上を見れば
モノ・コト…すべて上を見ればキリがない。品物を手に入れたとたん、もっと良いモノが現れたりする。買うまでが楽しみ、と言っても買わなければ意味はない。再び買う…の繰り返しのなかで、日本経済を支えている気持になってふんぞり返っている。もし、一つのモノ・コトだけで満足してしまったら、それはそれで未来がない人生を送ることになるかもしれない。
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モノ・コト…すべて上を見ればキリがない。品物を手に入れたとたん、もっと良いモノが現れたりする。買うまでが楽しみ、と言っても買わなければ意味はない。再び買う…の繰り返しのなかで、日本経済を支えている気持になってふんぞり返っている。もし、一つのモノ・コトだけで満足してしまったら、それはそれで未来がない人生を送ることになるかもしれない。
消しゴムで文字を消すように記憶も消すことが必要だ。辛い記憶を思い出していたら、いつまでもダメな自分が残ることだろう。どんなしくじりもなかったことにするのが良い。反対に、栄光の記憶も消そう。それを超える栄光はなかなか得られないからだ。そのためには語ることだ。それによって、なーんだそんなことでクヨクヨしていたのかと手放せるからだ。栄光の記憶だって、世界一から比べたらその程度のことかと感じてこれも手放せるだろう。前に進むには、私に過去はないと言い切ることである。
「死んで評価が定まる」と言われるが、死ななくてもその人の評価は勤務評定されている。どんなときにか。挨拶のときにである。ちょっとした挨拶にその人の全人生が現れている。挨拶とは、言葉・仕草・口調・ボキャブラリーすべてが挨拶である。そんなことも知らずに、「おはよう」と返せばいいと思ってはいけないのだ。
指紋と同様、人の性格は千差万別だ。読書で一日暮らして倦むことのない人もいれば、毎日席の温まる暇がないくらい動くことが好きという人もいる。指紋の一致を見ないように、互いに理解することはまず不可能だ。理解するのではなく、受け入れればよいのだ。本が好きなのですね、活動的ですね、と。そこには比較も差別もせず、ただ単に受け入れるだけ、それがなかなか難しいのだ。
作家は締め切りに追われないと文章が書けないという。それは締め切りが「目標」であると同時に「推進力」でまもあることを指している。片方だけでは到達できない。心の底から「やらなくては!」と思う心が推進力である。そこまでいかないと人は立ち上がろうとはしない。かと言ってあまりはやく立ち上がってしまうと途中で失速する。そのバランスを取るのが難しい。
店内で注文してすぐに店員の返事が返ってくると安心だ。ところが、店員の返事が1秒でも遅れると不思議な気分になる。こちらが変な注文をしてしまったのではないか、間違った店に入ってしまったのではないか、あるいは、声が届かなかったから…、などと自分が悪いように受け取ってしまうからだ。打てば響くように答えることの難しさがここでも見られるのである。
人はいつか地位や位置から移動する。「月日は百代の過客にして、行かふ年もまた旅人也」と芭蕉が言った通り、人は常に動いている。動くとき、他の人に取って代わられたのではなく、自らひいたと考えることである。それを能動性といって、人生の主人公は自分ととらえることである。ひくのも新たな人生を見いただすのもすべて自分が引き起こしたことと受け取ることがすべてである。
合唱の心得は、仲間の声を聞くことだという。自分が歌うことだけでは合唱にならない。仲間の声といっても声質・口の大きさ・体型すべて異なるから、いかに自分をなくして仲間に自分を溶け込ませるかが大切だという。それでいて自分という存在もなければ声が出せない。自分を消しながらも自分が在ることだ。相手の話を聞くことにも通じる心得である。
ロープウェーに乗っていたときのことである。上りロープウェーとすれ違う地点にさしかかったとき、乗客の一人がこう叫んだ。「上りのほうが速い!」と。ロープウェーは上りも下りも一本のロープでつながっているから片方だけ速いはずはない、というのは理論。ところがすれ違う際に速度は相対的に倍になるのでそう見えるにすぎない。理論は感動を薄めているのか。理論を知ることもまた感動と考えることにしよう。
カウンセリング場面においては、クライエントさんの態度はいっこうに気にならない。一般では、聞く態度がどうだとか、足を組むな、腕組みで聞くとは何事だ、などと言われそうな態度も気にならない。カウンセラーはクライエントさんの言葉だけに集中しているためである。語気が荒い、タメ口…何にも気にならない。言葉だけに耳を傾けていると、語りの本質が見えてくるからである。
お酒の席では、先に酔った方が勝ち、と言われる。先に酔うと、隣の人は介抱するために酔えなくなってしまうのだ。無意識のうちにつり合わせている。仕事でも、家庭でも、二人関係の中でこうしたことが行われている。慎重な人のそばでは、相手は積極的になったり、反対に、イケイケどんどんの人のそばで、こちらは慎重になったりする。今の私の性格はきっと誰かの反対を演じさせられているのだ。ほんとの自分を築くにはどうすればよいのか。
学びは書物の中だけということはない。立派な本を読めば立ちどころに人生が切り開かれるのなら、すべての人が幸せになるはずだ。ものごとは誰からだって学ぶことができる。賢者は愚者からも学ぶというではないか。「誰さんは変」という前に、その人から学ぶことはないかと考えてみよう。きっと発見があるはずだ。
毎日同じ道を歩いていると、新しい発見がある。店が変わった、建物がなくなった…ところが以前はどんなだったかはもう忘れている。違っているということだけはわかる。普段は左見右見しているだけでも記憶の中にスキャンされているのだ。友の髪型が変わった、デスクの上の配置がおかしい、などもきっとスキャンによる効果だろう。人間の記憶の中はいったいどうなっているのか。
豊かな感情生活…それは夢のまた夢かもしれない。われわれはよい言葉だけに囲まれているわけでもなく、否定的な言葉にも激しい言葉にも囲まれているからだ。豊かな感情を持て、などと人は言うかもしれないが、感情には良いも悪いもあるからだ。どちらか一方だけの感情など出せるはずがない。耳を通じて洪水のように押し寄せてくる言葉をどうやって選別すればよいのか。それを選別するための理論をラカンは残してくれたのだ。
感情をなくしてしまえば、叱られたって平気である。嫌われようが、きつく揶揄されようがどこ吹く風でいられる。少々手荒なことをされたって痛くも痒くもない。黙って働き飲み会の誘いにも答えず帰宅するだけだ。そんな私になったとしたらどんな恐ろし世界が待ち受けていることだろう。
会社勤めの人にとって、上からの指示がしばしば命令に聞こえることがある。それが感情だ。「あんな言い方をしなくてもいいのに…」という気持ち。スポーツの世界では、言い方にこだわってはいられない。「投げろ!」、「走れ!」だけである。感情云々言っている場合ではないからだ。感情を無くすれば、道路標識だって、ただの指示として受け入れられるはずだ。
私たちは外界からの影響を常に受け続けている。台風が来る、と言われて、どう変更するか、様々な選択肢の中から選び出すことに頭を巡らせることになる。それも一つの工夫である。友と会うのをやめる、延期する、室内で会う…延期したらいつにするか、どこで会うか…選択肢は限りない。そのなかで一つに決めることもまた一つの工夫である。すなわち工夫とは、選択肢を広げる能力と一つに絞る能力のことである。
欲しいものがなかなか手に入らないことがある。店をあちこち探しまわり、ネットで検索してもそれとおぼしきものが見つからない。明けても暮れてもその品物のことが頭から離れない。他人から見れば何とも幸せな悩みだ、などと言われようと悩みは悩みだからどうすることもできない。反対に、すぐに見つけられたときはさほど感動がなかったりもする。ちょうどよい悩みはないのかもしれない。
目の前に一枚の絵が飾ってある。尾瀬ヶ原の絵である。そのとき、私は絵を観ながら、遠い記憶を見ている。あの向こうの至仏山に登った友の自慢げな顔を思い出したりしている。小さく行人が描いてある。赤いチョッキだ。あの頃赤を着て木道をひたすら歩いていたのはこの私に違いない。すっかり絵の中の人物になり切っている。このままではいけない、と思うところで再び部屋の掃除人に戻る。私は想像と現実の間の旅人である。
人は、あるときは善人、あるときは人を押しのける嫌な奴、またあるときはちょっとした歌手気取り…その場その場でいろいろな人間を演じ分けている。それらは親の影響だったり、テレビのせい、友達のマネであったりする。オリジナルの私はいったいどこにあるのか。
人の影響を受ける、というのは、人は鏡、という言い方の別名である。我々は他者を鏡として自分を構成している。あれほど耳ピアスに反対していた母親が娘のピアスした姿を見て母自身もするようになったり、息子がタバコを吸い始めたら、親も吸うようになったなどの話も鏡の理論から見れば大いにうなずけることだ。今の私を構成しているのはいったい誰なんだろう。すべては遠い過去のお話である。
人間のテーマは「進化」である。進化とは、文字通り今の位置から進んで変化することである。そこにはもう自分はいないということ。それは歩を進めることを考えてみればわかるかもしれない。さっきの歩みを振り返ることがないということ。もしそんなことをしたらたちまち転んでしまうだろう。その先を見ているから進んで行けるのである。その先に何があるのか。
どこかに、「札幌」と書いてあれば、私たちは自動的に「さっぽろ」と発音する。同様に、「羽生」も何の疑いもなく読むだろう。道で人に会えば、「こんにちは」、夜になれば、「こんばんわ」…とてもスムースな対応をしている。ところが、「会社辞めたい」、「部活辞めたい」と人が言ったとき、素直に受け入れられる人はどれだけいるだろうか。ほとんどの場合、ゼイタク言うな、せっかく入ったのに、もったいない、などの言葉が語り手に浴びせられる。それは聞き手の価値基準を持ち出すからである。札幌をさっぽろと読むように、自動的に答える方法はないものだろうか。
人間に満足はあるのか。旅行に行っても満足はしない。晴天続きでも暑すぎでは不満。新緑が見れても紅葉も見たい、この紅葉も京都だったらどう目に映るのか。インスタに写真をあげるのは、その時のベストコンディションに「満足」というラベルを貼り付ける作業である。ラベルはどんどん増えていく。貼っても貼っても満足しない世界に私たちは投げ込まれているのだ。
久しぶりに伝言の取次ぎをしてしまった。案の定、間違ったことを伝えてしまった。伝言ゲームのようなことが起きたのだ。先方は私の取次ぎが悪いとご機嫌斜めである。私の評判はその一事で地に堕ちた。当事者にしかわからないことは直接伝えてもらおう、私はそう決心をした。
セルフレジが設置されている店が増加中である。店員に食って掛かる人間もいなくなった、小銭入れを引っ掻き回すこともなくなったから堂々としていられる。ますます会話の場面は少なくなる一方である。店員との会話を会話と言えるかどうかは別問題だ。本当の会話とはいったいどんなことをさすのか。経験していないと理解不能のことかもしれない。
私たちは名称からいろいろなモノやことを思い出している。それに楽しい思い出がくっついていればそれは光り輝く記憶とともに目の前に現れる気がする。悲しい思い出がくっついていたらどうか。それは思い出したくない記憶なので、自動的にその名称から排除してしまうことになる。それが回避である。回避したものはまた次の機会にわれわれの前に現出するだろう。その繰り返しのなかでいつまでも悩み続けるのだ。悩みから開放されるにはそのことに直面するしかない。難しい。しかし、直面してしまえば、なんだこんなことで悩んでいたんだ!とポイッと捨て去ることができる。難しいか難しくないか、それは自分の心待ち次第である。
私が愛用している辞書は19年前にすでに製造休止になった電子辞書だ。画面はモノクロ。広辞苑・漢和辞典など基本的なものだけのシンプルな製品だ。ドイツ語・フランス語辞書は搭載されておらず、和英・英和のみ。最新の製品に比べて搭載辞書は極めて少ない。にもかかわらず愛用のワケは次のとおりである。精神分析の辞書ではないにもかかわらず、この辞書には精神分析的な答えが記載されていることだ。そこでもう一台購入してしまった。中古品にもかかわらず使った形跡が見当たらない。19年の時を越えて、どんなことでも答えますよと私の目の前に鎮座している。心強いヤツである。
ことさら「感覚」を言葉で表わすのは難しい。「痒い」と言われてもその痒みが何を伝えようとしているのかわからない。身体的な症状が出ていないからだ。「痛痒い」、「ムズムズ」、「ヒリヒリ」、「チクチク」…それぞれ違った心の苦しみを言おうとしてしている。それを翻訳するのに欠かせないのがラカン理論である。それに照らし合わせてクライエントに、今あなたを苦しめているのはこういうことですね、と伝えると、その通りです!と答える。ラカン理論の適確さに改めて思い入る瞬間である。
体のセンサーが鋭敏すぎれば暑さが身にしみる。鈍感だとクーラー無しで過ごして熱中症にかかる。程よく鋭敏で程よく鈍感がよい。同じように、言葉に対する感じ方も鋭敏・鈍感がある。ちょっとしたひとことで落ち込むこともあるし、さりげないひとことで勇気がでることもあるだろう。人を幸せにし、元気を奮い立たせる言葉だけで人間関係を構築していきたい。
カウンセリングは、それが開始された瞬間から、カウンセラーはその場から逃げ出すことはできないのだ。クライエントの語りの渦の中に取り込まれる。カウンセラーの考えなど微塵も配慮されない運命に翻弄される。こちらが何かひとこと言おうものなら、そのきれいな語りの渦に乱れが生じてしまうだろう。その語りの渦も時の経過とともに排出口を通過し、後にはなにも残らず、その場で何が起こったのかも遠い過去の語りのようにまっさらな自分だけが残る。人はそこで生まれ変わり、自分を取り戻していくことになる。成長とは、生まれ変わり続けることだと知るのである。