栞
本のなかほどに栞が挿まれている。それはいつ挿まれたものなのか。試しに栞の裏側をひっくり返してみた。鉛筆書きのThe Beatlesの文字が犇めきあっている。自分との邂逅である。いったい何十年私を待っていたことか。
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本のなかほどに栞が挿まれている。それはいつ挿まれたものなのか。試しに栞の裏側をひっくり返してみた。鉛筆書きのThe Beatlesの文字が犇めきあっている。自分との邂逅である。いったい何十年私を待っていたことか。
山の頂上に到着すると、360°のパノラマを見る以前に、こしかたを見てしまう。到着したらおしまいといった気持ちになるからだ。あとは下るだけだ。景色を眺めても、ものの5分もすれば飽きてしまう。気づけば景色より雲の形を、パノラマよりもその辺の植生に目がいってしまう。人間はこうも飽きっぽいものなのか、それとも私だけのことなのか。
捺花とは不思議なものだ。つい先ほどまで花瓶に支えらて妍を誇っていた姿が、いまこうして上から見る対象となる。早変わりである。それでいて花という矜持はもっている。
一視同仁とは、人を分け隔てなく見ること、と辞書には書いてある。たった2画で構成されている「人」にしか過ぎないと見れば良い。ところが、私たちはこの「人」の向こうにある、「意味」をみているところに問題がある。偉い、弱い、男、女…。なぜ人として見ることができないのか。それは、当の自分も意味で生きているからだ。自分から意味を捨ててしまうと、この世からいなくなってしまう、その恐縮があるからだ。
梅の便りが届くころだ。植物に関心がなかった自分でも輓近花の便りが気になるようになった。俳句や和歌にも人事句と花鳥風月句があり、後者にいつのころからか関心が向くようになった。これも心の変化であろう。
梅の便りが届くころだ。春の披露目の使者である。あれほどまでに雪が猛威を振るっていても季節は循環する。その早さがあまりにもゆっくりなせいでまだかまだかと温もりを待つ気持ちに拍車をかける。春はもうそこまで来ている。希望をもとう。
何日か分のゴミを集積所まで運び終えたら、その日の仕事は終わってしまった。いったい自分の仕事とは何であろうか。自分の存在など無いに等しい。宇宙から見れば芥子粒以下であろう。芥子粒から生まれて芥子粒以下に返っていく。さっき運んだのは他ならぬ自分自身だ。
百貨店の屋上からは見渡す限りのビルが建ち並んでいる。近くのビルは互いに櫛比して、昔の面影をいくばくか残している。遠くの方に目をやると、いまでは見ることの少なくなったアドバルーンがビル群の灰色に染まることが困難であるかのように丸い形を保っている。高すぎて人影は見えなかったが、アドバルーンの丸さだけが人懐っこいムードをあたりに放っていた。
趣味というとどことなく上品なもののように耳に響く。珈琲に黒砂糖と上等なミルクを入れて飲むのも、ギターを爪弾いたりするのも、みな消閑の具かもしれない。人間はいろんなことを考えてきた。それらを人は文化と呼ぶのである。
看板の瀝青が悄然と剥がれ落ちて、その下の地金が現れていることがある。永年繰り返し見て親しんできた文字がある日見たこともない模様に早変わりしているのに気がつく。記憶がはたらいている証拠である。見ていないようで見ている。親しんでいることに気づかないだけなのである。
青春のさなかにいるときには見えなかった記憶が、箕を漉して現れる砂金のようにときおり空中に表れてはいやちこになる。あっという間の時間だったような気がする。それに比べて今の歩みは後からの足音にさっさと追い越されてしまう。悔しさもない。追いつけない。
事務所の隣はライヴハウスになっていて、イベントがある日には火点し頃から賑わい始めるのが壁を通して伝わってくる。事務所を出て道路から眺めてみると、建物の窓に、灯を遮る踊りの影が動き、あたかも狸囃子のように硝子窓を介して見える。ふたたび事務所に戻って机に向かう。さしもの喧騒もお目当ての歌手が帰ってしまうと静寂が訪れる。静と動、二つの世界を味わいながら暮らしている。
幼少期に羸弱だった人が、壮年期になって壮健になることもある。世間では病み切る、などと称するが、身体はそのときの環境の身体表現であるから、その人が環境に押し潰されていたか、それとも環境を支配していたかという解釈になる。人間は環境の生き物だからである。
人はどんなときに緊張するか。大勢の人を面前にしてのプレゼンだろうか。初対面の人との会話だろうか。もっとも緊張するのは羽林家との会話ではないか。先方が普通に接してくれても、言葉の端々にちょっと違った言葉が混じったりすればそれだけで緊張感が走る。それよりも、きっと先入観がそうさせているのかもしれない。先入観を捨てるのは難しい。
俳優がその身を飾った姿はいかばかりであろう。殊の外、頭から垂らした瓔珞の揺らめきは観る人の心をも揺らしてしまう。それはあたかも、仏像のきらびやかな仏身のうちがわに人を籠絡するほどの力を備えている。俳優や仏像に面したときの魅力とはきっとこれに違いないと思った。
太陽の色は何色か。赫奕たる輝きでわれわれを瞰下している色といえば赤。イメージは柑子、見た目は黄色ではないか。そもそも何色と限定すること自体が無意味であろう。オレはそんな色ではない、太陽は太陽だ、と言わんばかりに中空で輝いている。
自らの意志を貫き通せ、と言われてそうしたりすると頑固と言われる、その繰り返しではないか。武威をもってしても屈することのできない覚悟はどうしたらもてるのか。孤軍奮闘、四面楚歌、孤立無援…歴史上の人物はみなその中で生きてきた、と思っても、自分など比較の対象たり得ないちっぽけな存在だ。
唇の端から滲み出している血液を舌の先で舐めてみたら少し塩辛い。今朝の髭剃りの失策のせいである。たまに慎重さを欠くのはいいことである。大きな失策は笑えないが、ささやかな幸せと解しておこう。
友が貴住する広大な寺は下町の一角をほとんど占めていた。長い築地塀が延々と続いた先には見上げるばかりの寺院があった。むかしその右手に倒れんばかりの六角堂の中にかれが住んでいたのだった。その内部の床はボールを置くとコロコロと壁に向かって驚くような速さで転がっていった。目の前に果てしなく続く豪華な建物を見るたびに、焼け跡かと思われるほどの墓地が広がっていた。それが今でも二重映しのようにみえてくる。
明け方の不分明のなかでも人の往来の気配は確かにある。気配というのはどこからやってくるのかとおもわれる。カウンセラーはクライアントの前から気配を消すのが役目といわれている。自分が無くなることで相手の欲望が浮上するのだ。そのとき人は生きている実感を得るのである。
何故か寝ねがてになることがある。ヒルティの「眠れぬ夜のために」を読んでもやはり無理。思いが千々に乱れ、纏綿としたまま暗闇のなかで藻搔いている。どうしようもないときは、朝まで自分の身をほったらかしにしよう。
古い屋敷に必ずあったものが櫺子窓である。細い隙間に隔てられた雪景色や新緑の緑が、かえってそれぞれの趣を呈していたのだ。見え過ぎればそれで終結してしまう。細木によって区切られているからこその風情がそこにあるのだ。
ファンのことを推し活と言う。彼らは北から南まで追いかける。それを不思議なまなざしで見る気持ちとは何か。それは、眷恋の情がなくなってしまったからだろうか。
人からの誘いはなかなか断りにくい。遁辞を弄するのも憚られる。人はこれかあれかで悩む。それは、こちらにする、と決めたあとから襲ってくる悩みである。それを後悔という。後悔しないためには、後悔しない決めることだ。そう決めたあとも後悔しない、と決めよう…こうして後悔は続く。
生真面目一方の個人の家に生まれて、同じように生真面目に成長する子もいる一方で、反対の性格を自らのうちに育てる子もいる。これで大丈夫かという心配が尽きない。いずれ性格は環境によって変わる。生真面目に暮らすのが飽きることもあるだろう。つっぱりの人生に飽きることもあるだろう。プラスとマイナスを交代させながら人生を歩んでいるのかもしれない。
一つ事を考えていると、いつの間にか日が暮れているなどということがある。溜井の水がいつまでも月の姿を揺らすだけでちっとも前に進めないように。堂々巡りならまだ良い。考えが巡らないとはこんな状態だ。そんなときは外に出て空を見上げたら、そこにも月が煌々とした冷たい光を放っていた。
二月に入って僅かながら昧爽が早くなっている。夜の帷も下から押し上げられる早さを一日一日と上げている。地球は確かに動いている。時間も確実に進んでいる。歩みの速さも上げなければなるまい。
川釣りは研究に等しい。徒渉りもさることながら、天候や川の増水にも備えなければならない。釣り上げた魚はたべるではなく、この辺りで何を餌としているかを調べるという。のんびり釣り糸を垂れているのとは大違いである。