共感(2)
人が「忙しかった」と言うとき、聞く側は「忙しかったね」と返事をする。聞く側はその話が真実かどうか確かめられないまま返事をしている。それは言葉を返しているだけだが、語り手にとって共感してくれると嬉しいものだ。そのとき、忙しかったという言葉を信じていることになる。言葉を信じるとは、相手を信じることだ。だから訴える側はホッとできるのである。忙しかった事実を確かめるのではなく、同じ言葉を返すことが肝要である。
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人が「忙しかった」と言うとき、聞く側は「忙しかったね」と返事をする。聞く側はその話が真実かどうか確かめられないまま返事をしている。それは言葉を返しているだけだが、語り手にとって共感してくれると嬉しいものだ。そのとき、忙しかったという言葉を信じていることになる。言葉を信じるとは、相手を信じることだ。だから訴える側はホッとできるのである。忙しかった事実を確かめるのではなく、同じ言葉を返すことが肝要である。
5分にも満たないある曲を聞いて恐怖を感じることがあった。ラスト1分の恐怖である。そのことを語り合う人もいないままそ60年経った。ふと耳にした音楽家のコメントに、「この曲は怖い!」があった。ホッとした。恐怖心がなくなり、再びその曲を聞けるようになった。共感は恐怖心を消滅させてくれる。
予想とは自分の願望である。だから当たらない。自分の望みを捨て去ることはほぼ不可能である。明日は天気になってほしい、たとえ予報は100%雨とわかっていてもである。あるいは、時間通りに起床したい、理想のものを手に入れたい…叶えるにはどうすればよいのか。
天気予報に関心があるのは、未来への期待だ。明日・あさって・今週…近い未来への期待が関心を呼び起こす。洗濯物・旅行など明確な目標への期待である。われわれは期待をもって未来を見つめる。期待通りにならなければそのまた未来に期待する。希望をもち続けよう。
歴史にIFはない言われる通り、後戻りできないのだ。あの時ああしておけば、とか、あの学校に行っていたら…はないということ。だからカウンセリングでは、なぜそうしたのですか?と問うことはしない。今のままを受け止めることが大事だ。受け止めたうえで発展させていく。過去にとらわれていたら前進できない。とは言え、前進するためには過去を語り尽くさなければならない。語り尽くせば古い自分を捨て去ることができるのである。カウンセラーとはその語りに寄り添う人のことである。
楽しかったことは忘れている。それがよいのだ。もし楽しいことがいつまでも残っていたらその時点で人生はストップしていることになる。栄光の過去があればそれ以上の栄光を得ることは難しいだろう。栄光の過去は捨てよう。そうすれば輝かしい未来が現れるからだ。
長い人生の間にはいろいろなことがあった。その多くは失敗・恥・失望・失恋などだ。そのときは大問題だった。しかしときが経てばたいしたことではない。そう思えばよいのだ。とりあえずは生きているから。それだけでよいのだ。
車の運転が好きと思っていても、稀に人の車に乗せてもらうと…楽だ。蜜の味である。あわてて自分でハンドルを握るようにする。蜜の味が続くと人頼みになる可能性が高い。一人では何もできず何も作り出せないと知っていても、車に乗っているだけでいいのは楽である。死ぬまで二本の足で歩く、と決めないとならない。
昆虫達が、さなぎから成虫に変わるとき大変身をとげる。芋虫が美しい蝶の姿に変わるのだから、さやのなかでどんなことが起きているのか不思議である。昆虫学者の中には昆虫みたいに変態の期間を経て変身したい言った人もいるくらいだ。人間はなかなか変われない。服装をちょっと変えるくらいが関の山。変身するにはどうすればよいのか。
短所とは夢である。伸びしろである。短所が多いとは成長の枝がたくさんあることだ。さらに、短所と思えてそうではないことが多い。優柔不断と思えても、慎重の証であり、反対に、社交的は自分がないともいえる。短所があるとは、長所の裏返しである。
長所とはすでに完成された技能である。敏速に行動できる、空気が読める…すでに身についている技能。したがってそのまま伸ばせばよい。どうやって?言葉で。簡単に見えて容易ではない。おっちょこちょい、人の顔色ばかり気にしている…そんな言葉が長所を削ぎ落としてしまう。長所をさらに伸ばすために言葉は使うべきである。
「指示してくれれば何でもします」と言う人は、指示を他者に委ねている。朝になったら起こして、何をしたらよい、何を食べたらよい、どう生きればよい…指示してくれたらそうします。それでよいと思えるかもしれない。しかし後年、本当の欲望が出てきて他者の指示とぶつかってしまうだろう。それはそれで困ったことかもしれない。
無意識的に指示された私は、これまた無意識的に起き上がり、ちょっと背伸びをして朝食のテーブルに着く、着くのも指示だ。私は一人の他者と言ったひとがいるように、指示している私と指示されている私とに分かれている。今日一日のんびりするか勤勉に励むか…私は私に従うしかないのだ。
私たちはいつも、どんなときでも指示されている。上司からの指示だけとは限らない。起床時間はもちろん、昼食をいつ食べるか、何と何を食べるか…すべてが指示であり、私たちは無意識的に従わされている。いったい誰が指示してくるのか。
体のどこかが痛いと訴えても多くの場合異常なしと診断されてしまう。体の痛みは心の痛みであるがなかなか気づくことは難しい。様子を見てください、と言われればそのうち痛みは消える。ところが違う部位が痛くなる頃にはさっきの心の痛みは忘れていたりする。早期発見早期治療の困難さはここにあるのかもしれない。
言葉には、そのものズバリを指す言葉と、例えで示す言葉とがある。「器」と言うとき、食器の「器」そのものを指すときと、例えとして言うときがあるように。「器が大きい」とか、「大器晩成の相がある」などと言えば、例えである。そんな実態のないものを指し示す言葉をたくさん知っていることを「言葉が豊かだ」などというのだ。こちらも例えである。
人は人の話を聞くとき、いい加減な見当をつけ、創作までしているのだ。こう言いたいのではないか、というわけである。ここに誤解が生じる。言った、言わないの誤解である。時間がありそうですね、と言われて、手伝ってほしいと言われたように思うこともある。ご馳走してくれると思う人はよほどの人かもしれない。どこまでも語っても真意は伝わらない。
語ることは無意識。書くことは意識。私たちは順序立てて話しているわけではない。思わず口をついて出てくる。失言の原因はここにある。一方語ることは意識しながら書いている。体裁よく、言うならばカッコつけて書いている。だから言い換えてしまう。本音はなんといっても前者だ。語ればスッキリするのはそのせいだ。語ることで本音が出ると同時に消滅するのであとには何も残らない。その時だけの語りがあるだけだ。ところが書いたものはあとに残る。読み返すのも憚れることばかり。そこでカッコつけてしまう。それでは本音は吐露できない。やはり語るのが一番だ。
「先達はあらまほしきことなり」と言われるように、ガイドは必要である。登山など危険を伴うことはもちろんだが、それほどでなくてもグルメガイド、読書ガイドなどは最初の一歩を踏み出すためには必要だ。しかし、それがしばしば自分の好みとは異なることがわかってきたら、自分の舌と頭で決めることだ。先達とは違うことがわかるようになればよい。そのとき自らの感性が芽生えてきたあかしだからだ。
私たちの身の回りには、頑固な人がいる。人嫌いで、人の意見には耳も貸さず、科学の進歩には無頓着。その人がいるだけで周囲の人たちは緊張したり、ときにはお世辞の一つも言うのだがニコリともしない、そんな人が一人や二人いるものだ。しかしその人たちがいるおかげでその場が締まるのも事実。いなくなると途端に和むけれどやがてダレてくる。重鎮とも呼ばれる存在、それも人格の一つに数えよう。
同じ話を何度も聞かされた経験は誰にでもあるかもしれない。話す側は「伝えておく」とか、「実は…」などと初めてのことのように語る。聞く側は何十回聞かされたかと思うかもしれない。考えてみると、私たちは好きな歌を繰り返し聞くし、同じ映画をDVDにとっていたりもする。どこが違うのだろうか。きっと関心の高さかもしれない。同じ話を関心をもって聞けばよいのだ。そのためにはどうすればよいのだろう。
人は夢を語る。とくにこどもたちはそうだ。それらはしばしば否定される。夢の内容が壮大だからだ。サッカー選手になりたいと語っても、すべてのこどもたちがそうなるとは限らない。むしろ違う仕事に変化していくのが当たり前。専門的に換喩・隠喩と言って、サッカー選手の願望が何か別のものに変わっていくさまを言う。変わっていきながらも種子になるものを内に包含しているのだ。一見気宇壮大に見える願望を認めてあげること、それが大人の度量である。
何か深刻に考えていると、人はこう言う。「深刻に考えるな」。そう言われると、そんな自分がおかしいのではないか、変なのではないか、気が狂ったのではないかと思ってしまう。そこで考えないようにと思うのだが、再び考えてしまう。その繰り返しのなかで、考えている自分とそれは変だという二つの相乗効果によって一段と深みにはまってしまうのだ。深刻に考えているのは良いことだと誰かが言ってくれればよいのに。
人はみな疑問を抱いている。その疑問を知り合いに語ろうものなら、たちまち変人扱いされるだろう。どうした?と言われるのがオチだ。書物もあてにはならない。ふと気づけば疑問を抱かなくなった。しかし疑問は疑問として残り、モヤモヤを抱きながら今日まで来てしまった。それに解答を与えてくれたらきっと心がスッキリするに違いない。
夢を持て、と言われて生きて来た。夢は実現されたら夢とは呼べない。実際、実現したとたんに死んだ人もいる。見果てぬ夢を持つことだ。
思い通りになるもの、それはテレビのリモコンぐらいだ。どこかの大統領のように、軍隊までも動かせるのにくらべたらスケールが違いすぎる。そんな大統領だってリモコンくらいでやめておけば良かった。
お茶は自分で淹れる。コーヒーだって自ら挽いて淹れる人と一緒だ。時計に頼らず、自分のウオッチでタイムを計る。熱湯を注いで一番だけではなく二番煎じ以降のお茶の味がすべて別物になったことがあり、それ以後はじっくりお湯と対話している。ペットボトルのより美味しいからだ。
何に感動したかと言えば、天体望遠鏡で見た土星の姿であろう。土星に輪っかがあるのは「知識」としては知ってはいる。百聞は一見にしかず。見てはいけないものを見てしまったとさえ思った。外側を回っている衛星も白く輝いている。そのうちの一個の衛星が「タイタン」と呼ばれていることも知らずに土星の周りを周回している。
感覚は人によって千差万別。特に味覚については食べた人の主観によるところが大きい。空腹時には何でも美味しく感じるし、毎日美味酒肴ばかりでは飽きるに違いない。そもそも体にも良くない。人から勧められたレストランが自分の舌に合わなければ、相手の推薦はただの報告になってしまう。とはいえ、自分で見つけたレストランはさすがに推薦したくなるのが人情ではないか。それが相手から好評を得てしまえばやはり嬉しいもの。自分の舌に信頼を置きたくなることもあろう。
人間より犬が好き、という人もいる。犬は極めて友好的だ。従順だし、おのれを出さない。何と言っても言葉を発しないからいい。それに比べて人間はなぜ反対を言うのか、なぜ上を行こうとするのか、無視はする、威張ったり、ゴマをすったり…様々なことをして人を欺く。セラピー犬などは人を癒している。だれか私の犬になってくれる人はいないのか、などと思う人もいるだろう。
電車の車窓から見る景色はいつも通りだ。この駅あの駅。駅ごとに思い出がつまっている。それを確かめ、吟味し、思いにふけっていると突然違った景色が目に飛び込んでくる。電車を乗り間違えたのだ。頭は真っ白になるが、それは新たなプログラム作成のためのデリートキーを押したと考えよう。対処できる自信が少しついた。汗をかきかき先方を訪ねると、相手は涼しい顔をしている。こちらの頭の中が大回転していたことも知らずに。それでよいではないか。