区切る
古い屋敷に必ずあったものが櫺子窓である。細い隙間に隔てられた雪景色や新緑の緑が、かえってそれぞれの趣を呈していたのだ。見え過ぎればそれで終結してしまう。細木によって区切られているからこその風情がそこにあるのだ。
古い屋敷に必ずあったものが櫺子窓である。細い隙間に隔てられた雪景色や新緑の緑が、かえってそれぞれの趣を呈していたのだ。見え過ぎればそれで終結してしまう。細木によって区切られているからこその風情がそこにあるのだ。
ファンのことを推し活と言う。彼らは北から南まで追いかける。それを不思議なまなざしで見る気持ちとは何か。それは、眷恋の情がなくなってしまったからだろうか。
人からの誘いはなかなか断りにくい。遁辞を弄するのも憚られる。人はこれかあれかで悩む。それは、こちらにする、と決めたあとから襲ってくる悩みである。それを後悔という。後悔しないためには、後悔しない決めることだ。そう決めたあとも後悔しない、と決めよう…こうして後悔は続く。
生真面目一方の個人の家に生まれて、同じように生真面目に成長する子もいる一方で、反対の性格を自らのうちに育てる子もいる。これで大丈夫かという心配が尽きない。いずれ性格は環境によって変わる。生真面目に暮らすのが飽きることもあるだろう。つっぱりの人生に飽きることもあるだろう。プラスとマイナスを交代させながら人生を歩んでいるのかもしれない。
一つ事を考えていると、いつの間にか日が暮れているなどということがある。溜井の水がいつまでも月の姿を揺らすだけでちっとも前に進めないように。堂々巡りならまだ良い。考えが巡らないとはこんな状態だ。そんなときは外に出て空を見上げたら、そこにも月が煌々とした冷たい光を放っていた。
二月に入って僅かながら昧爽が早くなっている。夜の帷も下から押し上げられる早さを一日一日と上げている。地球は確かに動いている。時間も確実に進んでいる。歩みの速さも上げなければなるまい。
川釣りは研究に等しい。徒渉りもさることながら、天候や川の増水にも備えなければならない。釣り上げた魚はたべるではなく、この辺りで何を餌としているかを調べるという。のんびり釣り糸を垂れているのとは大違いである。