駅名
電車が停車駅に止まるたびに駅名が目に飛び込んで来る。そのたびに、ここには誰さんが住んでいるな、昔ここに住んでいた、気に入った店があるなどと思い出される。芭蕉が奥の細道で地名を明記していたのもきっと同じことを感じていたからに違いない。地名は思い出が固まったものである。
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電車が停車駅に止まるたびに駅名が目に飛び込んで来る。そのたびに、ここには誰さんが住んでいるな、昔ここに住んでいた、気に入った店があるなどと思い出される。芭蕉が奥の細道で地名を明記していたのもきっと同じことを感じていたからに違いない。地名は思い出が固まったものである。
名称に私たちはしばしば惑わされる。その一方で楽しんでもいる。フェラーリの名前を聞いて、四つの車輪がついた車、と言ってしまえば話はそこで終わりだ。イタリア製の名車、と言えば、人も羨む憧れのクルマに早変わりしてしまう。私たちはモノそれ自体ではなく、名称に酔いしれているのだ。
世間体が悪いよ、とか、世間さまに申し訳ない、などと言われたことはないだろうか。世間さまに会ったことはない。頭上から見ている人がいるとは思えないが、いつの間にか、目を気にするようになった。よほど悪いことをしないかぎり、何をしてもよさそうなものだ。近所の目、人の目、みんなの目…誰の目も気にせず過ごすことはできないのか。
体の不調は心の不調である。心が楽しければ体は好調だからだ。不調の原因については自分でも気づくことには困難である。
レッテルを見て中身を想像している。中身はどこまでも未知である。人の噂、評価、それもレッテルである。評価が悪くても、会ってみるとさほどでもないことも多々。それにもかかわらず、あらかじめ言われていた評価はなかなか拭い去れない。中身を知るのは本当に難しい。
品物を選ぶ時、対象のモノと対話している。ときに、声に出しながら缶コーヒーと対話しているが、私たちは気をつけよう。
対話相手は誰とでもよい。父と対話すれば、父は子供の話し方を聞いて、そういう場合はこう言うべきだ、と教えてくれるだろう。母と対話すると、母の話が多くなってしまうに違いない。子供には、ウンの返事だけで、食べ物が出されるだろう。書物と対話すれば、知識が増え、言葉も覚え、世界が広がるに違いない。この場合、人との対話に困難を感じるかもしれない。なぜなら、対話とは予測不能のことが起きるからだ。それに答えるのは実に難しい。しかし楽しいこともある。それは相手の表情が見られるからである。
人は、言葉に生き、言葉に悩み、言葉に安らぐ。人の背中のホクロを告げてはならないと言われている。気にするからだ。わからなかったことに気付かされてしまうのだ。それが人生に何も影響しないと本人が知っていても、言われた当人は気になるものだ。教えてあげたつもりかもしれない。知らないほうがよい場合もあるものである。
私たちは未来に向かってイメージする。それらは美化されていて、惨めな自分、年齢を重ねた自分はなかなかイメージしにくい。自分は必ず良くなるというイメージは、過去のイメージが消えていない証拠である。しかしそんなイメージを思い描けなければ自分を未来に投企できないだろう。過去を知り、今を知れば自ずと未来を生きられるはずである。
人はなかなか新たな一歩を踏み出せないものだ。それは、今のままでいたいという安心感だ。しかし、安心が脅かされたとき、新たな一歩を踏み出さざるを得なくなる。それが苦難の到来かもしれない。苦難をどのようにとらえるかが問題である。
体に痛みがあって診察をうけても、異常なしと言われることが多い。そう言われても痛いのは事実。体の痛みは心の痛みであるのに、それを証明できないのだ。痛みの原因がわかったとき、痛みは消滅するのである。
聴覚が衰えると長生きする、というのは本当だろうか。余計な情報が入らなくなるからか。私たちはひとことひとことが気になり、ちょっとしたことに傷つき、悩むからだろうか。聴覚が衰えた、と言う人に限って自分に関係あることだけが聞こえているらしい。
同じものを見ても、人によって心地よく感じたり、不快と感じたりするのは、その上に過去の記憶を見ているからだ。それは無意識的に即座に蘇ってくるので、本人にさえ止めることはできない。そこに誤解が生じる。もみじを見て綺麗と感じるか、寒くなるから嫌だと感じるか。両方とも感じるのはバランスがとれているのだ。
視覚もそうだが、嗅覚の鋭さもばかにできない。ほのかな匂いに、初めて行った美術館のことを思い出したり、演奏会場のロビーの光景を思い出したりする。誰かがつけていた香水が漂ってきたものかもしれない。しかしその場所や年代を思い出したりする。きっと私の嗅覚を通して勝手に入って来るからに違いない。
「元気出せ!」と言われても出ない。「明るく行こう!」「頑張ってやろう!」どれも無理。元気のない顔の上に人が自分の心を見てしまうからだ。あわてて否定しているのだ。「笑いの教室」という番組を某放送局でやっていたが、みんなで虚空にむかって笑っている。不思議な光景だ。自分の心にさからっている。悲しいときには悲しみ、嬉しいときには喜ぶ。それが正常ではないか。
立場が変われば考えも変わる。180度変わる。互いの立場は分からないということ。社員は社長の考えはわからない。社長は社員のことを理解できないのだ。その社員が社長になっても同じである。夫と妻、親と子、教師と生徒、すべて同じである。妻の気持ちはわからないがペットの気持ちは分かるという人もいる。本当だろうか。互いが互いの考えを理解し合うにはどうすればよいか。
幼い子供たちはシール貼りが大好きである。ここに私は居る!という存在証明だ。私達も自分が存在していることを何かの形で残そうとする。業績、名札、机上の置物…なんでも存在証明になる。ここに居る、とは、生きて居ると同義語である。机上はそんなもので溢れかえっている。
幼い子供たちはシール貼りが大好きである。ここに私は居る!という存在証明だ。私達も自分が存在していることを何かの形で残そうとする。業績、名札、机上の置物…なんでも存在証明になる。ここに居る、とは、生きて居ると同義語である。机上はそんなもので溢れかえっている。
多くの仕事のなかから人は一つか二つ、ないしは三つくらいの仕事を選ぶに過ぎない。選ぶ基準は何か。それは無意識ゆえに自分でも知られない。その仕事を放棄したらその仕事が向いていないことを表わす。周囲の批判はこうだ。もったいない、才能があるのにというものだ。本当にその仕事が向いているかどうかは、身体症状が表している。それを体の声という。それがなかなか聞こえないのだ。
行列のできるラーメン屋…などといわれると、確かにそんな店があるのに気ついた。それは以前から知っている店である。確かに美味しいと思ってはいたが、並んでいるのを見ると自分の舌もまんざらではないと思う。きっと味覚と視覚がセットになっているに違いない。舌だけで味覚を判断できるかどうか難しいところだ。
人が経験したことはほんのわずかだ。小説やドラマは、違う世界を経験できる場所である。それを受け入れられるのは、あまりにも遠い世界だからである。ところが人の経験談を受容できないのは、近すぎる間柄だからだ。嫉妬や羨望、聞く側との比較がそれを邪魔している。映画やドラマを観るように相手の話をそっくりそのまま受け入れるにはどうすればよいのだろうか。
街なかのカフェで勉強する若者の姿を見てある人が私に尋ねた。家ですればいいのにと、と。私はその人にこう聞いた。あなたのお母さんも奥さんもあなたが自分の部屋に入ったときに干渉してこないですよね、と。それは当たり前ではないですか?とその人。多くの家庭ではそれがないのですよ、と説明した。学校はどうなの?部活は?友達は?などと答えにくい質問を次々と浴びせてくるのである。言われたこどもは、もういいとばかりに家を飛び出してしまうのですよ、と説明した。その人にとって当たり前のことが他の家庭では異なるのだ。それを理解というのである。
食は攻撃性と言われている。ガツガツ食べるのは攻撃性が強いことを表し、食が細いのはおとなしい性格を表している。前者は体に良いものを摂り入れようとする積極性である。強すぎれば人を押しのける性格にもなり、弱ければ協調性ともなる。要はバランスである。
遠い景色は一様にフラットである。5キロメートルさきの山も10キロメートルさきの山もほぼ一緒だ。ところが近くにあるもみじの木の5メートルさきの湖とは大きな隔たりがあるから、湖に落ちないようにしなければなるまい。同じことは過去の記憶でも起こる。3日前の記憶とさっき起きたこととは大きな隔たりがあるが、大昔の記憶は今でもハッキリと思い出す。それどころか生きている。人は「そんなことを持ち出すな」と言うが、子供時代のことは今でも私の人生そのものである。そんなことも無意識になっていて、怖いひととは話すことができない自分がいる。
気候で気持ちが左右されるのは事実だとも言えるし、そうとも言えないのも事実だろう。気候が悪いから気持ちが萎えるのは、もともと萎えたからかもしれない。気持ちが高揚していればたとえ雨の中だって平気ということもある。いつも平気でいるためにはいつも前向きに生きることかもしれない。
曜日には様々な言葉が付着している。月曜日には月曜日の、火曜日には火曜日の、その人だけの言葉が付着している。だからその曜日になると楽しくなったり辛くなったりする。その曜日に楽しい言葉をくっつければよいのだがそうもいかない。週末だけではなく、それ以外の曜日にも楽しい言葉を付着させたいものである。
暑い時期もある日突然寒くなる。季節の移り変わりである。人もある日を境に変容する。そのためには意識を変えることがベストである。意識を変えるとは言葉を変えること。人から「あなたは変」と言われて落ち込むのではなく、変こそ自分の持ち味だと思うことである。
「ソロモンの栄華の極みも一輪の花の美しさには及ばない」。人間の営みがいかにはかないものか。か弱く見える花は眺めていてどこまでも美しい。女性は美や真理を知っている。そして知っていることを知らない。知っているのは男性だが、美をもってはいない。
写真を撮るときは、自動的に笑顔を作る。いつも笑顔でいるわけはないのに、いつの間にかそうしてしまう。写真を見た人は、私がいつも笑顔でいるかのように思うに違いない。そこで、撮影に際して、周りの人に頼んで私を持ち上げてもらったことがある。よく撮れた。やはりいい人に思われたい心理である。
私たちはいつも誰かと対話している。その相手は自分自身である。自身というように、自分の身体と対話している。朝は何を食べるか。昼が近いようだが朝食べたものと違うものを食べようか、その量、質、洋食か和食か…つねに自分である。お腹が痛いけどどうしたんだい?も対話。その声を無視してはならない。健康とは自分の身体と対話できる人のことである。
自分で自分を拘束することを言う。自分ほどやりたいことをやってきた人はいない、と豪語するひとでも、お腹がすけば食べる。洋服もそう。自分で選んだシャツにはこのネクタイ、長さはこのくらい…どこまでも自分で決めたことに従わされている。もし、服は一着だけ、髪型も何も構わず生きている人がいたら、その人こそ真の自由人であろう。