同窓会(1)
同窓会には必ずといって良いほど元担任が招待される。幹事は不思議な直感で昔の話を元担任に持ちかける。ゲンコを喰らったことは喉の奥に隠し込んで、キャッチボールに付き合ってもらったこと、密かにCDを貸してくれたことなどを話題に出す。輝いていた時間を共有するかのように。
同窓会には必ずといって良いほど元担任が招待される。幹事は不思議な直感で昔の話を元担任に持ちかける。ゲンコを喰らったことは喉の奥に隠し込んで、キャッチボールに付き合ってもらったこと、密かにCDを貸してくれたことなどを話題に出す。輝いていた時間を共有するかのように。
パーティに誘われるときと、招待者名簿から外されて悲しくなるときとがある。招待されたからといって鬱陶しく思うこともある。翌日になって、招待された人たちが昨晩のことを語らないのはなぜなのか。パーティそのものが好きなのか、招待されることがうれしいのか。どちらなのだろう。
顔は憶えていても名前が思い出せないことがある。名前はいつもは連呼していないからだ。「ほら、あのよく週刊誌に似顔絵で描かれていた…頭が尨毛でコロコロ太った政治家…」といった具合に思い出そうとするとき、人はある戦いの最中にいる。名前を記憶するとは、映像を文字に変換する一大事業なのである。
洗い晒しのシャツが下ろし立てのシャツより白いなどということはない。私たち人間は歳を取る一方。そのたびにより白くなるにはどうしたらよいのか。今朝から下ろし立ての人間になればよいのだ。そしてまた翌日は下ろし立てになる。その繰り返しを続けるしかない。
名声嘖々たる作家の本を紹介されても、そうかなと納得できないこともある。人によって受け取り方は異なるからだ。それが続けば、本が嫌いになるかもしれない。自分で見つけた本、レストラン、道具…すべて本人次第である。どのようにしたら、自分好みの本が見つかるだろう。
怠りなく準備しておいた話はうまくできても、咄嗟の質問にドギマギした経験は誰にでもあろう。それは思いもかけないところから飛んでくる石礫にも似て、質問を受ける側は氷つく。なるほど!と相手を唸らせる答えをしたいものである。
時間は不思議だ。楽しい時間は強烈な絵画とともに結ぼおれ、その一コマ一コマが恰も糸で繋がれた紐のように頭のなかで伸び縮みしている。それを延ばせば一瞬にして絵画が現前し、再び折り重ねようとしても、頭のなかで絵画がいつでもその全貌を壁一面に描き出そうと待ち構えている。そんな楽しい記憶が一つでもあればよいのだ。
ソロキャンプのテントが見事なまでに等間隔に並んでいる。仕事帰りに四駆を走らせ、キャンプ場に着いてからは、テント張りから火起こし、すべて一人でやる。そうしなければ寝ることさえもできない。人が自らの手で行うのが当たり前であった時代がかつてあった。本来の姿に戻ることを実践しているのだ。薪やロープをつかむ手に伝わってくる感触、火を起こす手際、火加減、それは自然との対話である。そしてそんな作業ができるという贅沢な閑暇。本来の姿に戻る必要もあるのだ。