過ぎ去る
兎走鳥飛、月日の経つことの早いことを言うらしい。もう三分の一年が過ぎた。こども時代長いと感じた一年が大人には早く感じる。兎や鳥のように飛び跳ねていた時代が、わたしたちにもあったはずである。
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兎走鳥飛、月日の経つことの早いことを言うらしい。もう三分の一年が過ぎた。こども時代長いと感じた一年が大人には早く感じる。兎や鳥のように飛び跳ねていた時代が、わたしたちにもあったはずである。
気候がよくなると、侑盃侑飲、気のおけない友と鏡のように合いまみえながらお酒を酌み交わす光景が飲食店で繰り広げられる。鏡の効果で酒量が一気に増える。お酒が旨いから話が盛り上がるのか、相手が良いから味が良く感じるのか。いまのところ、その両方が相まってと言ったところに落ち着きそうである。
言いたいことを互いに言い合ったことがあっただろうか。日本人がもっとも苦手とするところである。それは、言い合うだけで、相手をやり込めるわけではないと知っていてもできないのだ。それが、お互いさま、すなわち、相手も傷つけたくないし、自分も傷つきたくない精神の表れである。ときには「侃々諤々」と言い合えたらどんなに気持ちがよいことか。
近所にある老舗蕎麦屋は、店主が早朝から石臼で粉を引く十割蕎麦が売りである。遠方からの客が絶えることがない。一人の客が店主に言う。蕎麦も旨かったが、食後のコーヒーも旨かった、と。その評を聞いて店主は複雑な表情で私を見るのである。それがインスタントコーヒーであることを私と店主だけが知っているからである。
なんとしても物事が運ばないときがある。齷齪したところで変化がない、変化しようがない。そんなときはじたばたせず、ときの来るのをじっと待つことだ。占いで八方塞がりというように、いつも動き回っているばかりでは疲れるではないか。休息を与えてくれたのだと受け止めるのがよい。連休が始まった。
私たちはあらゆる場面で間違いをおかしている。通りすがりの人の顔の上に、相も変わらず好きだった女性の目鼻立ちを張り付けるかもしれないが、しかしそんな顔や頬や顎の代わりに存在するのは、じつはなにもない空間にしか過ぎないのかもしれない。そう考えると、名画を目の当たりにして見ているのはいったい誰の顔なのだろうか。
カウンセラーには、人さまの人生を変えるほどの力量はない。むしろあってはならない。もしそんなことをすれば、その人だけのもっている才能をねじ曲げてしまうことになるからである。才能を見いだすこともできはしない。われわれにできることといえば、相手の能力に驚嘆し、圧倒されることを喜んでできることくらいなものである。
あなたの家からはギターの音が毎日聞こえますね、と母親は近所の人から言われていたらしい。祖母はお前のギターを聞くと癒されると言っていた。耳の遠い祖母の言葉だ、にわかには信じがたい。
お前は足が速いからスポーツに向いている、頭がいいから勉強ができるだろうと言われても、一向にその方面の努力を怠り、放蕩怠惰な生活を送っていたために、今ごろになってそうしておけば良かったなどと反省する始末である。順風満帆な生活を送ったという人に出会いたいものだ。しかしそんな人に出会ったことは未だにない。
人はそれぞれ一個の世界をもっている。それはまた一個の法則である。ところが他人は、ちょっとした瑕疵を捜し当てて言い立てる。その時私の法則は音を立てて崩れ去るのだ。そんなことくらいで落ち込むな、と言う以前にそんなことを言うな、と言いたい。
フロイトはその著書のなかで大いに嘆いている。「自分が苦労の末に発見した真実は、すでに作家たちが発見している。」と。フランス長編小説のなかで、こんな一文がある。「子供のころから、自分が何度も死んでいることを悟っていた。」反対に、理論があるお蔭で、さらりと書いてある文章も、大きな真実であることに気づかされる。
深更、誰にも邪魔されない時間は貴重である。テレビを消し、電話も郵便屋もくることはない。自分との対話の時間がそこにはある。そんなことをしているうちに、夏の夜は明けるのが早い。
薫風薫る季節。仕事を終え、頬に風を受けながら啜る一椀の茶はいかばかりであろう。表千家の茶もこの味には及ぶまい…という夢を見た。自分はいったい何様であろう。
ドッグコンテストである。1000頭以上の名犬のなかなら選ばれたのは黒毛の犬であった。賞金はないかわりに、自慢する権利が与えられた、とニュースで報じられていた。座布団一枚以上の価値がある。
名前を刺す、とは甚だ物騒な言葉だ。考えてみれば、初対面の人に向かって自らを切り込んでいくこと。それは大変な勇気を必要とされる。その意気込みを小さな紙片一枚に託して、新人は今日も自らを差し出していくのだ。
分析の作法(さくほう)の一つに伺窺がある。クライアントさんのことをさりげなく伺い視ることをいう。ジロジロみては失礼だ。視ないようで視る。服装が明かるくなる、歩く速度の速い遅い、姿勢が良くなる…語る言葉以上にそれらが本人を語っているからである。もちろん本人はそのことに気づかない。無意識の語らいの方に分析は注目するのだ。
腕がむずむずする、足がぞわぞわするなどという訴えを耳にする。伎癢である。したくてたまらない事、行きたくてたまらない場所があるのだ。体はそれを訴えている。
家も住めばいたみ始める。新車も一度乗れば中古車になる。すべては古びていく。一方、人間の皮膚も骨も新しいものに更新し続けている。毎日がリフォーム中である。しかし、精神だけはなかなか変わろうとしない。どうすれば変われるのか。
冽冽たる寒さがあったのかと思われる季節だ。山の頂に白いものが残っていても、それが冬の象徴であることなど気にとめはしない。人間は忘却の生き物なのか。つらい記憶も忘れたいのに、それだけは消し去ることが容易ではない。
仁智居にいられたらどれ程幸せか。駅近病院学校商店歩5分通勤圏内風光明媚…すべてが揃えば大満足であるが、最後の風光明媚は勤務が終了した後に欲しい条件かもしれない。その年代に合わせてヤドカリのように住まいを変えるのがよい。
遠くから見に来た桜は美しい。並ぶから旨いラーメン店、最後の一台のクルマ…人は自分だけの価値をもっている。この世で私はたった一人しかいない私、という価値が見いだせたらよいのに。
桜に月影が似合う頃だ。「間」の字は門の中に月と書く。古寺の門の隙間から月明かりがサッと地面に切れ味鋭く青白い線を引くさまは、春の夜の寒さを表している。夜桜見物も少し寒く感じる。
厚ぼったい鳳雲も去り、見渡す限り青空が広がる季節だ。桜吹雪がときおり目の前を横切っていく。人は誰もが規模を抱く。しかしいつもその通りにいくとは限らない。そうなったらそうなったで行き先を変えれば良い。たくさんの花びらが同じ方向に行かないように。
桜に月が情緒を添える頃だ。「僧敲月下門」、文章や手紙に使うひと言にも気を使う。どっちでもいいではないか、という気持ちを凌駕して文字の選択に心は傾く。ピッタリする言葉に出会ったときの喜びは一入である。
暖かな日が続くとやがて朧月の季節が訪れる。冬の間の亮月もまた凛としてよい。いったいどちらが好きかと言われれば今が一番良いと答えるだろう。
天気も長く続くと、湿り気がないと嘆き、雨ばかりでも花が可哀想と嘆く。雨を「催花雨」と書けば、芽吹きを促すものに早変わりしてしまうではないか。物事はすべて捉え方一つにかかっている。
私たちがやることすべてはモノマネである。亦歩亦趨からのスタートだ。日本語からしてマネだ。父母の言い方をどうしようもない形で引き受けてしまっている。言葉だけではない。笑い方、歩くさま、趣味、仕事…。両親の生き方の反対をしているというのも、基本は両親である。いったい本当の自分とは何か。どうすれば自分を生きることができるのか。
人として心がけることが九つあるという。視るときは明らかに視、聴くには聡くし、色(顔つき)は温にして穏やかに、貌(すがた)は恭しく、言は忠、事に当たって敬、疑には問、忿は難つまり怒らない、得(利益を得る)には義を用いるという。では不平不満、忿はどこにもっていけばよいのか。人間なのだから。
遠くから見れば威厳に満ち、近寄れば春風駘蕩、発する言葉に含蓄がある。そんな人の姿を丰采と言う。どうしたらそんな人になれるのか。
なにごとも二度めになると薄れるものが感動である。ミニチュアの新幹線が寿司を運んできたのを感動をもって受け取ったものだ。それが味とともに薄れていくこともある。人のはなしはその都度違う。深みを増し、味付けも異なっていく。そこに感動がある。感動とは発見である。なにごとにも感動していたい。