無聊
無為徒食の日々が続いた。春休みも夏休みも一日ゴロゴロと畳の冷たさを求めて夕方まで過ごす。無聊を慰謝してくれるものは、ときおり接触が悪くなる真空管式ラジオの頭を叩きながら流れてくる志ん生の落語とラジオドラマであった。自分には何もないことの虚無感を音で埋めていた。無人島に行きたいという人の気持ちがわかる気がする。
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無為徒食の日々が続いた。春休みも夏休みも一日ゴロゴロと畳の冷たさを求めて夕方まで過ごす。無聊を慰謝してくれるものは、ときおり接触が悪くなる真空管式ラジオの頭を叩きながら流れてくる志ん生の落語とラジオドラマであった。自分には何もないことの虚無感を音で埋めていた。無人島に行きたいという人の気持ちがわかる気がする。
真の優雅さとはなんだろう。どんなみだらなさをも恐れぬ、泥中の蓮の花にも劣らぬ気高さを言う。蓮の花のどこを見渡しても泥の痕跡を認めない。その美はあたりを睥睨し、1ミリの侵入すら許さない。それは外面からくるものか、それとも内面から滲み出るものか。
意志といっても、それはしいられた性格の一部である。人には最初から意志などないからだ。お前はこう生きろ、これがお前の使命だ…誰かが押し付けたものにすぎない。だから人は悩むのだ。自分の意志と押し付けられた意志と一致することはないと知るべきだ。本当の自分の意志とは何か。どうしたら会えるのだろうか。
人はときに、何か親しみのない抽象語の冷たい森のなかで自分の体がほのかに熱してくるのが感じられる昂奮を経験する。電車の車内でゴルフの話をし、背広という鎧に身を包みながらサッカーボールを追いかけた学生時代を語る。その熱源はどこにあるのか。
人は誰でも時代という様式の中に放り込まれている。つまりはそれが当たり前になっており、気づくことができないでいるのだ。優しい家庭で育てられれば優しい子に育ち、いつも戦闘状態にあるような家庭に育てば、戦闘状態が普通となるということだ。前者は、戦闘状態を経験せずに成長し、後者は優しさが欠如したまま成長する。いずれにしても欠如となる。程よい家庭はいったいどこにあるのか。
人に深刻な話をすることは難しい。迂遠な話で時を稼ごうとするだろう。ひとことでも秘中の秘を繰り出そうものなら、鼠算のごとく広大無辺なところにまで話が拡散することを人は知っているからだ。胸に秘めている話はどこで発散すればよいのか。
葉桜のころだ。前日まで桜色が紺碧の虚空にその淡色を競わせていたのが虚事だったかのように、控え目な薄緑にその席を譲っている。緑の葉は最初からその枝々に附属していたかのようにその形を枝に溶け込ませている。その潔さに比して我が生はどうだろう。未だ欲望の枝にへばりついたままである。
人はどんなときに己が瞳に火を宿すのか。日頃遊惰な暮らしにうつつを抜かす中で、誰が灯したわけではない灯火が瞳の奥でともるのだ。それは未だ自分でも見出されぬ大儀がひそんでいたからだろうか。そしてそれはいつか。青二才のころのメラメラとした火なのか、あるいは日々繰り返されてきた任務から纜を解き放たれた瞬間なのか。灯される刹那は未だ謎である。
人が傾ける情熱とはただ一つのことに捧げられた狂気にしかすぎない。それは非合理で、激烈で、反抗的なものだ。他人には到底理解できない。釣りのどこがよいのだ、スポーツの何が汝を夢中にさせるのか…。人は嘲笑し、ときに熱狂する。人の評価とはすなわちそんなものだ。気にすることはない。
子供時代の課題は「遊ぶ」、「食べる」、「寝る」だ。社会や学校は表舞台。練習場で子供たちはいじめ、蔑視、排除の憂き目に会い、そのたび切歯扼腕の思いをしてきたことかしれない。練習場での指導者はいたのか。いたとすればそれは誰か。
奢侈の限りを尽くし、池の鼈がときどき頭を擡げるような家に住もうと、簡にして素なる良寛の五合庵を絵に描いたような、手を伸ばせばすべて事足りる家で一生を過ごそうと、テレビに向き合う生活にさほど変わりはない。掃除が楽だという言い訳をよそに、竜宮城に憧れる自由が自分にはある。
人はときに物事に酣になることがある。周囲も見えないまま迫りくる宵闇にも屈することなく白球の行方を追ったこともあるはずだ。途中で遮られることをよしとしない気鋭はいつの頃からかその鋭さを失ってしまった。失わせたものは言葉に違いない。言葉さえなければきっとその鋭さは今の今でも輝きを保ち続けていたに違いない。
眠れぬ夜のしじまの中で、思案がとつおいする。「眠れぬ夜のために」などと言う書物を繙いたらどうだろう。さらに眠れぬことになってしまうに決まっている。答えがその中に見いだせぬからだ。腹が立ってきたらいつの間にか寝落ちしていた。
白熱した危機も来ない、高揚の感情もない、そんな人生はたぶん退屈極まりないに違いない。安寧と見えて内部に巣食う白蟻のようなモノをかかえているのが人生であろう。野球選手の傍に控える危機ほどでなくても、われわれは一触即発の危機と隣合わせである。蟻に巣食われないためにどうすればよいのか。
好天とともに大勢の人が野や山に繰り出した。あちらこちらから笑い声があがるが、その清らかすぎる笑いには一種の作為があるように感じられる。演芸場での笑いはいっときの爆発にしか過ぎない。真の笑いとは微笑み合うことではないか。一日のうちそんな笑いが一度でもあればよいのかもしれない。
若いころは倨傲な振る舞いをしがちである。清冽な目で人を睨みつけ、質問をし、生まれながらにして世界の秘鑰を握っているかのように振る舞う。そんな彼らを大人たちは駁することにしばしば難儀させられる。彼らは自分を凌駕しようとしているのだ。殻を破ろとしているのだ。それに答えたとき、彼らは成長するだろう。確実に大人になるだろう。
質実剛健な家庭に育った子が優雅で洗練を好むこともある。反対に優雅な雰囲気に涵養されながらやんちゃな子に育つこともある。陰と陽、明と暗、そのどちらも対をなしてバランスをとっている。明に慣れ親しんだ人からは暗は忌むべきものとして目に映るだろう。両方を受け止めることを寛大というのである。
青色はあなたに似合わないから、緑色のシャツにしなさい、と言われるがまま緑を着て行くと、やはり流行りの色はあなたには似つかわしくないから、青に戻しなさいと言われたことはないだろうか。言われた通りもダメなら私はどうすればよいのか。いつの間にか、自分で自分を決められなくなっている。似合う、似合わないの基準はいったいどこにあるのだろうか。
誰かに悩み事を話したときに、相手も同じ悩みをかかえていると知ることがある。悩みは自分だけのものではなかったとわかる。それだけでホッとするのだ。ところがそこからが大変。相手がグイグイと自分の話をし始めるからだ。そうなると、もういいやという気持ちになってしまう。黙って聞いてくれるだけでよいのに。
ストレス解消のために始めたゴルフがストレスになる、筋トレをし過ぎて整骨院に通う…しばしば耳にすることである。では何もしないでいいかと言うと、それもストレスだ。ストレスとは、緊張と弛緩の交代である。ストレスをためては解消し、解消したらまたためる、その繰り返しである。われわれは波間を漂う木片のような存在なのである。
旧友同士が二人に共通の話題を熱狂的に語っている。熱い思いはときに大笑を誘発し、大きくうなずき合う。しかしその熱情は1時間ほど過ぎれば冷め、しばしの沈黙が訪れる。あの激情の時代とは何だったのか。1時間ほどのドラマに過ぎなかったのだろうか。それに較べると、これ以降の時間の何と長いことかしれない。
日々の課題は、砂浜にいて迎える夜の海の波のように、次々と押し寄せてくる。大きな仕事の変更から、カバンの鍵の調子を何とかしなくてはならない…など対処しなければならないことの連続である。後回しにすればやがて自分に返ってくるだろう。それらをちぎっては投げしているとは、我ながらよくやっていると思うほどだ。これも自己満足かもしれない。
桜の開花予想はなかなか当たらない。気象予報士でさえ10回に1回くらいの的中率だそうだ。そのことを批判されて言われる方はたまったものではないだろう。私たちの日々も批判の嵐の中にいるようなものではないか。その中を生きてこられたのは、私たちの中に誰かの言葉がインプットされていたからだ。どんな言葉が注入されたのだろうか。
コンビニで順番を待っていると、前の人がしきりにこちらを気にしながら小銭を数えている。きっと、「早くしろ」とこちらが思っているように感じるのだろう。こちらはただ待っているだけだ。次は自分の番だ。突然、うしろの人を気にしている私に変身する。立場が違うと私は何にでも変身してしまうのだ。
人から、あなたは真面目だから。と言われても釈然としない、そんなときはないだろうか。そう言われてしまうと、「真面目」を演じざるを得なくなってしまう。反対に、不真面目だと言われてもやはり釈然としない。どう言われてもしっくりしない。利口、バカ、紳士、グズ…いったい自分は何者なのか、それとも言われたことすべてが自分なのか。
雨が続きますね、と誰かに言ったとき、「降らないと農家が困るでしょ」と言われたら話がそこでストップするだろう。困るのは事実だが、挨拶とは事実確認とは異なるのだ。暑いね…に対して夏だから、疲れた…に対して、しなければいい…それぞれ言っていることは間違ってはいないのだが。挨拶したくなくなる、と感じ始めたらそれが正常と心得よう。
人間は言葉に悩む。言葉にはだまされない、と豪語する人も、4とか、9の番号札をもらえば、死とか苦の言葉を連想するに違いない。ドイツ製と書いてあれば頑丈そうだと思い、イタリア製ならオシャレ、T大学出身だと言われれば、すごい人に違いないと思いこんでしまう。言葉が優先している。純粋にそのモノ、その人をそのまま受け取ることはできないのだろうか。そのモノとして見る、それが難しい。
車を運転しながら思う。ハンドルを細かく動かしているのはなぜなんだろう。小刻みに動かす必要はないのに。たまにしか動かさないでしてみた。やはり危なっかしい。私たちの思考も同様ではないか。ああでもない、こうでもない、こうすればよかった、ああ言えばよかった…今度はこうしよう、ああ言おう…などと未来に向けて微調整しているのかもしれない。
たとえばスーパーに行って七味唐辛子一つ選ぶときでさえ悩む。メーカー・大きさ・成分・値段…すべての情報を頭に入れながら一つに絞り込む。その商品に賭けているのだ。味が今一つだとしても自分で賭けたのだから文句は言えない。味が良ければ勝利宣言をしよう。米の選択、乗る電車の選択…すべてが賭けである。そのうちの最も大事な選択を忘れていたかもしれない。
「足など遅くても良いのだよ」と誰かが言ってくれたら私は劣等感にさいなまれずに済んだだろう。速く走ろうと必死に走ってみたりもした。速い人に追いつくことなどないと無意識的には知っているにもかかわらずなぜ練習したのか。周囲の目が私を追い詰める。「目」などないはずなのに。