山
山峡が一気に開けて中啓のように地面が広がっている場所がある。今や田畑が広がりそのところどころに家が点在しているのが見える。大昔ここを一気に茶黒い濁流が流れ去ったとは思えないほど長閑な景色が晴天の下に佇んでいる。歴史はたしかに存在し、確実に忘れ去られていく。地形はたしかな形でその痕跡をとどめているだけだ。
« 2024年8月 | トップページ | 2024年10月 »
山峡が一気に開けて中啓のように地面が広がっている場所がある。今や田畑が広がりそのところどころに家が点在しているのが見える。大昔ここを一気に茶黒い濁流が流れ去ったとは思えないほど長閑な景色が晴天の下に佇んでいる。歴史はたしかに存在し、確実に忘れ去られていく。地形はたしかな形でその痕跡をとどめているだけだ。
沖に出ると、どこまでも濃藍の水平線が空との境を明瞭に区切っている。ときおり塊のような白い波が現れるのはいったい何を意味するのだろうか。崇高な気まぐれ?それともきわめて重要な合図?そのどちらでもないとすれば無意味ということはあり得るのだろうか。心のなかにハッと浮かんだりすっと消えたりする思いとはいったい何なのだろう。
三羽の鳥が空の高みを、近づきあったかと思うと、また不規則に隔たって飛んで行く。その接近と離隔には、なにがしかの神秘がある。相手の羽風を感じるほどに近づきながら、ついと遠ざかるときの青い距離はなにを意味するのか。無意識という空虚のなかをつきつ離れつする三つの想念がわれわれの中にも飛び交っている。
朝の霞が森の木々の連なりを幽玄に見せる。自然は色々な道具でモノを厳しくも優しくも見せ、ときには神のような姿にさえ変貌させる。見ている人間がそう意味づけている。心象を景色になぞらえているのだ。人から言われた言葉もこちらの受け取り方次第だ。言葉を選んだつもりでも誤解が生じる。言葉という無意識の難しさがここにある。
風は定まりなく動いている。北の風と言っても、そればかりとは限らない。まるで空気を撹拌しているようだ。撹拌しないことには、その隙間に悪が生じるかのように撹拌作用はとまることはない。人の心も揺れ動き、ごちゃまぜになり、撹拌され通しである。だから悪いものがとどまる隙がないのだ。
家の者にはかなり酷に当たるくせに、よその人にはいかにも慈悲深い微笑を絶やさない人もいる。言葉遣いも丁寧で、よろずに思いやりを見せ、世間からはこんなに愛している人間であることを、自分でも他人でも実証することに努めている人だ。そのおかげで、世間様に対してボロが出てないで済んでいると思われる。
時間に拘束され、組織に縛られて暮らす私たちは、社会の覊絆を脱して、四方八方に自分を飛翔させたいとも思っている。ところがいざ、自由を与えられると、何をしたら良いのか分からなくなるということもある。それは飼い慣らされてしまい、縛られている生活に安住した結果かもしれない。自由になったときの準備もはやくからしておかなければならない。
ホテルのロビーで、誰を待つでもなく座っていると、通りすがりの家族連れ人が、気の遠くなるようなあいさつの交換をしている。その背後で凶人のように押し黙った婚約者らしい男性と女性が佇んでいる。窓外に目をやると、人々の交差が忙しげである。ここだけは時間がとまった映像のように、人々は立ち尽くしたままである。
近隣の国が「建国5カ年計画」を立てているという。物騒な国ではあるが、計画を立てている、ということだけでも学ぶべきだろう。今日の目標、中間の目標、遠い目標…破壊的な目標でなく、建設的な目標を立てよう。
人間はひとことで傷つき、ひとことで安堵し、勇気がでたりする。言葉をもっているからだ。言葉一つに神経の簓が反応してしまう。ひとことにその人の人生が垣間見られることもあるし、人間性があからさまになることさえある。かといって教科書的な会話では物足りない。それを考えると口をきけなくなるような気がする。
人間の頭は固い思考でできている。固体であることをやめ、液体に変え、さらには気体にまでも変えてしまう力こそ感動である。身も心も一気に紅茶のなかに溶解しつくし、元の固まりがあったことさえその痕跡を残さない。それほどの感動を一つでも多く感じていたい。
私たちの身の回りは不要なもので溢れている。安価で買えるからだ。生活にはコップと二本箸、器が二つあれば事足りる。料理にはお皿が大事というのも事実。事足りるのも事実。ものによっては器が付属している食材もある。いつかシンプルライフに戻るときが来るだろう。
日がな配慮のし通しである。時計の針の様子を伺い、食べ過ぎに注意し、街中を行き交う自転車や車に気遣い、満員電車の車内では360度の全方向に気を遣い、部下に気遣い、同僚はライバルであるから気を遣う。上司はもちろん、上司の上司にも気を遣う。暴走族はやりたい放題、われわれの無意識を実現しているのかもしれない。
嘲笑、蔑視、無視…それらを恐れて人は戦々恐々の毎日を過ごす。俄か雨を避けるために、微笑、卑屈な態度、低姿勢という傘で身を隠す。それは世間の目を避けて跼蹐の姿を想像させる。それらが自分を排除していると受け取るか、それとも、あなたはこの場に相応しくはなく、あなたが胸を張って生きる場所は別の処だよ、と言うメッセージと受け取るか。ジグソーパズルの位置探しが始まる。
人と自分とを比べてはならない。それが教えであった。それができない。友達と同じものをレストランで注文する。目の前に出された料理を見て、相手のそれと比べている。計測機器さながら、目はその大きさ、焼き加減、添え物の嵩、ジュウジュウしている音…空腹がセンサーの感度を高める。比べてはいけない。
物事を上達させるには、褒めるのがよいとされる。それが良いのか、それとも批評されて伸びるのが捷径なのか。良い点に焦点を当てれば欠点が隠れるだけでなく、自らの欠点を自分で修復してしまうことを言うのだろう。どことなく子どもへの対応じみた傾きがないでもない。櫛風沐雨と言うように、批判に晒されて伸びるまでには年月がかかるのかもしれない。
雨が降り出すと、「雨だ!」という。停電になると、「停電だ!」と言う。きっとそれは、善きにつけ悪しきにつけ感情が発生したためと思われる。感情を腹の底に貯めておくのは苦しいので、それを言葉に変換して放出するのだ。キャ!とか、オヤッ!もそうである。感情表現が、顔だけでは放出し切れないことを物語っている。言葉のおかげで健康が保たれているのだ。
レストランは女性客で賑わっていた。ゴシップ話に花を咲かせているようで、咲かせていない聞き手もいたりする。その彼女は、そんな話をした相手のことを忖度し、要所要所で人の悪い笑みを浮かべる努力をし、数時間後にはその努力の代償として、友人関係の存続を得るのだ。友情には努力が必要なのだ。
生きてこの方、うまくいった試しなどない。この道と信じた道は行き止まりで、あの道はと進もうとすれば誰かに先を越され、気がつけばなぜこんなことになってしまったのかと無意識に問いかけるだけだ。うまくいったことはやがて反故にされ、やるとは思わなかった道の上にいる。無意識に導かれるように。
庭園とは、人間が作り出した歴史である。受けて来た勲章は小石に、媚びへつらってきた証は蹲踞に、お付き合いした怖い方々は峨峨たる築山。そこから流れ落ちる滝は、自らの従順さを示そうとした歴史だ。そんな気持ちを込めて庭園を誂えてみたい気もする。
鏡を見る。皺が見える。皺を見ているとき顔は見えない。鏡から離れる。鏡のなかに皺を捨てるためだ。一度確認した上で捨てる。そのたびに若返る。そう信じている。
座っていると向こうから奥さん連れの2人が話しかけてくる。同級生同志で結婚したのだった。私と隣の人とで相手が立ったまま対話することになった。しばらくして夫婦は向こうの友に呼ばれてわれわれの前から立ち去った。われわれの目の高さに揺れ動く夫人の臀と夫のそれとのどちらが大きいかを比べて見た。
同窓会には必ずといって良いほど元担任が招待される。幹事は不思議な直感で昔の話を元担任に持ちかける。ゲンコを喰らったことは喉の奥に隠し込んで、キャッチボールに付き合ってもらったこと、密かにCDを貸してくれたことなどを話題に出す。輝いていた時間を共有するかのように。
パーティに誘われるときと、招待者名簿から外されて悲しくなるときとがある。招待されたからといって鬱陶しく思うこともある。翌日になって、招待された人たちが昨晩のことを語らないのはなぜなのか。パーティそのものが好きなのか、招待されることがうれしいのか。どちらなのだろう。
顔は憶えていても名前が思い出せないことがある。名前はいつもは連呼していないからだ。「ほら、あのよく週刊誌に似顔絵で描かれていた…頭が尨毛でコロコロ太った政治家…」といった具合に思い出そうとするとき、人はある戦いの最中にいる。名前を記憶するとは、映像を文字に変換する一大事業なのである。
洗い晒しのシャツが下ろし立てのシャツより白いなどということはない。私たち人間は歳を取る一方。そのたびにより白くなるにはどうしたらよいのか。今朝から下ろし立ての人間になればよいのだ。そしてまた翌日は下ろし立てになる。その繰り返しを続けるしかない。
名声嘖々たる作家の本を紹介されても、そうかなと納得できないこともある。人によって受け取り方は異なるからだ。それが続けば、本が嫌いになるかもしれない。自分で見つけた本、レストラン、道具…すべて本人次第である。どのようにしたら、自分好みの本が見つかるだろう。
怠りなく準備しておいた話はうまくできても、咄嗟の質問にドギマギした経験は誰にでもあろう。それは思いもかけないところから飛んでくる石礫にも似て、質問を受ける側は氷つく。なるほど!と相手を唸らせる答えをしたいものである。
時間は不思議だ。楽しい時間は強烈な絵画とともに結ぼおれ、その一コマ一コマが恰も糸で繋がれた紐のように頭のなかで伸び縮みしている。それを延ばせば一瞬にして絵画が現前し、再び折り重ねようとしても、頭のなかで絵画がいつでもその全貌を壁一面に描き出そうと待ち構えている。そんな楽しい記憶が一つでもあればよいのだ。
ソロキャンプのテントが見事なまでに等間隔に並んでいる。仕事帰りに四駆を走らせ、キャンプ場に着いてからは、テント張りから火起こし、すべて一人でやる。そうしなければ寝ることさえもできない。人が自らの手で行うのが当たり前であった時代がかつてあった。本来の姿に戻ることを実践しているのだ。薪やロープをつかむ手に伝わってくる感触、火を起こす手際、火加減、それは自然との対話である。そしてそんな作業ができるという贅沢な閑暇。本来の姿に戻る必要もあるのだ。