目標
年末になると来年の目標を立てる人も多いと思う。目標を立てる原動力は何かといえば、悩みである。悩み、苦しみ、悔しさが目標を立てる源である。皮肉なことに、幸せは原動力とはならず、苦悩がその力になる。今年一番苦しかったことは何か。悩んだことは、苦しかったことは…それがある人は幸いなるかな、である。
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年末になると来年の目標を立てる人も多いと思う。目標を立てる原動力は何かといえば、悩みである。悩み、苦しみ、悔しさが目標を立てる源である。皮肉なことに、幸せは原動力とはならず、苦悩がその力になる。今年一番苦しかったことは何か。悩んだことは、苦しかったことは…それがある人は幸いなるかな、である。
疑問を抱えていると、「何を考えているのだ」、とか、「考えてばかりではダメ」などと言われたことはないだろうか。まるで疑問をもつことがおかしいみたいだ。成功した人は疑問がないのかもしれない。その人からみれば疑問を抱えている人が異常に見えるのかもしれない。正常と異常との境目はあるのだろうか。
体は大きくなっても、私の中には子供がいる。それは休憩所などでソフトクリームの、うねうねを上から食べていたりするときに感じる。同じようにうねうねを美味しそうに頬張っている人をみるとさらにホッとするのだ。反対に子供の中にも大人が居て、大人に向かって説教したりする。私はいくつもの年代の私がいる。
喫茶店の天井の木目が美しい。節目があちこち見て取れる。木目の一つ一つを繋ぎたくなる。北斗七星だとか、顔のようだなどと関連づけようとしてしまう。会話の内容もきっといくつかの話を関連づけながら聞いているのだ。この話とあの話…きっとあるはずだ。関連が。
喫茶店の向かいの男性客が大きな声で大きな話をしている。億単位の数字がときおり散りばめられている。イタリアやフランスの国名も華を添える。店を去る後ろ姿を見るとスカートを履いている。去ったあとは静寂。静かになったのか、淋しくなったのか。
公園の木々が葉を落とし尽くした。木々が生きている証である。誇り高い葉をすべて落とした。一度ゼロになる必要があるのだ。以前の葉が残っていたら、新たなものはその出番を見失うだろう。われわれの新たな出番はいったいなんだろう。考えるだけで楽しくなる。
身の回りはどんなものでもいい、美で囲んでおきたい。なぜなら、それらと自分は会話しているからである。美と会話すれば自分も美。醜と会話すれば自分もそのレベルになるだろう。今のところ後者の影響は免れているようだが油断は禁物。美をますます更新していこう。
一年の締めくくり、と言って、私たちは区切ることを良しとする。締め切り、期限、みな区切ることができるようになっている。区切ったあとは何も残らない。その一方で、あの時こうしておけば、とか、あの時こう言われたから…などと区切れずにいることの何と多いことかしれない。いっそのこと無かったことにする、それを潔いというのである。
レストランにミケランジェロの絵が掛けられている。4人のキューピットが矢を射ようとしている。キューピットの顔が皆異なる。さすがは絵描き。その頃の自分はどうだっただろう、あんなに肌ツヤツヤだったのか、ブロンドの髪が今では…などと対話している。きれいなものと対話しているときは自分もキューピット。いいものと対話を続けていきたい。
花屋の前でクリスマス用のリースが妍を競っている。玄関に飾る大きさはどうか、色合い、バランス、懐具合…いろんな要素を加味しながらイメージしている。ときに実際とイメージが異なることもある。アッと思っても自分で決めたことだから甘い点数になる。イメージとピッタリ一致することはあるのか。あるとすればどんなときか。答えはモミの木の向こうにあるのかもしれない。
私たちが語っているとき、無意識に語っている。次にこれを、その後この話を…などと用意しながら話してはいない。だから失言や言い間違えが起こるのだ。どうしたら失言、言い間違えを起こさずに済むかといえば、無意識を意識化しておくこと、とフロイトは述べている。
人と話していると、こちらが言ったひとことがきっかけとなって、相手の話にすり替えられてしまったという経験はどんな人にもあるはずだ。つまり人はいつも自分のことだけを考えている、ということだ。相手の話を聞くうちに、「また同じ話か」とか、「昨日も聞いた」という気持ちになるので、あわてて自分の話に切り替えているのである。相手の話を聞くときは真摯に耳を傾け、同じ話だと思っても、昨日までの話は聞かなかったことにして聞くのがよい。すると相手は「スッキリした」と感嘆の声をあげるのだ。聞くことの難しさと楽しさの二つがあるのだ。
人の話を聞くとき、人は自分と比べながら聞いている。釣が好きという話を聞いて、自分はどうか、と比べている。そのことに対する好き嫌いが加われば聞く側の頭は混乱するばかりだ。心を白紙にするとは、バカになったつもりで聞くことである。相手から教わるつもりで聞く。白紙のノートにすべてを書き込むつもりで聞かなければならない。
「名工は鈍刀を使う」というが、切れ味の良い刃物はやはり気持ちがよい。切れ味のよい答え、切れ味のよい解説…それらはすぐに返ってくる反応のことを言う。逆に、パッと答えて相手を傷つけることもある。そういうときは、一度胸の中で答えをゆるくしてからのほうが良いのかもしれない。
インタビューで、「〜しようと思います」という答弁をよく耳にする。「〜します」でよいのにと思う。人が二つに分裂している証拠である。将来それをしている姿の私と、それを計画している私とがいるということ。プールに飛び込む姿を思い浮かべている私と、ビジョンをもっている私の二人がいるのだ。私が私の計画をして、その計画とはプールに飛び込むことです、といったところである。「私はもう一人の他者なのです」というランボーの名言が思い出される。
物事を真剣に考える人もいる。そんなとき人は、あまり考えすぎるなという。なぜ考えすぎるのか。それは答えてくれる人がいなかったからである。答えが与えられたとき、ちょうど抑えつけられていたバネが弾けたような気分になるという。思考という力が開放されて、スッキリした!と快哉を叫ぶのである。
子育てに大事なことは、「何もしないこと」だ。子供は子供なりにちゃんと理由があって行動している。大人のフォークで食べようとするのも、早く大人になろうとする意志の表れ。そのとき周囲は、「子供用のフォークで食べなさい」などという。私たちは、今までどれだけ余計なことを言われてきたことか知れない。余計なことをいわず、言われたことだけに答える。それが養育である。
新製品という言葉が輝いて見える。発売と同時に旧製品の存在が霞んでくる。「新」、「マークⅡ」と銘打ったからといって、必ず旧製品を超えているとは限らない。「ロングセラー」と銘打ったものもあるからだ。要は自分で製品の価値を決めればよいのだ。最近の製品はどれも完成度が高いゆえ、新などの文字の価値が高まるのだろう。われわれは「new」の文字を食べ、身につけ、一人満足している。
ご縁があってなどと言う。その縁とはなんだろう。それは欲望である。欲望が対象となる人や、モノを見つけさせる原動力である。反対に欲望がなければ見つからないことになる。欲望とは言葉だから、言葉を繰り返していれば見つけられるのである。よいモノを見つけたければ、プラスの志向をもつことだ。必ず私は良くなる、と。それを信念と呼んでいる。
話が通じる、通じない、の差はどこから生じるのか。それは聞く側が心を無にしているかどうかにかかっている。こちらが「寒いね」と言ったのに対して、「そうかな?」と言うとき、相手は寒くないからだ。語る側は、失恋して心が寒いからそう感じているのだ。語る側は失恋を、聞く側は気温を考えている。だから聞く側は、「そうだね」とだけ返事を返してくれればよい。言葉の意味を考えずに聞くこと。それを無心というのである。
何事にも興味がない、と訴える人は正常なのかもしれない。興味がある、と思っていることが、実はさほどでもないということもあるからだ。流行がそうだ。皆がそちらに向いていると、自分だけ取り残されたように感じてしまう。本当に興味があることはその人にとって何か。それは無意識になっているので気付けないのだ。
作家に限らず、私たちは締め切りに追われる。明日までに仕上げる、あさってまでに間に合わせる、などとせっつかれている。追われる、とか、せっつかれる、と言うように、私たちの背後を強い力で押すモノがある。その一方で、明日とか、あさってという牽引力とが私たちを目標に導く。私という存在がまるで誰かに押され、誰かに向かわせている。その両者とは誰なんだ。
ふとアイディアがひらめくとこはないだろうか。どんなときにそれが起きるか。無のときだ。夢中になっているときは何かしているときはひらめかない。部屋を変える、散歩に出かけたりするとひらめく。頭を無にした瞬間、今まで思いもよらなかったことが出てくる。降りてくる、などと表現するが、降りてくるためには、空港の滑走路のように無にしておかなければならないのだ。
人と意見が異なるのは当たり前と知りつつ、意見の違いが人との離反にまで発展する。食べ物、好み、趣味…違うと聞いただけで、人は怪訝な顔をする。異なった意見を受けいれる力を包容力と呼ぶ。
私たちはトゲトゲしいものより、柔らかいものに触れたがる。家具も道具もすべてカドは丸くしてあるし、指の爪だって爪みがきをかけてまろやかにしている。それは、もう触れることのできない母の肌や指先の感触を再現させようとする試みなのかもしれない。私たちは永遠に母から離れられないのだ。
まろやかな味、まろやかな語り口、などと私たちは「感じ」を表現する。どこがまろやかなのか、何となく分かり合ったつもりで頷き合っている。しかし、そうした表現を用いることでしか、自分の「感じ」を言えないのである。目に見えないものを表現するのは骨が折れる。
あいさつで難しいのはタイミングである。こちらから言葉をかけるか、相手からかけられるのを待ってからかけるかで悩む。相手が落ち込んでいるのにこちらから元気よく声をかければドキッとするだろう。目と目が合っているのに待っているのも変である。一番親しい間柄なら、無言で寄り添うに違いない。どうするか。阿吽の呼気でいくことにしよう。
感想は人によって異なります。違うのが当たり前としっていても、こちらが「そうは思わない」などと言った瞬間に相手の顔が曇る、ということはあるものです。相手に合わせるのが善で、同意しないのが悪という考え方が日本ではとくに根強く存在します。ところが、相手に合わせてばかりいると、本当の自分がなくなってしまう。私はいったい何を考えているのかと問いを立てることになります。そんな自分でいいのだ、と言ってくれる相手を探し続けているのが私たち人間なのかもしれません。
対向車線を走行中の車がパッシングライトをチカチカ点滅させている。こちらは減速する。しばらく行くと、速度取締り中であることが分かる。チカチカ点滅の上に「取締り中」という言葉を読んでいる。「気をつけろ」、と読んでもよいし、「速度を落とせ」でもよい。チカチカ点滅をどう読むか。気付けないとたいへん。いつもセンサーを鋭敏にしておこう。
元気とは何か。元気になるとも言う。子どもが、ぼくはヒーローになる!と言ったときに、親が、なれるよ!と、言えば元気になる。想像のなかで、対象の人物になり切ってしまえば元気になる。大人は子どもに向かってそのように言うことができる。ところが、大人も対象としている人物がいるが、そのことを大人同志でもなかなか言えない。元気になるには、理想を語れることが一番である。
当たり前のことだが、時刻表を見れば、何時何分にその駅に自分が降り立っているのを想像できる。時刻表には駅名と数字しか記載されていなくても、確かに雪が降り始めた札幌駅で、コートに身を包んだ自分の姿を想像できる。パラりとページをめくれば南国にも行けるし、もとに戻せば、隣の駅にといった具合に、日本中を旅することができる。束の間の旅気分である。想像力を豊かにしよう。