英邁と豪宕
英邁と豪宕、二つ相反する性格の子をもった親はきっと困じ果てるだろう。素直で親の言うことを聞く子の方が育て易いからだ。長じてからの評価はまったく違う。にも拘らず後者の子がよいと思えるだろう。その場にいるときには気づけなかったことが20年後に分かる。フロイトも、あとになってから気づけることが多いと書き残している。
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英邁と豪宕、二つ相反する性格の子をもった親はきっと困じ果てるだろう。素直で親の言うことを聞く子の方が育て易いからだ。長じてからの評価はまったく違う。にも拘らず後者の子がよいと思えるだろう。その場にいるときには気づけなかったことが20年後に分かる。フロイトも、あとになってから気づけることが多いと書き残している。
人と話すとき三愆に意を用いると言う。すなわち躁・陰・瞽の三つである。躁は聞かれてもいないのにこちらからしゃべること。陰は、聞いているのに答えない。瞽は相手の顔色を見ずにしゃべる、つまり空気を読まないということ。この三つを心がけていると…しゃべれなくなる。
満足を知らないことを言う。分を知れ、このくらいで満足する、ではなく、もっと知りたい、もっと楽しみたい心を言う。これでよいと思った瞬間、脳は停止するのだ。飽くなき探究心、昨日より今日、明日…とより満足を求めていくことが大切だ。
あの人は器が大きいなどと評する。不器という言葉も存在する。不器とは、一事だけに通じるのではなく、どの方面の任にも耐えうることをいう。その大きさとはどれくらいか、それは広大無辺がよい。外側からその人を見ると、何も考えていないように見えるであろう。
私たちの想像はほぼ当たらない。誰かが待ち合わせの時間に遅刻したとして、皆でああでもないこうでもないと揣摩臆測したところで当たることはない。当の本人が日にちを間違えていただけということもある。待ち合わせ時間ですらそうなのだから、人の気持ちや感想、計画などありとあらゆることは分からない。もしかすると、本人でさえ分かっていないかもしれないのだ。
丁字無しというように、私たちは一から文字を教わってきた。どんなに立派になった人でも、はじめから文字など知らなかったのだ。では今は何でも知っているかと言えばさにあらず。知らないことだらけであるし、これからもしらないことに遭遇するだろう。そのとき頭を下げて訊ねればよい。それは何ですか?と。
空気を読む、とか、様子を嗅ぐなどと、私たちは七竅で気配をうかがっている。これが塞がれていたら怖くて生きていけないかもしれない。それに比べて自然界の生き物には八つも九つもあるいはそれ以上の竅があるかもしれないし、なければ彼らは生きて行けないはずだ。彼らから見たら、七竅でよくも生きて行けるものだと感心しているかもしれない。
私たちの心は定めなきが如しである。喜んだり悲しんだり、波のように揺れ動いている。体が一虚一盈だからである。寝ては起き、食べては空腹になるような仕組みになっている。そんなからだの声をまずは聞くことにしよう。
育てるとはどうすることか。孚育という言葉がある。解読すると、「子の頭の上に手を置く」とある。マーキングしたところは成長する。頭をマーキングすれば頭が良くなる。塾いらずである。もっと早く知っていれば…。
卒業シーズンだ。子育て中、親は友人の旅行の誘いは断り、隠していた菓子の大方は子どもの口に運ばれ、私事を廃して子どもに尽くす…以降、旅行を自ら企画し、菓子は一人占めし、私事を最優先する…そうしないと、私事を越されるようなことが起きるかもしれない。
人は時折無聊に苦しむ。かといって書物にもドラマにも飽きた、そんなとき、机上に散らかっている広告を読んだりする。55型のテレビの方が45型より安いことに気づく。人は大きい方が高級と思う傾きがあるからだろう。発見できないことが一つあるとすれば、それは、自分が少しずつ年老いてきたことだろう。
こんなに何もなくて、こんなにすばらしい日は、一年のうちに何度もないかもしれない、と思う日があるものだ。風もない、大仰なことも、驚くようなイベントごともない、梅も桜も何もない。それを退屈と言うか、安寧と言うか、そんなことはいっこうに構わない。そんな日を私は愛す。
土色の枝ばかりであった桜の木のいたるところに春の兆しが存在している。あと少し経てば薄桃色の花弁を、地味な蕚の上に一斉に天に向かって押し広げるにちがいない。まるで木という意志がそうしているかのように春を謳歌するはずだ。薄桃色がやがて新緑に取って代わるころ、人々は家から解き放たれ、幾種かの候鳥たちは北を目指してその姿をくらませるのである。
朝戸出の空気はひんやりして心地よい。雪国の人から見れば、何を長閑なことかと言われても仕方なかろう。この先に春が出番を待っているとは俄には信じがたい。信じるとは決意のいることかもしれない。
暖かくなる頃、人は墓参とともに春の訪れを感じる。塋域に立ち並んだ西之屋型灯籠が参道をいかめしく守っている。さらにその奥は、灰色若しくは黒御影の墓石ばかりである。華やかな樹木も見当たらない。色といえば僧衣だけである。僧侶だけが彼岸と会話できる特別な人として目に映る。経典でも、遠くから僧を見たら崇めよ、と説いているほどである。
春が近いことを何で知るか。それは桜の枝々の幾許の蕾で知る。遠くからはそれとは知られないまま、そのときに備えている。人間だけがそのときになってから慌てふためく。間に合わない。
美容師が私の顱頂を見おろしながら、まだある方ですよ、と慰めともつかないセリフを言う。話題は側頭部の毛髪がグレーで、後頭部が漆黒であることに移ったことで、私の気を逸らしているのが鏡の中の自分の表情でわかる。いっそのこと、少なくなりましたね、などと言ってくれた方がよほど清々しいのだが、そう言ってはならないという訓示かなんかが、新築なった店の奥にでも貼ってあるやもしれない。
独立心が芽生える原動力とはいったいどこにあるのか。それは欠如である。このままではいけない、この状態が続けは、自分がダメになってしまうかもしれないという欠如がそうさせるのである。反面、今のままでいいではないかという、安住もまた求めている。私たちは二つのはざまに住んでいる。
人はみな生まれたときは平等であった。どうしたい、どうなりたいとも思わず、ただお腹をすかせていた。純粋に生きていた。そこにああしろ。こう生きろと目に見えない蠧毒が人の心を蹂躙していった。本来の自分に立ち返ることで、もう一回生き直せるのではないか。そのとき私は私になるのだ。
心のあり様はいつも変わる。さっき言ったことと今言っていることが違ったりする。聞かされる方は振り回されることになる。心はネオンの点滅のように生々滅々して終熄することはない。いったいいつになったら決まるのか。
私たちは何を冀求しているのだろうか。幸せ、平安、それとも冒険か。無意識的に求めているのは変化ではないか。今のままでいいと思う一方で、このままではいけないとも思っている。しかし、変わり方が分からない。変わることへの怖れが目の前に横たわっている。変わった先に、今までの自分がどう目に映るのか。昔のアルバムを見るように悲しい顔をした自分が見えるかもしれない。
友と会った。久し振りの邂逅である。見た目に渝ったところはない。友を見る目は自分を見る友の目だとすれば、こちらも昔通りなのだろう。他愛もない話が深更にまで及ぶ。なぜなのだろう。夜9時を過ぎてからの時計の針の進み方が早い。きっとまたこの店の片隅で合おう。そう約束して別れた。
能楽師は、人々の夢に成り変わろうとする人たちである。彼らは夢を追う必要などない。追われる立場であり、夢そのものだ。それだけではない。見る人の数だけ夢自体である。能楽師が面を被った時点で既に人々の夢を叶えている。それを支えるのが様式であろう。様式から一歩踏み外せば夢ではなくなる、そんな危うい世界を、人は夢と呼ぶのだろう。
精神を集中させようとすると、父親のお喋りに邪魔される。その瞬間、私の精神は粉々に砕け散って部屋の天井を突き破り、虚空のそのまた虚空の彼方に雲散霧消してしまう。次は自分が喋る番だと思っても、霧と化した言葉を回収するのに手間取る。黙って聞いてほしかった。
霊峰富士の気高い姿はいかばかりであろうか。絶巓に白をいただく神々しさは群を抜いている。下に向かう流れるような曲線に、多くの芸術家は魅入られてきた。「富士演習場」という道路上の標識がいささか興醒めではあるが、その威容が損なわれることはない。今日も日本中から眺められていることだろう。
豪邸に住む人の口癖に「寒い」というのがある。やっと暖まったころには寝ることになるという。一方の丈室は、暖かい、すぐに冷える、どこにでも座したまま手が届く。掃除も楽。家賃も安い。そこで居眠りもできる。洗濯機を断捨離した人もいると聞いている。なんとかなるものである。
ただひたすら好きなことに涵っていられたのはいつのことだったか。時の経つのも、食も暗闇さえ忘れる、まさに没我の時代はいずこに置きわすれてきたのか。それに比べて今はどうだ。寝るとき、食べ物、老眼…すべてが五感に従わされている。そのときはきっと何かに従わされていたからだ、と自分を慰めている。
人のなかには、自らを飾らない人がいる。ネクタイはいつも曲がっていて、ワイシャツには食べこぼしのシミがあったりしてどこかちぐはぐなところがある。こういうひとにかぎって辺幅を飾らないせいか、相手が心を許してしまうのである。近づいてくる人が、その人のなかに自分を見てほっとしているからかもしれない。
自然は私たちにいきなり春をくれたりはしない。人生甘いものではありませんよ、と告げられているようだ。開花予想も予報士でさえ、10年間で2回しか当たらなかったという。当たらないから何なのだ。まずは平和ということか。
人間の鼻腔は通風にいかに役立ち、口はいかにも食いだおれに役立ち、耳や目がいかに役立つかはわかっていても、目や耳のちょっとした配列や差異によって美醜が決められ、あまつさえ、精神的価値の深浅まで決められてしまうのはいかがなものか。中身で評価するにはどうしたらよいのか。
言葉とは何か。それは感情を伴わない音だ。何ら感情の裏附けのない言葉のほうが、いっそう人を感動させるからである。日常生活で交わされる言葉は芝居のそれではない。ちょっとしたひとこと、さりげない褒め言葉のもとにひとは癒され帰っていく。
幌無しの荷台にわれわれを載せた軽トラックは岩原高原向けて高度を上げていった。木々の間から見える家並がどんどん小さくなる。これからバスケットボールの合宿が始まるんだなという、なかば諦念ともいえるような気持ちで揺れに身を任せていた。練習を終え、夕食も済んだ夜は、麓から汽笛が聞こえる。窓を開ければ、それとおぼしきものがうねうねと苛立たしいほどのろい速度で動いている。運動など大嫌いだ、そう思った。