人だから言えるのだ。本人には本人の事情がある。真実は意外なところに表れているのである。
人が語るときに、話を盛って語ることが多い。ありのままに語るより、誇張して話す。その方が聞く側にとっては興味津々に聞けるからである。少し盛ってない?と言われても、確かにその通りだが、そうする方がより相手の興味をひくことができる。ボコボコにされた、心臓が止まるかと思った、煮え湯を飲まされるようだ…話の内容はすべて誇張されているのだ。聞く側ももしかすると、それを期待しているのかもしれない。
新とつく文字に人はしばしば釘付けされる。新製品、新品、新発売…。私たちは品物を買おうとしているのではなく、文字を手にしようとしているのだ。手にしたとたん、新の文字はあっさり消えてしまい、違う「新」の文字に吸い寄せられるように体が向いてしまう。私たちの身の回りは、古くなった「新」の文字に囲まれている。
花がさまざまな色を競い合う頃だ。テレビ画面からは、さあ出掛けろとばかりに百花繚乱さまを画面いっぱいに映し出している。その時思うのは、この景色はいったいどこか、というものだ。花を見ながら場所を探している。私たちは花を見ているのだろうか、それともそこには明記されていない場所を見ているのだろうか。
苦しい記憶は深く心に刻みつけられる。楽しい記憶は流されてしまう。よほど楽しいことを重ねない限り苦しみは消えない。しかし楽しんでばかりはいられない。苦しみの記憶は語ることで次第に薄らいでいく。語り尽くしたあとで、そんなことがあったな、というほどになるのが語る効果だ。皮膚についていた傷が、後になってみればどこだったかわからないくらいになるようにである。苦しみが消えることに気づけないのは、私たちが傷口を忘れてしまうことに似ている。
人はいつもいつでもどんなことにも怒っている。乗るはずのバスの時刻表が変わっている、特売は昨日までだ、修理品の製造は終了している…そんなことで悩むな、などと人から言われたくない。でも自分でもそう思う。でも怒ってるこの気持ちをどう処理すればよいのか。
理屈を知っていても実行できないことは多々。車の運転がそうだ。本を読むだけで何でもできるようなら、皆幸せになるはずだ。ノウハウ本の存在はそこにある。読んだだけでできた気持ちになったり、旅行に行った気になっている私がいる。理屈を知る良さと欠点、二つあるのだ。
言葉のやり取りは難しい。こちらが褒めたつもりで言った一言で相手を不快な気持ちにさせたり、さり気なく言った言葉に相手が喜んでくれたりする。どんな言葉をかけたら良いのか、瞬時には出て来ない。言葉は無意識的であり、用意した上で話しているわけではないからだ。てはどうしたら自然に適確な言葉遣いができるようになるのだろう。
自己肯定感をもつ…最近よく耳にする言葉だ。もつためには必ず他者を必要とする。自分でそれをもつことができれば誰も悩まない。「私はすごい」と言ったところで、実証がなければ無視されるだけである。そこに賞状や順位づけの存在があるのだ。他者の何が必要なのだろうか。
人と人との会話はすれ違いである。天気の話をしながら、片方は連休の過ごし方を考え、もう片方は洗濯物を取り込まなくてはと考えている。共通しているのは、「天気」の一文字。二人は違う世界にいるのだ。「同じことを考えてました!」というのは、どこまでが「同じ」なのか。話がすれ違いながらもとりあえず私たちは生きている。
人は環境に大きく影響される。まるでカメレオンが周囲の色に自分の体を溶け込ませるかのようにである。私たちはそうしないと周囲から奇異な目で見られることを知っているからだ。置かれたところで生きなさい、と言った学長がいたが、ギャンブル好きの人たちの中でも自分を合わせなければならないのだろうか。自分を貫くのはなかなか骨が折れる。
心は遺伝する。自分が釣り好きなのは、釣り好きだった父を真似している。釣り好きになることで、父と一緒に過ごしているように感じているのだ。私たちは好きなひとの真似をするのだ。そうすることでその人と一緒にすごしている実感を得るのだ。釣りそのものが好きなのではなく、好きな人や尊敬するひとの真似なのである。スポーツや研究の世界にもそんな無意識が存在するのである。
天候ひとつとっても、人によって価値はことなる。しっとりしていいと言う人もいる。洗濯物が乾かないと嘆く人がいる一方で、外仕事の人にとっては骨休めという価値が生じる。相手への褒め言葉が相手を怒らせてしまうこともあるし、人間関係を円滑にすることもある。人の間で生きていくのは難しい。
子どものころはやんちゃだった、と述懐する大人は多い。いたずら、悪態…みんなやってきた。最近は取り調べられることが多くなった。拡散するからかもしれない。本来やんちゃとは、こっそりするものだった。友だちも黙って見過ごしてくれた。お互い様だった。今はやんちゃがしづらくなった。そのエネルギーをどこに向ければよいのか。
自分で手をかけたものには愛着が生じる。ネジを締めなおす、植木バサミに砥石をかける…古いノートをテープで補修する…。人は新しくすれば良いのにと言うがそう単純なものではないのだ。毎日補修箇所はないか、と探し回りながら直すことに生き甲斐をみいだしている。
すべては出会いである。人との出会い、仕事との出会い、モノとの出会い。たった一つの出会いがその後の人生を決めることもある。何が人やモノに出会わせるのか。それが無意識のはたらきだ。無意識的にそれを欲していたと言える。身の回りにいる人やモノのすべては無意識の欲望である。
単なるモノであっても、私たちには捨てられるモノと捨てられないものとがある。他人から見れば単なるモノであっても、本人にとっては大切なモノである。捨てられるはずがない。それはそのモノに意味がペタリと張り付いているからである。私たちは表面に貼られた文字を読んでいる。想い出の品、大好きな人からのプレゼント…そう考えると、私たちの身の回りは文字で溢れ返っている。
電車内のコンセントから携帯電話に充電している人が車掌から注意されているのを見たことがある。昔の話だ。今は車内どころかファミレスだって充電は「ご自由に」と書いてある。決まりごとは時代によって変わるのだ。注意されていた人は時代を先取りしすぎていたのだ。
ハイテクの世の中でも、文房具人気は衰えを知らず、文房具コンクールまで開催されるほどだ。ハイテクで書いたものは解読するための道具が必要だが、アナログはすぐその場で読め・修正・見せることができる。道具を必要としない道具、それが筆記用具の魅力である。
ファミレスに備え付けられているメニューは色とりどりだ。目にも鮮やかな赤やグリーンが絢を競っている。春は春メニュー、夏はかき氷シロップが涼しげに私たちの食欲をそそる。その一方で、居酒屋のメニューときたら模造紙に筆ペン書きだ。私たちは絢爛豪華と白黒の世界を同時に生きている。
眠れるならどこでも構わないという人が、お酒を飲むときこそムードが大切と信じていたりもする。その人だけの居場所がある。書物に囲まれる、人に囲まれる…囲まれたいものはいったい何?
あんなに好きだったチョコレートが嫌いになったという人もいる。シュークリームばかり食べていたのに、今見向きもしなくなった人もいる。その理由は何だろうか。それに替わる嗜好品が見つかったからか。すべては無意識である。
演劇でもテレビでも背景次第で、その前に立つ人物が違った印象になる。私たちは人物を見ているのか、それとも背景を見ているのか。道で出会った人が子供の通う学校の校長先生だと知らされて襟を正したりする。背景なしに私という人物はこの世に存在するのだろうか。
スポーツ観戦の楽しみは、終わりがあること。ゲームセットの宣言とともに帰れる。いさぎよい。それに比べて音楽の楽しみは際限がない。いつになったらゲームセットになるか、それは睡魔かもしれない。
「薬(ヤク)は裏切らない」。薬物中毒患者の言葉である。それに比べて、腹痛やノドの痛みにクスリが効かなかったりする。もちろん精神的な原因が症状を引き起こしている。証拠はない、しかしいずれ治癒されるのだ。
健康診断の日程を確認するためにクリニックに電話した。電話口のスタッフが最後こう言う。「お待ちしています」と。不思議な感覚だ。当日、私がそのスタッフに会うことはない。「待っている」という言葉に会うために行くのだ。すべては言葉なのである。子どもたちも、「お帰りなさい」の声のするところに帰ってくる。
悩みは大小さまざま。上は老後の問題から、下はお腹が空いたまで。服を買う買わない…。ほしいものが手に入っても悩む人はいる。人間イコール悩み。それが生きる糧だなどと軽く扱ってはならない。メニューの選択にも真剣に付き合ってもらいたい。
植物は素直。鉢に植えても、土に植えても、こちらが植えたまま動くことはない。水をよこせとも言わず、日の当たる場所にしてくれとも言わず、ずっとその位置にいる。手をかけただけ草花は成長する。こちらの責任は重大である。