敬語
長上に対する言葉はいつ学んだのか。おそらくそのまた年長に対する言葉遣いを聞いていたからだろう。彼は相手に敬意を表しつつ親しみを込め、尊重しつつそっと自説を滑り込ませる堂々たる姿を私の目の前で見せてくれたのだ。さらに大事なことは陰で相手の悪口を言わなかったことだ。心底かっこいいと思った。
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長上に対する言葉はいつ学んだのか。おそらくそのまた年長に対する言葉遣いを聞いていたからだろう。彼は相手に敬意を表しつつ親しみを込め、尊重しつつそっと自説を滑り込ませる堂々たる姿を私の目の前で見せてくれたのだ。さらに大事なことは陰で相手の悪口を言わなかったことだ。心底かっこいいと思った。
「海が見えますね」と言とき、招かれて訪れた別荘を褒める語調がある。別荘の主はそのとき海の存在に気づくのだ。日常とはそうしたものである。身の回りを眺めても種々雑多、古物、新品、丸めた新聞紙…散乱の極致である。いちいち見ていたら目が疲れ切ってしまうことだろう。感覚鈍麻にならぬようにしよう。
歴史、文化に関心があるのは、それらに根付いた暗さに由来するからだ。血塗られた歴史、葛藤の末に形作られた芸能、しきたり、所作…懊悩の上にそれらが成り立っていることにわれわれは無意識的に惹かれるのだ。古刹の柱に残された刀傷、何万の武士たちの血しぶきが泥塀のあちこちに染み込んでいることを密かに察知しながら見ているのだ。暗い根のもとに根付いた文化がわれわれの精神を形作っている。
我々が、「知っている」と言ったところで、どれほど知っているのか。「知っている」つもりになって少し胸を反らせているだけかもしれない。衒った歴史書を小脇に挟んで古都の寺を巡っては、沢山の謬見に満たされた気持で自国に帰る芸術家風の外国婦人のように、すでにわれわれ日本人が当たり前のように感じている古刹にあらためて感嘆の声を挙げているに過ぎないかもしれない。それでいいではないか、再発見とは外から与えられるものかもしれないからだ。
晩秋の夜の闇は深い。万斛の闇にしばし吸い込まれそうになる。日本の四季の中でもこの闇はとりわけ暗く感じる。いったいどこにこんな闇を蔵していたのかと思い知らされる。暗闇のなかでなにか音がするのは、近所をうろつく小動物か。日頃出会うことのない珍客に親しみを感じる。それも闇のおかげなのだろう。
日本の秋ほど瑰麗を極めた風景はない。紅葉の色変わりの大変身はどうだろう。空気の匂い、温度感の違いはどうだろう。これがあの猖獗を極めた夏の日本だったのかと思うほどである。繁茂を極めた季節から枝々を整理して人間たちも人生の収穫に備えよう。
今言ったことを忘れても、さっきと反対を言っても嘲けられず、記憶に粗漏があっても怪訝な顔をせず聞いてくれたらよいのに。はるか大昔の交友関係に関してはあたかも人事興信記録の如き精密さを誇るのに、つい最近のことは曖昧なのである。それが老いるということなのだろう。それらの話に耳を傾けてほしい。ただ聴いていてくれるだけでよいの。なぜなら真実のことだからだ。
同窓会では、仲良くコレステロールの心配をし、又絶えずガンの心配をして医者から笑い者扱いされていることを誇り合う場、それが同窓会。数多の病院の評価を知り尽くしており、診察券の数を密かに競い合うのを楽しみにしている。自分のことは棚に上げて老人心理に精通していると豪語し、つまらぬことに吝嗇になる点では共通しているのだった。その場に居るべきか、立ち去るべきか、目の前に出されたコーヒーを飲み終わるまでに答えを出そう。
昼かと思うと天上に星が煌めき、下弦の月がかかっている。夜かと思うと空中を遊行する天女たちのまばたき一つしないかんばせが見えたりもする。昼も夜もなく、現実と空想の境界もない世界が絵画の世界にはある。とするならば、私たちはいったいどの世界に生きているのだろうか。
いかにも屈強そうな作業員風の男が、電車の車内で赤子を抱いた母親に席を譲っている。普段は苛烈な仕事に就いている人も、もっとも柔媚なものに心を配るものだ。昼のレストランで工事関係者たちが静かに箸を口元に運んでいるそばで、数人のサラリーマンが口を歪めて上司の悪口を交わすことに余念がない。人には両面があり、そのどちらも同じ人物を構成しているのである。
街で見かけるのは昭和初期に建てられた古い建造物である。歴史が忘れてしまったかのように存在する石造りのそれは、煩雑に誂えた古代楽器のような形をしている。どれだけ多くの人がこのすり減った大理石の石段を昇り、そして下ったことか。その人たちもすでにこの世に存在しないかもしれない。その先人の跡をたどるように昇っていくことにしよう。
朝ぼらけ、マラソンの人がいる。おぼめく光のなかうごめいているのはそれだけだ。東の方を見ると秋の抜けるような青空の予感を感じさせる。朝、昼、夜…初めて訪れたような街に見える。人の心も時々刻々変化を遂げている。今日をいかに充実させるか。心がけ次第である。
かつて川面の上をゆるゆると遠慮がちに昇ってきた太陽はまるみを帯びた単なる円盤だった。いまや一瞬の注視も叶わぬ光輝の塊となって全天に君臨している。それはもはや威嚇するように輝いている轟いている光焔だ。今日も威光を恐れおののいて、影から影を目指して歩かなければならないのだろうか。
人は聴き手の反応に敏感だ。聴き手のちょっとした動き、眉間に寄せる1ミリの皺、ポカンと開いてしまう口…それらは聴き手との距離そのものである。それをピタリと一致させるにはどうすればよいのか。
意志を堅持していると、人から頑固の称号を受けることになる。かといって少し譲歩の態度を表すと揺れてると言われる。金剛不壊の心をもてないものか。その灰色の牡蠣殻の奥に燦然たる真珠母を隠していることに誰も気づくことはない。
訪いは突然であった。波形硝子の向こうに尖った口が見える。鳩だ。しばし凝結した鳩は思案の末、羽音を残して去って行った。こんな高所のしかもビルとビルの隙間までよく来れるものだ。それに比して人間は何をするにも、どこへ行くのも道具を必要とする。それがないと生きていけないかのような気もする。
本当のことは言えるのか。言えばひとからの誹りを受けることは確かだ。ファンの皆さんのお陰でホームランを打てた、皆さんのお陰で娘が妊娠した…世界は譎詐に満ちている。そのことに気付かない。気付いてしまったら、毎日悩むことになる。本音はどこで語ればよいのか。
この世には、細かいことに気付く人と、気付かない人とがいる。痒いところに手が届く気遣いの人は、届きすぎてこちらが鬱陶しく感じるときがある。その一方で、不屑の人もいる。その人といると気持が安らぎ、失敗も許してくれそうである。
美味しいものも食べ尽くした、嘘です。日本中も行き尽くした、これも嘘。本もたくさん読み、遊びも飽きた、もちろん嘘である。ところが、人の話は面白い、興味が尽きない。私の感性をはるかに超えている。私の人生はいったい何だったのだろうか。
教師から、「人の良いところを見つけなさい」と言われ、絶対に見つけたくないと思った。成績がよく、イケメンで、女の子にもてて、スポーツ万能…そんな友達は嫉妬の対象だ。見つけた瞬間、見たくなくなる。劣等感を味わえ、と言われているように思えた。
「グリコのおまけ」がかつて存在した。キャラメルなどどうでもよく、おまけを得るために買い、包装紙を引きちぎり、大切にし、見せ合い、友に誇った。おまけの方が価値があったからだ。ある年代を過ぎたら「おまけの人生」。こちらの方こそ大事にしよう。
いくら好きなことがあっても、そればかりしているとは限らない。好きとはそれに触れると血が騒ぐことと言える。かといって年がら年中血が騒いではいられない。1日中ビートルズの曲が流れているカフェを訪れたが、さすがに疲れた。壁という壁にビートルズの写真があり、ギターやピアノがあり、血が騒ぎっぱなしである。血が騒ぐときと血を静めるときとバランスが必要である。
青年期に興味がなかったものに老年期になると関心が向く。目に見えないもの、すなわち精神的なものに関心が向くようになる。四国巡礼に出かけたり、寺社巡りをするのもそうだ。精神的なものとは言葉である。歳を取ると蘊蓄を語ったり、説明が長くなったりするのも同様だ。語りたいことがあったら、そっと隣の人に呟けばよい。
素っ気ない対応の店がある。店内で、いらっしゃいませも言わず、目も合わせず、放ったらかしである。ところが一旦品物の質問をすると詳しいことこの上もないといった風情でまくしたてる。聞いていて心地よい。質問を止めると再び放ったらかしに早変わりだ。それに比べて都会の店はどうか。田舎者にもVIP扱いだ。客はそんな挨拶にいちいち反応していない。反応するから疲れるのだと知った。放ったらかしが懐かしい。
赤ちゃんは、不快を泣くということで感情を放出する。大人も同様に怒る、怒鳴る、叫ぶ、喚く。周囲も相手も甚だ迷惑だが、当人はそれでスッキリする。怒らない人は我慢しているにすぎないので、気分や体に変調を来たす。体に影響を与えず、誰彼に向かわずに放出する方法は何か。
飛行機が駐機場を離れて滑走路に向かっていくとき、数人の整備士がこちらに向かって敬礼を送る。いったい誰に何に向かってのそれなのか。パイロット?客?それともキャビンアテンダントのなかのお気に入りの娘?送られた方は自分に向かってのものと思っている。
待ち合い室の椅子から立ち上がるとき、忘れ物がないか点検する。そのとき指差称呼する。目で見るだけでよいではないかと思うがつい指を指すのはなぜか。このときほど、私という人物以外にもう一人の私が私を指示していると感じるときはない。私はもう一人の他人。
「電車が遅れて申し訳ございません」と駅員が謝罪している。それほど恐縮しなくてもよいのにと思う。なぜなら、代理で言わされているにすぎないからだ。極端に言うなら、心底謝罪してはいないということ。それを言ったら身も蓋もないが、事実である。それを指示した上司に責任があるかと言えば、そうではなく、運転手のせいかと言えばさにあらず、急病人が出たのは、腹痛の原因を作った料理人のせいで、食材のせいで…というふうにどこまでいっても代理人しか出てこない。だから、「申し訳がない」という言葉は正鵠を得ているのだ!どうすれば諦めがつくのか。
待ち草臥れるわけは何か。それは差異である。予定と現在との葛藤である。8時になっても相手が現れない、その時間の差異を考えるから草臥れるのだ。草臥れないためには、どちらか片方にしてしまえばよいのである。
夢の解釈は、夢見手の思いと逆である。皆が笑顔で現れたという夢が恐ろしい内容であったり、魘されながら見た夢が素晴らしい内容であることは毎日の解釈の中で明らかである。夢はいったん語ってしまえばスッキリしてそれ以降毎回夢を持ってこられる。夢は現在起きている事実である。
雲が鰯雲になるころ、太陽はそのはるか向こうで白く破裂している。遠くを客船が静かに海上を動いている。手前からは漁船が三杯、白い航跡を残しながら沖へ向かって港を出るところだ。船には脚がないから豪華客船も潮風にまみれた漁船も白い裳裾を引くようにして海を進む姿が美しく見える。立ち居振る舞いとはそのあとに漂う残り香のことなのかもしれない。