バンド
われわれの心の奥底には矯激と見えるマグマが存在している。放出する機会を狙っている若者たちは一縷の望みをいだいて、バンドの激音に身を投じて頑迷固陋な世界を嗤っているのだ。その爆音の向こうに、忘れかけた私たちの無意識が見え隠れしている。
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われわれの心の奥底には矯激と見えるマグマが存在している。放出する機会を狙っている若者たちは一縷の望みをいだいて、バンドの激音に身を投じて頑迷固陋な世界を嗤っているのだ。その爆音の向こうに、忘れかけた私たちの無意識が見え隠れしている。
ときおり雄々しい雲の鬣が中空に恰も寝乱れ髪のように乱れることがある。やがて来る梅雨を予感させる魁偉な様相は、かえって大いなる夏の予見を表している。私たちにも予感を得る能力があるとすれば、それは自らの欲望の反映だろう。死を予感するか生を予感するか、或いは死の後に新たな生を期待しての死なのか。答えはすべて雲の中である。
目の前に小倉百人一首の和歌がある。源重之の「風をいたみ岩うつ波のおのれのみくだけて物を思ふころかな」という一首がある。思いがちぢに乱れてる、と分かって言い条、リズムが心地よい。大中臣能宣の和歌が続く。「みかきもり衛士のたく火の夜はもえ昼は消えつつ物をこそ思へ」。響きが心地よいのだ。形式とは、漠然とした「美」に枠組みを与える重要な役目を担っているものである。
一つことに夢中になっていた時代は誰にでもある。己が身が熱蠟になって溶かされた蠟燭のようになる程の情熱の時代が。その火を灯し続けよう。自分というものが蝕まれる惧れなど少しも感じないほどの情熱の火を。
この世でもっとも気ぶっせいなものは立食パーティーであろう。見ず知らずの人たちの輪に招じ入れられようとしなければならない。それはしたくない。明るい照明とは裏腹に心は悄然たるままである。双の手はコップと皿で塞がれているので口だけが交際道具である。どうするか。唯一知り合いが居たので窮状を訴えた。彼はこう教示してくれた。会話などせずただ食べていろと。参加しなくなって久しい。
壮大な景色に心動かされたことはあったか。絵画を前に胸奥が揺さぶられたことは果たしてあったのか。いつまで観てるのだ、そんなことより勉強だという言葉が好きな書物を味読することから遠ざけたのかもしれない。その反動だろうか、お酒に耽溺する傾きがないとは言えない。夢中という夢見心地の世界に行きたい。
人の作業につい容喙したくなるのが人情である。経験がそうさせるのだ。殊更子供に対してしがちだ。人は試行錯誤しては転び、躓き、一敗地に塗れながら学ぶのだ…と知りつつ見えてしまうから困るのだ。見て見ぬフリをするのも大人の役割と心得よう。
「あれほどおとなしい人が…」大胆な行動に出ることはある。周囲は驚きもし、なぜ?という疑問を口にする。おとなしいそうでまじめということと大胆な行動とは矛盾しない。ユング的には、シャドーの仕業と言える。おとなしい人が大事業を立ち上げ、やんちゃな性格の人が繊細緻密な工芸品を造るのだ。私たちのシャドーは何か。それはいつ登場するのか。
学校のクラスには一人くらい穎脱した者もいる。家常茶飯には溶け合わず、自らの周辺に目には見えないバリアを張り巡らしている。彼の感情を揣摩する試みはすべて失敗し、それで彼に口をきくものは殆ど居なくなった。それでいながら世故には長けており、たまさか相談を持ちかけさえすれば忽ち東京のさる女子校とのクリスマス・パーティの企図をぶち上げたりする。実行に移した彼は水を得た魚の如く女子校生たちのアイドルに変身する。その翌日、いつもと変わらぬバリアで身を包んだ姿を教室中央の席に置いていた。その後退学して行った彼のことを語る者はいない。
少年期は何だかんだといって大人たちと衝突する。現実には一人の不羈の少年が、大人たちの言動と衝突し激昂したにすぎない。有り余るほどの目的も意味も持たないエネルギーの塊が噴き出し口に殺到しているのだ。その姿を目前に大人たちは悚然とする。気が変になったのではない。目標はいずれ自らの手で握ることになるからだ。
雅びとは、「みやぶ」が語源、京に倣う、諸般を都会風にすることを謂うとモノの本には書いてある。かと言って、すべてが優婉なだけとはかぎらない。御簾を透過する月影に見え隠れする調度品の螺鈿蒔絵に、落剥した優雅さの断片をあきらかに窺えることもある。私たちの言葉の欠片のなかにもきっと自分の本当の姿が映し出されているに違いない。
あなたが我が社に来たときから衰運が始まった…などと厭味を言われて良い気持ちはしない。お前が生まれてから…家を建ててから…あなたが提案してから…私たちはどれほど悪の標的にされてきたことか知れない。知らないうちに悪い子のレッテルを貼らされているかもしれないのだ。Tシャツに刷られた文字は言われた言葉かも知れない。
かつて父親の前で、寡黙で恭倹であった息子がある日を境に、灼熱した赤い岩石のような激情が喉元から発せられるときが来る。それは唐突な破裂であり、羞恥もなにもない程のものである。物の本に書いてあった通りである。知っているとは何の役にも立つことはないと分かった瞬間である。
楷書風のぎこちなさのある東京弁で話されると、道の角を定規のように歩かされた気持ちになる。鼻濁音を欠いた語り口に圧倒され、こちらの鼻濁音の軽薄さを侮蔑されているようにも感じる。京都弁が標準語だったらよかったのにという意見にも肯首できる。どんな語り口にも心が動揺しないことを心掛けよう。
花々が妍を競う頃だ。眼前の景色の上に、嘗て見た或る年の花鳥風月を無限に適応しようとしている。雨が降ってきた。雨滴が花瓣を揺曳させている。全ては現在で、すべては若き日の自分の姿そのものである。
遣場のない苦悩は、あちらに語れば誤解を受け、こちらに呟けば一気に噂が広がるのを知っており、心の奥底に滞留したままだ。語りたい気持ちと、語ってはならぬという指示との乖離にまた悩んでいる。同じ言葉が纏綿して離れず、言葉は身体症状として現れるが読み解くひとはごく僅かだ。読み解くことが可能だとすれば、それはどのようにしてなのか。
「右向け右!」の号令一下、何の疑いもなく首を右に曲げた。その声の主も孤独な代理人にすぎない、そう思うとき大音声も虚しくきこえた。いくら大人になったからとて、代理人はずっと続くのだ。いったい誰が私の本当の主なのか。
鬱蒼とした叢のなかに歩を進めていくと、突然雉が目の前に現れた。朱の翼が周囲の木暗さのなかで際立つ。雉は驚いたように森の叢の中に溶け込んで、再びその翼を草のなかに遊弋させ始めたに違いない。その仄暗さが彼らにとっての居場所なのだ。雉と私、何処が最良の居場所なのだろうか。
経験が増すとともに情熱と理想との齟齬を感じる。昔嘲笑していた先輩たちの説教がさほど滑稽に見えなくなってきて、自らの弱さが瑕瑾にしか思えなくなってくる。他人の瑕瑾を広い心で受容するのではなく、感じなくなってくることもまた不安材料の一つだ。鈍感とはつまりそうしたものかもしれない。
会議の最中、「ミルク・ファースト?ティー・ファースト?」と聞いて回る給仕がいるのをテレビで見た。紅茶を入れるのに、個人によって順序があるのだ。混ぜてしまえばどちらも同じなのだが、国家の危機存亡の会議中、どちらを先に入れるかは国家の問題より優先順位が上なのだ。私たちの中にも優先順位があるに違いない。それは無意識になっている。
親戚筋から「お前も立派になったな…」と言われた青年が、軽い戦慄を覚えたと報告があった。自分が軽い鞠のように空中高く蹴上げられたように感じたという。現役にいるときは銀の輝きを放っていても、人中に出れば忽ち退屈の銹に曇るのだ。それは瞬時に起こる。言葉とはそうしたものだ。
行かぬ先から退屈とわかっているのが会合だ。町会の月一度の会合は5分で散会してしまうので遅刻すれば白い目で見られるに決まっている。その日は仕事を休まねばならない。欠席すれば生きていたかとばかりに配布物がポストに投げ込まれている。死んでしまえば配布物もなくなる。まずは生きている実感を感じるとしよう。
寸鉄詩風の辛辣な批評を聞くことがある。決してそれを周囲の人たちに敷衍することはないとしても、それによって、話に登場する人物がありありと現前することは決してない。批評とは語る人だけの感想にしか過ぎない。
あれほど灼熱の日に憧れていた日々からは、はるかに遠ざかってしまった。かと言って厳寒がよいわけではない。暑さが猖獗を極めるためなのか、あるいは自らの軟弱さのせいかはわからないが、暑さに負けない体とは何か。暑さに拮抗するだけの情熱が必要なのかもしれない。
街なかは新人を象徴する紺色のブレザーがひときわ目に鮮やかだ。昔の己が姿を彷彿とさせてくれるようで眩しい。公園で弁当を広げながら故郷の緑を想いだしていることだろう。あれだけ新人研修で打ち拉がれた彼らも仲間とのランチで一息ついているのだ。昼食とはすなわち刹那かもしれないが、目を現実から遠ざけてくれるものかもしれない。
父親たちの随身庭騎の日々は終わった。明日からおのがじし目標に向かって生を営めるのだ。ところがそこにも組織のために、が横たわっている。組織は国家のために存在し、どこまでいっても随身がついて回る。好きなときに目覚め、食べ、見事な声を上げている鴬を森のなかに探してみる。そうそう見つかるものではない。
連休に繰り出す人の表情は恰も万華鏡を覗くようだ。綺羅びやかな色さまざまな硝子の細片の組み合わせのような服を身に纏った集団と見ればそれは海外からの客であった。5月の太陽のもと明晰な眼差しを道の両側の店に滑り込ませている。ここは日本なのか外国なのか。自分は今どこにいるのかさえ定かでなくなっている。慌てて電車に乗ろうとすると車内の高いところから碧眼の綺羅綺羅光線を浴びることになった。
老年の知恵など欲しくない、若いうちは古老の説教に辟易していた。それは押し付けにすぎず、こちらの欲しい知恵でなかったからだ。欲しい知恵は、遊び方、怠け方、楽な生き方を教えてほしかった。
どれほど栄耀栄華の世界にいようと、Tシャツと短パンだけで暮らそうと、悩みは尽きない。その人のことはその人のことである。短パンは楽である、栄耀栄華はその維持に悩んでいる。Tシャツだったらまた買えば良い。着心地のよい洒落た色合いのものが2〜3枚あれば快適に過ごせる。今年の夏も暑くなりそうだ。
五月、花屋の店頭はその花数を増やし、空家に絡まる蔦の簇生する季節だ。気分の高揚とは裏腹に意識の遅延にズレを感じる若者もいるだろう。気分と意識が一致することはあるだろうか。汽罐車の喘ぎにも似た、行ったり来たりのなかで速度を次代に上げ、やがて両方のズレが一致するようになるのだ。一致したのも束の間、駅に到着するころには再び齟齬が本人を襲う。その繰り返しのなかで諦念が訪れるのだろう。
春の叙勲があった。テレビで観ると、叙勲を受ける人が固まっている。これほど咫尺するお方を目の前にしてのことなのだろう。歴史、品位、千載一遇さに人は見動が取れなくなるのだ。ラカンの言葉に触れる度にそんな刹那が訪れる。