探しもの
鞄のなかを探してもなかなかそのものが見つからないことがある。入れたはずなのに見つからない。心が急きますます探しものは奥へ奥へとその存在を隠す。それは秘め事のように自分でも見つかることを避けるようでもある。目に映るものは見慣れたものばかりだ。存在を消し去るものはいったいなにか。
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鞄のなかを探してもなかなかそのものが見つからないことがある。入れたはずなのに見つからない。心が急きますます探しものは奥へ奥へとその存在を隠す。それは秘め事のように自分でも見つかることを避けるようでもある。目に映るものは見慣れたものばかりだ。存在を消し去るものはいったいなにか。
物の文目が、暮色に包まれる直前に、突然ありありと緻密になるときがある。それは真の暗さにこれから入りますよという前触れだ。ほんの一瞬ではあるが、この花はこんなに鮮やかだったのですよと念を押されているようでもある。もう一度見直すことの意義を教えているのかもしれない。
人間は不満だらけの生物である。社内で昇進も次に不安が襲う。うまくできるか、上に行けばライバルだらけだ。しかしその不満が幸福を齎すのだ。
われわれはふつう、六感という精神作用を以て暮らしている。すなわち、眼、耳、鼻、舌、身、意の六つである。清浄とは、嫌なものは見るな、嫌な話は聞くな、まずいものは喰うな、身体を大切にして善いことだけ考えろ、ということ。かなり難しい。無駄な情報が1日中脳裏に吹き込まれているからだ。なんとか遮断する方法はないものか。
人をもっとも苦しめるもの、それは差異である。隣家が車を買い替えても、自分のは中古だ、とか、身長の差、誕生年、月、日…挙げ句の果ては、誕生時の体重まで、どこまでいっても差を見つけようとするのが人間である。その小さな差異に意味を見出そうとする。本人にとって1ミリにも満たない差異である。その世界から抜け出すにはどうすればよいのか。
人は悪い方に考えがちである。ダメになるかもしれない、うまくいかず失敗したら大変だ…それは重力のせいだから当然だ。上昇のためにはパワーが必要だ。飛行機など自然環境を破壊しながら上空を目指している。どちらが自然に優しいのか。
ホテルに着くまでの間、バスのなかはさながらブランド服の展示場だ。ワゴンの中をかき分けながら買い求めた靴のなかで私の足がむず痒い。夕食のレストランに歩を進めると、人はワインの品定めで頭を悩ませている。私も思慮深げにそうする。疲れ果てて大浴場に行くと、みなリラックスした顔をしている。私の足も寛いでいる。
街のカフェに入るとそれぞれ思い思いのアイテムを洒落たテーブルの上に配置して作業に余念がない。脳トレ、レポート、面接に行くのだろうか、情報誌に首っ引きの人がいて、テーブル上にそれぞれの王国を築いている。私はというと、何もしていない。脳トレもルールが分からず、ただ目の前のコーヒーがそれとは気づかれないうちに冷めて行くのを眺めているにすぎない。
山峡のそのまた奥に小さな滝があって、見上げるばかりの水条を中心に紫吹を上げている。ときおり白装束の一群が滝壺の浅瀬を足で探りなから歩を進めている。滝行と見える。やがてその一群がしとどに濡れたまま上がってきた。周囲の人々が異様な人でもやって来たかとばかりに、道を空ける。その周辺にだけ涼気が感じられた。
本から衝撃を受けた、ドラマから衝撃を受けたという話をよく耳にする。衝撃を受けるとは、その衝撃的なものが元々本人の無意識にあることを言う。同じような言葉が衝突することで、元々存在していたものが前に出てくることを言う。ないものに衝突してもそれは通過である。元々衝突されるようなものの起源はいったい何か。
セラピーはしばしば筋トレに例えられる。こう言われたらこう返す。それに対してまた言われたらまた返す、この繰り返しのなかで、相手とのやりとりができるようになる。本を読んで相手との対応法はこうしましょうなどと読んで、分かったつもりになるのは危険である。本の通りにやってみたら次々に相手から言葉が繰り出され、かえって以前より落ち込むことがあるので要注意だ。反復練習の必要性はここにあるのだ。
相手がこちらにボールを投げてきた。こちらの胸元の真ん中やや右。受け取りやすい位置だ。気持がよい、思いやりとは相手のほしい位置にボールを投げることだ。一方、こちら側の思いやりとは、相手がどれほど変な位置にボールを投げても受け止めてあげることだ。しかも、受けてやったという顔一つせずに。
民謡の合いの手ほど気持ちのよいものはない。やー、それ、ハイ…すべて謎の発言である。しかしそれだからこそ歌い手の歌詞を邪魔しない。相手を邪魔しない言葉を無意味という。ハイ、だけでこちらの話を聞いてくれれば、愛の手を感じるに違いない。
人がみな幸せに見える、と人は言う。街ゆくひとの表情はどこまでも明るく、親子は手を繋いで歩いている。そんな姿を見て、不幸なのは自分だけではないかと感じるものだ。葛藤のない人などいない。きっと街に出ることで相手の笑顔を自分に転写しているのではないか。
兄が活発だと弟は物静か、姉が社交的で妹が思索的、物事に陰と陽、プラス・マイナス、明と暗、昼と夜があるように、人の無意識にも両面がある。暗の根本には明が隠されているので、片方が明を演じるようになると、もう片方は自動的に暗になる。すべてはバランスである。
人が休んでいる時に働くことを節句働きという。その心理は、人が10の力で働いている中で、こちらが8の力で働いても引け目を感じるだけである。釈迦力で動いている人がいたらどんなに頑張ったところで、もういいやという気持ちになるものだ。ところが周囲が休んでいる、つまりゼロのなかで働いていると、8の力はすごいと感じる。差異が示す効果である。
暑ければクーラーのリモコンボタンを押す。冷え過ぎればまた押す。テレビ、インターホン、電話…今は触れるのが主流だから、ますます力がいらない。こんな放逸懶惰を味わえるまでの開発者は懶惰ではいられなかったに違いない。どの時期に勤勉で、どの時期に怠惰でいるか。せめて夏休みには、夏、休もう。
鬱金の衣を袒した僧侶を街で見かける頃だ。普段は本堂の華鬘のもと、仏典に目を通しながら見事な声明を上げることに専念している御前様が衣の裾を熱風に曝しながら足早に通るさまは、お盆の時期であることを知らせてくれる。そのときだけは、日本は仏教の国だと認識させられる。その一方で、正月になれば、神道の国の住人になる。何とも平和な国だ。
精悍なオニヤンマの姿もめっきり目にしなくなった。目の前のサッカー場には蝉の声が沁み入っている。子どもたちの歓声がない。歩く人の姿もない。サッカーボールが夏の思い出のように草むらのなかに置き去りになっている。不思議な夏休みだ。
「嚢中の錐」といわれる通り、尖った言葉が口をついて出る人がいる。そんな知識など出さずともよいのにと、周囲は気が気ではない。ところが本人がそれに気づくことはない。なぜそのプチ知識が出るのか。本人にとってそれが自然だからだ。その一方で、そんなプチ知識を面白いと感じる人もいるだろう。そんな相手に向かって放出してしまえば出る釘も打たれずに済む。そんな対話相手がいるかどうか、それが打たれるのと打たれないとの境目になるのだ。
輪廻転生という考えがある。人は一度死んで生き返るという説だ。日々の生活にその材料を探すと時計であろう。1分ごとに秒針は同じ位置に戻ってくる。長針も短針もその位置を変えているようで、やがて同じ位置に戻っている。人間の今日の生もまた同じ過ちを繰り返したり、同じ楽しみを何度でも味わっているのだ。
ショーケースに並んだ食器の数々が花が開いたようだ。その一つを買い求めて家に持ち帰れば、それはただの器にしか過ぎない。照明のせいだ。暫くの間、机上に放置されてたままになっている。真の価値が家の照明の下でも輝き出すことだろう。
幸か不幸かわれわれは言葉を覚えると同時に意味も学んでしまった。つまり言葉を聞いた瞬間にその下に隠されている意味まで受けとってしまうのだ。言葉一つに一喜一憂してしまうのは、この意味を知っているからに他ならない。人を馬鹿にする言葉も意味を知らなければ傷つくことはない。意味の世界から離れるにはどうすればよいのか。
辞書は言葉の宝庫であると同時に歴史の宝庫とも言える。長い彫琢を経て残ったものだけが今もそしてこれからも歴史上の言葉として語り継げられるのだ。流行り言葉がどれほど耳を通り抜けようとも、わずか、あるいはまったく残らないかもしれない。辞書の厚みだけ歴史の重さがあるのだ。
部屋のなかには床や壁の上にあらゆるものが存在している。それらをすべて見ているわけではない。そのなかからカレンダーを見ているとしよう。さらにそのなかの特定の日にちだけを見ている時、その一文字を見出しているという。私たちがものを見るというのは、殆どのものを犠牲にした上に成立しているのだ。見出しているものとはなにか。それは欲望である。
避暑地の目抜き通りはさながら犬の品評会の様相を呈している。大小さまざま、厚みのある犬、紙みたいにペチャンコの犬…すれ違う観光客の注目と愛撫を受けてご機嫌である。ときおり肩に鳥を乗せた女性のファッションが鸚鵡色していたりする。喧噪がひとしきり収まる頃には、遠くの山の端がくっきりと黄昏色の空に区切りをつけている。明日も別の品種のフェアが行われることだろう。
軒先から落ちる雨滴の回数が次第に少なくなるころ、雨が上がるのだなと思う。雨脚が速いときには時はどんどんと過ぎ、雨脚が遅くなるに従って時の経過はゆっくりになる。まさに時間が伸び縮みしている。そんなことを人に語ろうものなら、熱でもあるのか、などと言われてしまうだろう。情緒とは所詮そうしたものである。
目の前にコーヒーを淹れるためのポットが置いてある。これを「ポット」と呼ぶためには、コーヒーを淹れるという場面が現れないと、ただの置物である。注ぎ口が「?」の形に美しく湾曲しており、胴の部分には金色のモールがあるのがきれいである、などと見惚れていると、これは芸術品になる。机上を掃除するときは邪魔なものとしてその座から転落してしまう。それらは全部、その時その時における見る人の欲望である。
話を聞くとは、相手が何を言っているのかを想像しながら聞くことから始まる。「車を買い替えました」と相手が言うとき、任務を忠実に果たしましたよ、さあ私を褒めてください、と言いたいのか、単なる報告なのか、あるいは、買い替えましたから、まず第1番目に上司に乗ってほしいと機嫌取りをしているのかもしれない。その元はといえば、誕生直後に遡る。赤ちゃんはただ泣くことしかできないので、泣くという言葉が何を言っているのか母親が想像しながら聞くのだ。あくまでも赤ちゃんは欲望を語っているだけであり、あの泣き声を、母親への非難と受け取らないでほしいものである。
話を聞く側はしばしば大きな苦労を強いられる。というのは、相手の言うことが不満か自慢かの分別を聞く側ができないまま話の洪水に曝されるからである。そして悪いことに、話が飛ぶ。分別しようとしていた苦労が水の泡だ。第2の話題に追いつこうとする。その時点ですでに遅れをとっているので大慌てで復旧運転モードに切り替えなければならず、それがまた疲れを加速させる。どうやったら話に寄り添うことができるのだろうか。
旅行ついでにあちこちと名所旧跡を訪ねるのも旅の楽しみである。そう年がら年中旅先にはいられないからだ。ある人が遠くの友達夫婦の家を訪ねた。友が遠方より来るというのであちこち案内しますよと提案されたので、どこにも行きたくないから3人で部屋でゴロゴロして帰ることになった。人生で一番の旅行になったという。旅とは乙なものである。