視覚
レストランのショーケースに並んでいる料理はすべて蝋細工の作り物である。席に横たわっているメニューを開けば料理はインクのシミでできている。金額に目をやると高額なものほど美味に感じる。味わってもいないのに、視覚で先取りしている。私の味覚は果たして正しいのだろうか。
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レストランのショーケースに並んでいる料理はすべて蝋細工の作り物である。席に横たわっているメニューを開けば料理はインクのシミでできている。金額に目をやると高額なものほど美味に感じる。味わってもいないのに、視覚で先取りしている。私の味覚は果たして正しいのだろうか。
イギリス由来の紋章入りの大きなお皿に盛り付けられた肉料理…これだけでその場の情景が浮かぼうというものだ。一方、一人場末のラーメン屋の暖簾をくぐり、湯気にメガネを曇らせながらすするラーメンもまた乙なものである。どちらも食卓であり、どちらも晩餐である。
人は場面に合わせてそれぞれの機能を発揮させている。お客を目の前にしているときは店員としての機能を使い、帰りの道を尋ねられたら案内係としての機能、転びそうになったら、救助者に早変わりだ。一つの機能だけでは臨機応変に対応できないのである。それらの訓練はいつどこでなされてきたのであろうか。
先輩の奇妙な議論に駁することができなかったせいか、人との議論が苦手である。外国では自分の意見を言わない人は変人扱いらしい。日本では自分の感想を言った瞬間に変人扱いだ。そのことを周囲に吹聴してくれるものだから、変人扱いする人が増えてしまう。いっそのこと変人で通してしまおうなどと考えている。
生まれながらにして世界の秘鑰を握っているとしか思われない人もいる。すべてのことに真理が隠されていると知っている人だ。ひとこと語ればたちまち真理を告げたりする。私という存在がその瞬間、裸にされる。本心を観ることのできる人を観音と名付ける。
所作の見本になるのが作法だ。葬儀などでそれが見られる。不承不承にお辞儀する若者たちとは対照的に、年長者の作法の仕方を見ると、不吉をみるみる浄めて、不慮の出来事を大きな光明の空に融かし込んでくれるように感じる。作法というあとに残らない所作は人の心に残るような気がする。
レストランで客の一人が、肘にコップを当てた弾みでコップの水で床を濡らし、ガラスの破片が散らばった。店員たちの物腰は俄に活き活きとし、内に軽躁を隠していた。客たちにとっても何か愉しい変化でもあるように見えた。人間は退屈しているのだ。
午後の転寝を擾すもの達がいる。鳥たちのざわめきだ。自分たちがこれから巣に帰る時間だというのである。それと同時に紫紺の帷が回りに降ろされる。ある夕方わたしたちは何処に向かって帰って行ったのか。テレビの前にだろうか。散らかり放題の勉強机にだろうか。
レストランのあちこちからさんざめきの声が上がる。その清らかな笑い声にはどことなく作為的な響きがあって、それがかえって周囲から隔たったように感じられる。私たちは心の底から笑ったことがあるだろうか。笑いとは爆発だ。爆発を禁止されてこなかっただろうか。ときには心の底から笑ってもよいのではないか。
紅葉の便りが届くころだ。映像には紅葉山の半ば色づいた真赤な色が見渡す池の水面に燃えている。紅葉より池の反映に心惹かれるのは、心を映す顔色や言葉そのものを見ているからだろう。私たちはモノそのものよりも鏡のほうに強く惹かれているのだ。
人はしばしば相手によって態度を変える。相手が求めている態度でいようとする。同意を求めていると知った瞬間に、そうだそうだと頸を立てに振ったりもする。そのとき私という人間がこの世から消滅してしまったかのように感じることもある。そのとき私はどうすればよいのか。
ちょっとした池や沼にはボートなどがしつらえてある。乗り移るには多少のコツと勇気がいる。そのときのボートのやみくもな動揺が、この世界の不安定についてのもっとも親しい感覚を呼び覚ましてくれる。池を一回りしたあと、陸地に足を届かせたときの安堵感はいかばかりであろう。大地の恵みどころではない例えようもない感覚にしばしひたるのである。
およそ競うことを忌避する人もいる。運動を嫌って肉刺をつくることを拒む態度は倨傲とも思われるだろう。それでいながら服には華美を好み、繊細さを求めたりしている。人はどこかで競っているのだ。
ソロキャンプの人は、燃えさかる薪と会話している。目の前からはときおり薪の奥処からの音がする。その音こそ彼が発した問いへの返答なのだ。彼の密かな疑問にパチッと返答をする。それは坐禅における警策に似たものだ。あたりには何もない。あるのは炎の暗闇と音だけである。
同じ兄弟でも、顔かたち、性格が似ていない人がいる。同じ根から出た植物の、まったく異なったあらわれ方としての花と葉であるかのようなものかもしれない。そこに精神が介入する。あのような兄にはなりたくない、弟のように父母を困らせてはならない、という気持ちが関与している。近くにいる他人、それが兄弟である。
流行の歌を高唱してうっとりするような粗暴さから遠く隔たってしまった。そんな経験があったのは確からしい。嫉妬しているのかもしれない。そんな若さと引き換えに何を手にしたのだろうか。
陽の落ちるのが早くなった。突然早くなったようだとも言える。夕方の薄靄の不思議さは例えようもない。あるときは人の横顔をレンブラントの絵のように見せ、別の瞬間には暗黒の世界に導くかのような畏れをいだかせる。私はいったいどちらの世界にいるのだろうか。この世に存在しているのかさえ分からくなる瞬間である。
子どもたちの祝いの日が近づいてきた。華麗な服に包まれた我が子の晴れ姿を眺めたときに、子どもの成長を改めて感じるのだ。それは、自分たちの若さが衰えていることをのこりなく覆い隠すに十分なほどの若さに満ち溢れている。
永年待ち望んでいたことが実現する喜びに涵りたいものだ。どんなことでもよい、目標こそ大事だ。ところが一旦手にしてしまうとそのモノの魅力は消え失せる。そうしたらまた新たな目標を見つければよい。これが長生きの秘訣である。
90に垂んとするその教師は、姿勢こそ少し前屈みにはなったものの、目も耳も喋りも矍鑠としていて、女性聴講生たちの尊敬の的であった。講義が終わると必ず2、3人の女性が尊敬する師匠に自らの肩をお貸しして車寄せまでよろける足替わりになって同行するのが常であった。あるとき、残るべき女性聴講生が一人もいなくなり、あとに残っているのは男の私だけになってしまった。私は機転をきかせて、師匠に私の肩をお貸ししようとした。その瞬間、尊敬する師匠は私の肩をはねのけてスタスタと歩いて行ってしまわれた。
学校に行けば、自分の心事と似通った友を探すのに骨が折れる。生まれ、育ち、環境、家族構成などすべてが違うからだ。ほんの少しでも似た処を見つけては交わろうとする努力。子どもが、「友だちができた」と言うとき、それはどれほどの努力をした結果だったのだろうか。
森のなかに足を踏み入れると、凛たる空気が森いっぱいに漲っている。亭々たる樹々は青空めがけて高さを競っている。自然は何も言わないからいい。こんな処に来てどうする、などと説教しない。ただ黙って立ち、ときおり梢の葉叢をかすかに震わせるだけである。ただ黙って聞くとはこのことを指すのだ。
高級な墨ほど粒子が細かくて良質だと聞いて、イカの吐くスミも良質ですかと戯れに聞いたらまったくその通り、それが最高の墨汁だと答えられたので驚いた。それがセピア。セピアとは顔料の一種で、イカの墨から作られるという。物質ゼロから作られるのだから細かいのは道理である。自然には驚かされる。
私がしたりげに野球のことを話すとき、それはたいてい新聞やテレビの受け売りである。絵のこと、歴史や未来のこと…自分で見聞きしたことなど無いに等しい。自分がこの世にいることも人からの伝え聞きかもしれない。そう考えると、私はいったい何者なのかわからなくなるではないか。
2階にメガネを取りに行くと決心するとは、メガネを手にしている自分の姿が先に存在していることに他ならない。したがって、何かを手にする自分の姿を想像することで、あとになってそれが実現することを意味する。イメージを持つとは、まさに欲望を先取りすることを指しているのである。
2階にモノを取りに行ったときに、何をしに来たのか忘れることがある。それは、取りに行くと決めたときにすでに事は成し遂げられていることを意味する。想像の世界で完結してしまっているのだ。だから到着した自分はもう消え去っているのだ。
万事休すと思われたときに何かの前兆が訪れ、われわれを救ってくれる。あらゆる扉を叩いてはみたがどの扉も閉ざされたままだったのに、百年の間閉ざされたままと考えていた扉が開かれることがある。その原動力とはいったい何なのだろう。
MRI検査は、10分の間、盛大な音がするので知られている。噂に違わず、その洗礼を受けると思われた。開始早々、数十年前に登場した電子音楽(今となっては普通のカテゴリー)に似ている。その当時理解できなかった音楽がほんの少しだけ受容でき、後半は睡魔が襲ってくるほどだった。帰りの車内でいつもの音楽かけた。やはりそちらのほうが良い。
気づけばうるさい親戚もいない。同窓会名簿からも名前を削除してもらった。人と競わず比べず、人間の躓きのもととなる出世欲とも縁がなくなり、日がな気に入ったCDを詰め込んだ棚の傍らで過ごす。ときおり、事務所の前を酔漢が通るので駅前にいることがわかる生活だ。隣のライヴハウスの狂乱を極めた喧噪も、お目当てのアイドルが舞台から立ち去ると同時にお通夜さながらの静寂さに戻る。一人切りの秋が深い。
思わず言ってしまった、とか、そのつもりがないのに買ってしまったという経験は誰にでもある。自分とは別の何者かが私の前にしゃしゃり出て来て、私をさしおいて行動しているのだ。私はその何者かの手先と化している。その何者かに照明を当てた人物こそフロイトだった。彼はそのモノに無意識という名前を与えたのである。