« 2024年5月 | トップページ | 2024年7月 »

2024年6月の30件の記事

2024年6月30日 (日)

軒から落ちる雨滴がまばたきする睫毛のように落ちていく。その向こうに竹林が愁雨にけぶっている。ときおり竹の葉を滑るのだろうか、水の塊が音を立てる。背景に張り付いているのは水墨画のようなねずみ色の一色だ。その奥に灼熱の陽がその出番を今か今かと待ち構えていることだろう。

2024年6月29日 (土)

離れる

一度は身につけていた権威から解放されること、それを自由と名付けよう。理性からも、若さからも自由になったと考えることだ。それらに酔い痴れていた自分はほんとうの自分とは言えないのだ。

2024年6月28日 (金)

半年

真紅に輝く太陽がその全円を現すようになるのがはやくなった。もう半年が過ぎようとしている。今迄なにをしていたのか。振り返ると忸怩たる想いがしないでもない。後半もきっと一気に過ぎ去っていくことだろう。準備せねばならない。

2024年6月27日 (木)

簡素

鳥居が神のいませる世界はここから始まりますと教示してくれる。その儀式たるや簡素、清淨、象徴性に満ちたものである。川面に歩を進めると、川底の小石さえ数まえられる清らかさがある。恐ろしい面貌であろうと、単純で純白な魂がそこにはあるのだ。青い空と白い雲を背景に佇立する朱の鳥居を見るにつけ日本の美とはこういうものかと思い知るのだ。

2024年6月26日 (水)

性格

人間の性格のすべては先蹤の積み重ねで成り立っている。つまり自分のせいではないということ。今まで現前した数多の人が自分を形作っている。あの性格はあの人の、この性癖はこの人の…地層のようなものの上にあるのがこの私である。深層の地層はもう見ることはできない。表面に現れた本人だけを責めてはならない。そう思うと、この地層を一切合財捨て去ることが人間の使命なのかもしれない。自己改革とはそういうことと知らなければならない。

2024年6月25日 (火)

夕焼け

夕焼けがその色彩を空いっぱいに濫費している。夕焼けは燔祭だ。人同士が寇掠し合った結果の権力や、日中飛び交わされた理性、お暇な方の取るに足らない情報なんかの一切合財をオレンジ色の焔で焼き尽くす儀式だ。美が人間の営為を徒事にしてしまう。その後には無を凝縮したような真っ暗闇が次なる理性や新たな情報の出現に備えて暗闇の中から虎視眈々とその出番を待っている。

2024年6月24日 (月)

亜熱帯

夏だ。街全体が熱病にかかったような戸外に出るには勇気がいる。京都辺りを縦横無尽に闊歩する旅行者たちも、古刹の朽ちかけた門扉を支える錺に触れたりすれば忽ち灼熱の世界に引き込まれてしまうだろう。亜熱帯化した数ヶ月をどう過ごすか。

2024年6月23日 (日)

梅雨

梅雨の頃だ。雲のあちこちに陽の光が点綴しているが、厚ぼったい雲の塊が突然の驟雨の予感を孕んでいる。あの雲の向こうに燦然たる太陽がその姿を現すには今少し日数が必要だ。われわれは天気の話で他人さまとも会話を紡ぐことができる。万人受けする話題には、全天を覆い尽くす大自然の存在が必要なのかもしれない。

2024年6月22日 (土)

弓道

弓道部がなぜ体育会系なのか分からなかった。学生服から弓道着に変身した友人を奇異な目で眺めたりもした。自分たちもボーダー柄や水泳着に着替えているにもかかわらず…。弓道場から冬の風を凝縮したような矢色の弦音が聞こえ、ときおり的に当たるゆるんだ太鼓のようなドンという音がする。そのたびに友の凛とした姿態が目に浮かんだ。裸足は苦手だが学生時代にしておきたかったことの一つだ。

2024年6月21日 (金)

鶏鳴

どこの家で飼われているのか鶏鳴が聞こえてくる。それで自分が街なかを放浪しているのがわかる。中天には月が漆黒のなかに身を涵している。円の周囲には多少のギザギザがあって、それが月における絶巓であることをわずかに知らせるだけである。闇の底が白くなった。散歩の足を速めなければならない。

2024年6月20日 (木)

情報

私たちの周辺は情報だらけである。有象無象の噂に驚いたり疑ったりしながら毎日暮らしている。活字という権威にしばしば苦い経験を味わされたり、それで喜んだりもしている。情報という姿の見えない化け物に騙されないためにどうすればよいのか。

2024年6月19日 (水)

事態

毎日は非常事態の連続だ。電車の遅延、道の渋滞…米櫃に米がない…非常事態を処理するというすばらしい快楽的な仕事に打ち込むのは楽しい。演劇、ドラマ…非常事態の連続である。懈怠ほど人を悩ませるものはない。人の能力はAIの遥か上を行っている。

2024年6月18日 (火)

眼光

子どもはときに鋭い眼光をこちらに向けながら、そのなかに白鳥が囚われているかのような顫動を透かし見せている。大人たちは彼らが何に喜びを愬え、何に悲しみを愬えるのか知ることはできない。彼らの幼そうに見える姿は朧に微光を放っているに過ぎず、それを理解できるとすれば飛び飛びに幼い口から漏れ出すことばだけである。しかしいっかなそれを大人たちは理解しようとはしない。

2024年6月17日 (月)

予見(3)

この学校に入れば、この会社に就職すれば、などとわれわれは思いを未来に馳せる。同じように、結婚すれば、子供を産めば、転職すれば…われわれの未来は無限にあるようで一向に定まらないものでもある。こんなはずではなかった、知らなかった…。フロイトは、物事はあとになってからわかる、と言っている。

2024年6月16日 (日)

予見(2)

誰もが不可能と思っていたことがやすやすと実現されてしまう時代だ。スマホ片手にあるときは電話、ある時は辞書、あるときは電車内の暇つぶしに活躍している。むかし、現代の御茶ノ水博士といわれた研究家の講演に参加したときのこと、われわれ受講生にプラスチック製の弁当箱が配られた。隣の人と一緒に土を入れ、博士手製の粉と水を入れて割り箸で掻き回す。すぐさまカチカチの塊になるのを目の当たりにした。コンクリート不用の時代になると明言していた博士の夢はどうなったのだろうか。

2024年6月15日 (土)

予見(1)

戦争を起こす人は、短期間で終結すると思っているに違いない。起こすのは容易なことだと思っている。彼らには今しかなく、その結果、兵士たちはへとへとになるのではないか、兵士たちの疲労が国力の疲弊に繋がるのではないか、気が変になってしまうのではないか、それが自分たちにも返ってくるのではないかという考えには結びつかないのだ。未来思考とは知力に他ならない。

2024年6月14日 (金)

具わる

ほんらい、子どもには何の力も具わっていない。家族の他の子どもが愉しげに遊山に連れていかれるのを、罰に留守番をしなければならない子どもの、取り残された心細さ、口惜しさ、淋しさの限りが彼の身を慄わせる。虚ろな目に映るのは古色蒼然たる書棚に並ぶ世界文学全集の截金細工風の文字。それが生涯の友になったのかもしれない。

2024年6月13日 (木)

教師

高校時代の教師は英国仕立ての背広に身を包んだ、一分の隙きも無いハイカラ紳士だった。体躯はずんぐりしていて、顔はどことなく番頭風なところがあった。片手にいつもモンブランの万年筆を弄ばせながら対応し、時折モンブランを散らかった机上に向かって乱暴に放るのだったが、彼がその万年筆を置き忘れたという話はついぞ聞いた試しがなかった。あの風格はいったいどこで養われたものなのか。

2024年6月12日 (水)

叶う

子どもが親を思いのままに頤使するのは、自らの欲望の実現を体験するためだ。彼らは欲望が叶うことなど夢想だにしてはいない。子どもが、「おかわり」と言って器を出す、それに応えて親がおかわりを出す。欲望は必ず実現するよ、と親が示しているのだ。親はたまったものではないと感じるかもしれない。しかしそれが良い、それがベストなのだ。親以外、誰が叶えてくれるというのだ。

2024年6月11日 (火)

父の出番

家庭における父の出番は、子供が母親から叱責を受けているときである。その間に割ってはいり弥縫策を講じてやることだ。母親には父の言葉に肯わざるを得なくするのである。子供には子供の事情があり、説明できない出費もあることを斟酌して庇ってあげなければならない。そんなときこそが父の出番である。

2024年6月10日 (月)

アンテナ

子どもはときに、とっけもないことを言い出す。水面に突然水の輪が湧き出して来たかのように言い出す。大人はコーヒーカップをもったまましばし固まる。彼らのアンテナは大人のそれをはるかに凌駕する性能と感度とを持ち合わせており、大人たちの動向を逐一見張っている。その情報はその後の彼らを形成していくことだろう。

2024年6月 9日 (日)

二番手

日本で2番目に高い山は知られていない。山は不平を言わないが、人間にとっての2番は奈落同然である。銀メダルではダメなのだ。どう解釈するか。2番は自分しかいないと規定すること。そうすれば誰からも嫉妬されることはない。

2024年6月 8日 (土)

訪問

人は一日一度は眠る。黄泉路を訪問するということだ。自分を一旦殺害することで今迄の自分は何だったのかと見る機会である。恐ろしい夢かと思えば左程でもなく、かえってワンシーンが厖大な内容を包含していることもある。夢解釈の興味深さがここにはある。

2024年6月 7日 (金)

重大

人には、人に相談するにはあまりにも面伏せな事項がある。それほどに事が重大なのだ。即時に人に話せることなど大したことはないのだ。焦慮の挙げ句打ち明ければ、快刀乱麻の如く答えが見つかるということもある。それを信頼関係というのである。

2024年6月 6日 (木)

遮断

私たちは情報の海のなかに投げ出されている。ときに幽門蟄居することだ。対話する相手は自分自身。自分とは何か。何を目指しているか。障子というすばらしい間接照明に包まれた自分を見詰め直すのも一興である。

2024年6月 5日 (水)

来訪

6月というのに、土手越しの薮には毎朝鴬のつがいがその声を左右に鳴き交わしている。そのさまに双の目が自ずと動いてしまう。人の来訪もまた鴬と同様に楽しみである。とびとびの話も一興と感じるからである。このことあのこと、よもやまの話に打ち興じるうちに夜の帳は落ちる。それほどまでに人の話の奥深さ、見方の広範なことは自分という存在の小さいことを教えてくれる。次の来訪はいつなのか。楽しみは尽きることがない。

2024年6月 4日 (火)

瑕疵

万遺漏なきようにしても、どこかに瑕疵が残る。完璧などはないかの如く悪魔の嘲りの高笑いが聞こえる。文章の脱字、服の塵、皿や箸についた米粒…完璧が達成されたと同時に悪魔も私も消えてしまうのだ。まずは長生きしよう。

2024年6月 3日 (月)

気に病む

人のなかには濡滞の人もいて、それを気に病む傾きがある。そんな人もときに果断な姿を見せたりもする。後者の態度が隠されているのだ。世のなかは両方の性格の人同士が暮らしており、一人の人が両方の性格を出したり引っ込めたりしながら生活している。電気のプラス・マイナスのように。

2024年6月 2日 (日)

感情

人は酔余の常で高歌放吟し動き回る。体を動かさなければ口を動かして饒舌になる。そして挙げ句の果てに卒倒する。普段抑圧していた感情を行動という形で表現している。誰もが通ってきた道である。

2024年6月 1日 (土)

執念

子どもたちのモノへの執念はいかばかりであろう。一つ手にすればまた一つ、そしてさらにまた…やるべき宿題を放擲してまで訴え続ける。阿漕な言い様に親たちはただ佇立するばかりである。その執念は生の渇望である。大人も知への執念、モノへの執念、やがては生への執念の崩壊を畏れなければならない。

« 2024年5月 | トップページ | 2024年7月 »

2024年9月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          
フォト
無料ブログはココログ