対象
自分が話題にしている対象者は自分自身である。人のことを批判すればそれも自分。悪い点を指摘すれば、それも自分である。対象者のことが嫌いなら、話題に出すことはない。反対に、人のことを褒めればそれも自分。人の良い面を見つけましょう、というのは、極めて深い意味があるのだ。
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自分が話題にしている対象者は自分自身である。人のことを批判すればそれも自分。悪い点を指摘すれば、それも自分である。対象者のことが嫌いなら、話題に出すことはない。反対に、人のことを褒めればそれも自分。人の良い面を見つけましょう、というのは、極めて深い意味があるのだ。
私たちは常に頭の中で誰かと対話している。頭の中にどんな人やモノを想定しているのかが問われる。歴史上の人物、偉大な理論家、会社の上司、部下、飲み友達…今日の登場人物はいったい誰?
「話は飛ぶけど…」などと、あちこちと話題が飛ぶ人もいるものだ。聞く側は相手について行くのが大変と感じるかもしれない。そんなとき、話が飛ぶ人だ、などと言ってはいけない。連想が豊かで素晴らしい、と受け止めなければならない。
困った事態が生じたとき、人は誰かに相談する。相談相手が間違った答えをすれば悲劇の始まりだ。仕事が辛い…という相談事に対して、「そんな会社すぐに辞めてしまえ!」などという相談相手がいたら要注意である。相談事には慎重な上にも慎重を期して臨まなければならないからだ。
人生山あり谷あり。結婚して子供が生まれ、その子も巣立って、孫もできて幸せに暮らしましたとさ…とは行かないのが人生。その時にどう対処するかが腕の見せどころだ。その際、相談相手になってくれる人がいるかどうかが問題だ。人は支えがあって初めて泰然自若としていられるのではないか。
学ぶのは書物や学校でだけとは限らない。電車の車内での会話のなかにもハッとさせられることがあるし、道を散歩中の二人がふと漏らす言葉にだってなるほどと思う一言が語られることもある。本人はそのことに気付かないが、その瞬間こちらは、その人のことを「師匠」と呼びたくなる。それを「真理の語らい」と名付けている。一日に一つでもいい、真理に触れたいものである。
あちらを立てればこちらが立たず、Bを選べばAに未練が残る。それが人生だ、などという知識などなんの役には立たない。選択するための比較の品を立ててしまうからだ。基準になるものをいったん立てている。結論からいえばどちらを選択しても未練は残る。ところがそこに救世主が現れる。「汝、Bの選択は正しかったのだ!」と告げに来る人がいる。あなたは誰だ。
人は誤りの中で暮らしている。自分を見誤っているのだ。自分はどんなに偉大な人物であると自認している人も、酒場の暖簾をくぐれば、店主の目にはただの客としか目には映らない。誰もが恣意的な誤りの中でわかったつもりになっている。どうすれば相手を純粋な目で見ることができるのだろうか。それは、相手を一人の人間として見ることである。それを目的として精神分析が生まれたのである。
私たちはすべての経験をしているわけではない。そのほとんどが人からの伝聞である。それらを総合して、きっとこうなんだろうと自分の心の中で構成しているにすぎない。現実にそのことを経験して始めてそうだと知るようなものだ。その経験も、次の経験によってさらに上書きされていく。現実とはいつまで経っても到達できないものである。
今では珍しくなったレコードショップでの光景。私がたくさんのレコードの中からチョイスしているところに、別の客がやってきた。店員も挨拶しない、客の方もボソッと入店。絶版なった貴重なレコードを選び出して私が客に見せる。「どう?」と私。「持ってる」と客。店員は無言。店は愛想を振りまく場所ではない。品物を買えればよいのだ。「我一語彼一語秋深みかも」。
役者はすごい!同じ俳優が忠臣の役を演じたかと思うと、悪役を演じていたりする。違う場面では女装に身を包んで観客を魅了していたりする。我々はその一挙手一投足に翻弄されながら楽しんでもいる。彼らがしていることを私たちもきっとしているのだ。ただし演じそこねているかもしれない。演出家がいないせいだ。
相手の言い方一つに私たちは右往左往させられる。そういう自分も、人に頼み事をするときは言い方に悩む。単刀直入に言う事はできないものだろうか。スポーツの場面では、投げろ!走れ!などと大声でコーチから命令されてもイラッとはしない。わかりやすい世界と思いきや、試合が終われば先輩後輩の世界が待ち構えている。丁寧語のない世界で語り合いたい。
いつも、どんなときでも話し相手になってくれるもの、それがスマホである。淋しいとき、時間が空いたとき、気分転換したいときなど手にとればすぐに応対してくれる。友だちや家族はこうはいかない。ややこしい交渉が必要だからだ。魔法使いのように難問にも応え、将棋相手にもちょうどよい。便利なようで少し怖い気もする。
思わせぶりな見出しの文章に誘惑されて何かの記事を読んでしまう。その情報のほとんどは役に立たないか、すでに知っていることばかりだ。情報は街なかだけでなく、スマホの中にまで満ちあふれている。スマホに指が触れた瞬間に情報の洪水が押し寄せてくる。情報を探す時代よりも身をよける時代になった。自分探しするよりも、情報に囲まれているほうが安心かもしれない。ところがカウンセリングにおいてクライエントから提出される情報は、クライエントを理解する重要な手がかりとなる。つまらない話だなどと軽んじてはならない。
新緑の山並みにまとわりつく霧の姿は時時刻刻と変化している。その中を一羽の鳥が横切るさまに、ときおりハッとさせられる。霧の形同様、我々人間の心もみな一様ではない。好み・生き方・顔かたちすべてが違う。私という一人の人間だって、思っている事がコロコロ変わる。食べようか、食べまいか…いっこうに定まることはない。人のことをどうこう言えた筋合いではない。相変わらず霧が緑の木々に絡みついている。私のこだわりとはいったい何だろう。
ブランド名に私も影響される方だが、「全身をブランドで固める」などと表現するように、何かブランドを固めているのかもしれない。服装にこだわらない人ももちろんいる。どうやって人を判断すればよいのだろうか。相手を理解する方法はたった一つである。
二人の人が親しげに話しているからといって必ずしも親しいとは限らない。何も会話していなくても親しい間柄だってあるからだ。親しいとは何なのか。親しいとは親密の別名かもしれない。
レストランが満席だったので、仕方なく外のベンチで食べた。軒先にツバメの巣があって、親鳥がひな鳥に餌を運ぶのに余念がない。風も爽やかだ…これすべて言い訳。満席で断られた言い訳にすぎない。
NHK浪曲番組で熊谷が出てきた。内容は、名馬を買って熊谷直実に届けるという筋書き。ただそれだけと言ってしまえばあらゆる物語はそれだけになってしまうだろう。ところが、30分かけて見事な語り口で聞き手を魅了し続けた。私たちのよろこびも苦しみも内容そのものよりも語り口がすべてである。耳を傾けよう。
地名を見るたびにいろいろなことを思い出す。父が好きだった街だ、母のふるさとだ…そして感慨にふけったりもする。反対に、街の名前を思い出せない人もいても不思議ではない。自分が好きな地名はいったいどこに記憶されているのだろうか。それは当たり前すぎて自分と溶け合ってしまっているのかもしれない。
とんでもなく遠い所に来た、と思ってもイオンの看板があったりすると、孫悟空の気分になることもないではない。どこまで行けば済むのか。せめて天然水でも飲もうか。
飛行機から見ると、人間がいかに小さな存在であるか分かるという。宇宙ステーションからの景色は、地球上のあちこちにオレンジ色が見えるという。戦火である。地面に住んでいると、小さなことでクヨクヨしていたりもする。隣家からあふれるように我が家の庭に咲き出したアジサイの花は美しい。
親が酒飲みの子供は酒を飲まず、親が高踏派だとその子は庶民派といった具合に、その親にしてこの子あり、とはいかない。親の背中を見て育つのは、裏側を行くということかと思うほどだ。家族は無意識的にバランスをとっているとしか思えない。私はいったいどっちなんだろう。
ピーナッツ・チョコレート・グラタン…馴染みのある言葉だ。アヒージョ・クラムチャウダー…何だこれは?と少し身を引く言葉だ。何億回と耳から入って来てないとなかなか馴染むものではない。きっとこうしてグルメもアートもその時代には受け入れられないモノがあったに違いない。
私という存在は肉体だ。単なるお肉のかたまりにしか過ぎない。横たわっている肉のかたまりが起き上がる。目覚まし時計が私という肉を動かしているのか。実は目覚まし時計の音がきっかけとなってかたまりを動かすモノがいる。起き上がった瞬間、私は身体になる。動かしているあなたは誰だ!
「お詫びを申し上げます」、「お詫びを申し上げたいと思います」、この二つの言い方の違いは何か。前者の場合、詫びているのは本人だ。後者では、詫びているのは私ではなく、私はただそう思っているだけだと言っている。詫びてないのだ。人間は二つに分裂しているという例である。
「人がみな我より偉く見えるとき…」という短歌がある。他人が幸せそうに見えるものだ。街を歩きながらケンカするわけもないし、そもそも仲が悪ければ一緒には歩かない…そんなことは知っているし、人は良いことしか言わないことも知っている。それでも人を羨むのは感情が優先してしまうからだ。いっそのこと感情をなくしてしまえばよいのだ。そうなったとき私は機械になってしまうだろう。
記憶力が良いとは、その片方がいまだに残っていることを意味する。犬は5秒で忘れてケロッとした顔で私たちにシッポを振っている。記憶力が良いことは良い面も悪い面もある。これもセットなのかもしれない。
私たちの記憶は何かとセットになっている。その何かとは感情である。野山でのキャンプが楽しければキャンプと楽しいがセットになり、海での経験が楽しければ海プラス楽しいがセットになっている。冬に大切な恩師を亡くしたという記憶は、恩師の記憶が消えても毎年冬になれば冬が嫌いになるという具合である。私たちの好き嫌いとは、そうした片方の記憶がいまだに残っている証拠である。
痛みを医者に訴えても、異常なし、と言われる。痛いのは心の痛みだが、レントゲン写真には映らない。その内容は罪責感・羞恥心から成り立っている。それらを言えたとき、痛みは消滅するかもしれない。