動揺
人間の心は動揺し通しである。あちらを立てればこちらが立たず、こちらを取れば横から人が口を出す。それでまた動揺する。自分を通すと、「頑固」と言われ、相手の意見にしたがうと、自分がないと言われる。この、「言われる」という言葉も揺るがされている証拠である。自分を通すのはたいへん?それとも簡単?実は簡単なのである。
« 2025年4月 | トップページ | 2025年6月 »
人間の心は動揺し通しである。あちらを立てればこちらが立たず、こちらを取れば横から人が口を出す。それでまた動揺する。自分を通すと、「頑固」と言われ、相手の意見にしたがうと、自分がないと言われる。この、「言われる」という言葉も揺るがされている証拠である。自分を通すのはたいへん?それとも簡単?実は簡単なのである。
事件はいつでも勃発する。会社でも家庭でもいついかなる時でも事件が起きるのが世間であり世界なのだ。問題はそれにどう対応するかであろう。冷静にあるいは冷ややかに見る、大したことないと言いつつ内心慌てふためく、すぐに忘れる…。忘れるのが一番だ。なにはともあれ次の事件が待ち構えているからだ。
つまらない話で人と仲良くなれることもある。若者は日がな剰語でコミュニケーションしているし、私もかつてバスの乗客から叱られたこともある。真面目な話だけでは人はスムースに交流していくことはできないかもしれない。かといって、剰語だけで慣れてしまうと真剣な話ができなくなる恐れもある。両者をどうバランスしていくかが問題である。
モノを捨てるには勇気がいる。モノには思い出が不着している。着たモノは自分の分身であり、手にしたモノは自分の皮膚の一部である。勝手に処分されようものなら、自分が捨てられたも同然だ。吟味に吟味を重ねたモノをこれからも大切にしよう。きっと自分も選ばれてこの世に送り出された者だと思いたい。
人間が生活を営んでいくにはどれ程の制約を受けているかしれない。歩道を歩かなければならず、食べるにも列をなし、相手の顔色を見ながら喋らなければならないのが人生だ。反する場合は、「制」の文字の右側の「刀」で脅かされ、「約」の文字の右側で閉じ込められて「・」にさせられてしまうのだ。制約のない世界に羽ばたきたいものである。
爨室に入ることはない。未知のことだらけ。自らした掃除のあとはどことなく綺麗に感じる。きっと食材選びから盛り付ける食器にいたるまで懲り出せば楽しいに違いない。未知のことや楽しいことはすぐ目の前にいくらでも転がっている。ただ見つけようとしないだけである。
若いうちは苦労しろ、と言われる。どんな苦労をすればよいか、それは優れた人たちと接することだ。「刻鵠類鶩」とは、優れた人を見本にすれば、たとえその人にはなれなくても、アヒルくらいにはなれるだろうということ。それはかなりの苦労を強いられる。毎日そんな人たちと一緒にいたら劣等感のカタマリになるだろうからである。アヒルにもなれない。
相手の話を聞くとき、カウンセラーは私心を捨てることが大切だ。刳心、すなわち私心をえぐりとるほどに捨てることだと言われている。「私ならこうする」、「普通はこうだ」などと言ってはならないのということ。相手には、彼なりのどうしてもそうせざるをえないような長い歴史があるからだ。聞く側にも長い歴史があって、それを告げてしまうと、相手の話とこんがらかることになるのだ。
賑やかな温泉宿と離れてポツンと灯が灯っている寒驛がときおり紹介されている。驛とは宿場のこと。設備も湯殿も古い本来の姿をとどめている。それを退屈と評すか、自然と評すか。土産物屋も人通りもない、どうやって行くのかも定かではなさそうである。
「凍解氷釈」、分からなかったことが分かったときのすっきり感は特別だ。「人間とは何か」、「生きるとは何か」などの問いにひと言で答えてくれたらどれほどすっきりするかしれない。
人とすれ違いざま仙風道骨を感じることがある。大方は僧侶と見立ててよいが、ときに、権力地位や欲望から解き放たれた人柄がこちらにフワリとした風を送ってくる人もいる。あなたは何者ですか。風そのものの化身ですか。
夏炉冬扇。身の回りは、仕舞い忘れたストーブや去年の夏祭りの団扇が散乱している。それだけではない。古いスマホ、読まないであろう本や聞くことのないCD、足に合わない靴などで溢れかえっている。それらはいつしか部屋の一部と化し、そこにあるべきモノになって鎮座している。捨てようか捨てまいか…このままきっと来年まで主と生活をともにすることだろう。
花々が妍を競うころ、雑草も勢いを増してくる。雑草と戦っているとき、目は雑草だけに注がれる。花を愛でるときは雑草は見えない。私たちの目は片方しか見えない構造になっている。人の長所だけを見ればよいのだ。一番見えないもの、それは自分の長所かもしれない。
のるかそるかの人生を賭けることを言う。それほどまででなくとも、買うか買わないか、人からの誘いに乗るか、乗らないか、食べる、食べない…日々自分を賭けている。新製品の食べ物が美味しいかそうでないか…乾坤一擲という勇気がないせいか、毎日、うれしがったり、落ち込んだりしながら生きている。
鳳凰来集、麒麟来遊といわれる通り、好きな友、気の合う仲間といつも一緒にいられたらどれ程楽しいことか知れない。少なくとも週に一度会えれば幸せとしよう。それが同好の志であろう。
「児」の古い表記は「兒」。頭に隙間があることを意味する。良いも悪いもこの間隙をぬって言葉が入ってくる。その後閉じて「見」になる。我々が見ているものはこの時代に刷り込まれた価値観で相手やモノを見ているのである。見方を変えるとは、一度刷り込まれた価値観を捨て去り、そのものをありのままに見ることである。
晴れた日のうららかな風と、雨上がりの晴れわたった月は清々しい。それは風景を語っているのだろうか、それとも、それを言う人の心を述べているのだろうか。
褒め言葉は難しい。9歳の男の子に、「かわいい」の言葉はふさわしくないだろう。「カッコいい」、「強そうだ」、「男らしい」の言葉が適しているだろう。それは本人が求めている言葉だからだ。それを配慮という。それを言える人もその言葉をもっているからである。人を褒めるとは自分を褒めることである。
すでに一年のうち4分の1が過ぎた。流れ去る水が元に戻ることがないように、過ぎたことは仕方がないのだ…と思いつつつい昨日のことを思い出してしまう。だから前に進めないのだ。なかには、今朝食べたことを思い出せない人もいる。幸いなるかな。
なかなか決められないとき、人は「優柔寡断」だ、とか、「不断」だなどとこちらを評していう。反対に、本人も別のときはそうだったりする。決められないのはなぜなのか。それは、どちらにも意味と価値があるからだ。片方にしてしまうことを果断という。
人が語っている内容はいったい何なのか。自分だけの経験、最新の情報を語っているのかもしれない。沈黙している人は、もしかすると心の奥底に大きな企画を隠し持っているのかもしれない。
全山は緑の木々で囲繞されている。つい数ヶ月前まで悲しげな茶褐色の襤褸を纏っていた山々とは思われないほどだ。遠くに目を凝らせば、場所によっては斑雪も散見される。足元には赤や黄色の花が太陽光線を浴びている。この賑やかな季節もやがて濃い緑で山の形まで分からなくしてしまう。自然の変化の速度は早い。それに比べて人間の変化の速度はいかに遅いことかしれない。
問柳尋花、野に出れば見渡すばかりの新緑が目に眩しい。新緑には花の青も赤もよく似合う。伸び盛りのときは手一杯に枝葉を広げ、やがてその中から自分に合った枝だけを伸ばせばよい。繁茂から収斂へのプロセスを経なければならない。収斂させるのはいつ頃になるのか。いまだに収斂せずに伸び放題のままである。
悩みとは選択の悩みである。あちらを立てればこちらが立たず。こちらを選べばあちらが引っ込む、その繰り返しのなかで悩む。誘われたランチに参加するしないで悩み、春色の服を買うか買わないで悩む。人に決められるのも嫌だ。二つに分裂した私がいる。
心の傷つきはなかなか癒えるには時間がかかる。「傷弓之鳥」のごとく、一度の怖い体験による怯えに打ち勝てるものではない。それに比べて楽しいことが消え去ることのなんと早いことか。だから、楽しいことだけしていたい、切にそう思う。
先輩の一人は、自分のことを「ミー」と呼ぶ。後輩であるわれわれは目引き袖引き笑いをこらえるのに大童であった。それは今に始まったことではないからだ。先輩はそのことに一向に気づく気配がない。口癖とは、周囲が知っていて本人だけが知らない言い方のこと。私には私の言い方があるが、そのことに気づけない。
こちらは相も変わらずこんな顔をしているのに、突然目の前に現れた相手から、具合でも悪いの?と訊かれることがある。こちらにはそんなことがないにもかかわらずである。人はいったい私のことを見ているのだろうか。相手が見ているのは私?それとも誰なのか。
主導権を奪うこと。物騒に聞こえるが、日常的なことだ。大人しい二人が出会えば、どちらか一方が主導権を握ってその日の計画に相手を従わせる。両者が主導権争いをしていても物事が進まないので、片方が相手に主導権を握らせる側に回るのである。無意識的に調整し合っている。そのどちらの側にも立てる人が望ましいのだ。
反対意見を言うことを、「倒行逆施」と言う。こちらが「右」と言えば「左」と言い、上と言えば下、和食に中華、と言う人を指す言葉である。真理があるように見えて、さにあらず。ただ逆を言っているにすぎない。したがって根拠はない。こうした反対意見に流されないためには、こちらも「意志貫徹」を心に刻めばよいのだ。
享の文字は饗の字に通じると辞書にはある。饗は神に飲食物を捧げる意。神をよろこばせることを意味する。神とはどこにいるかといえば、私たちの体の中にいる。全身に張り巡らされているものを誰か知らぬが神経と名付けた。体が喜ぶものだけを食し、楽しいことだけをする。それが享である。
目先を変える、と言う通り、住まいを変えると気持ちも変わるものである。候鳥のように、目にする景色を変えることだ。それによって精神もリフレッシュするものである。