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2025年6月の13件の記事

2025年6月13日 (金)

予想

千方百計、あらゆる予測を立てることを言う。こうなったらこのようにして、それも覆ったらさらにこのようにして…。想像力を駆使して備える。それは思考力の訓練になるだろう。ところが結果は予想外だ。それを喜ぶこともまた計画のなかに入れておこう。

2025年6月12日 (木)

千秋

一日千秋の想い、などと待ちこがれる心情をさす言葉がある。頼んだ品物がいつ来るか、ライヴの日が近い…。その存在は未来を表している。未来があることだ。毎日のその先に未来を描くことが大成だ。

2025年6月11日 (水)

千鎰

誰でも思うことの一つに千鎰を得ることがある。それが実現したときのプラスの面だけが輝いて想像されるだろう。なぜなら身の回りは欲しい物であふれているからだ。マイナスの面など思いもしなくなる。しかしそれは目に見えない形で現れる。その場所はいったいどこか。

2025年6月10日 (火)

決断

決断はなかなかできないものである。心が二つに別れているせいだ。あれか、これか、が私たち人間を悩ませる。他人から見ればどちらでもいいのでは、と思われることも、本人には重大問題である。どうすれば決断できるのだろうか。

2025年6月 9日 (月)

人を評して「眞の人」などと言う。それはいったいどんな人か。「眞」の字は、匕+鼎で、匙でものをいっぱいに満たすことを言うと辞書にはある。人の語りをこれでもかとばかりに受け入れることを示している。器が大きいとはこの人のことである。

2025年6月 8日 (日)

手ぬぐい

実家の階段下は開かずの部屋になっていて、両親の死去の際に一族郎党参集の上でご開帳の運びとなった。中は夥しいばかりの引き出しが積まれており、二代目当主が一段ずつ開けていくのだった。中のものはといえば手ぬぐいばかり。しばらくの間、この一族が手ぬぐいに不自由することはなかった。

2025年6月 7日 (土)

胸奥

人の心はよく分からないと言うが、実際には人は自分の考えを言っているのだ。ところが、聴く側の考えと衝突した瞬間に、相手の考えを弾き飛ばしているから分からないと呟くのだ。「胸」の文字の中にある「凶」の字は、文字通りバッテン、つまり言えないでいる言葉なのである。しかし、「凶」の文字の上側が少し開いていて、そこから漏れだしたひと言こそが本人の考えである。胸に秘めた言葉を聞くには、こちらも心を空っぽにしておく必要がある。

2025年6月 6日 (金)

包蔵

心に何かを持つこと。包蔵するだけで相手に見せないことを言う。心情として、自分のことを人に見せたり、語ったりしたくなるものである。カウンセラーは自分を語らない。語ってはならないのだ。語ったりすれば、相手の語りとぶつかってしまうからである。自由に語るなかで本人も気づけなかった本当の自分と出会えるのである。

2025年6月 5日 (木)

労すれども功無し

ことを成しても効果がないこと。ほねおりぞんのこと。つかれる、とはつかわれることかもしれない。自分の意志と使う人の意志とぶつかり合っているのかもしれない。反対に、好きなことをしている場合は疲れないものだ。好きなことをしても効果などないと知っている。好きなことをしていると、人はしばしば否定する。そこにはちょっとした嫉妬が隠されているのかもしれない。

2025年6月 4日 (水)

相好

親戚のなかで唯一ピアノが弾けたために、婆やはこの最初の男の子である私にはほくほくと相好を崩した。暇に任せてピアノを弾いているといつの間にか杉並から来て勝手に家に上がりこんで私の後ろにちょこなんと座っていたのだった。婆やが亡くなってからピアノは未だに弾けない。

2025年6月 3日 (火)

人とちがったこと

人とはちがったことをしたい!と宣言した。その時父は、ちがったことをするのではなく、自分の好きなことをするのがいいのだ、と言った。今となっては、どちらの言い分が正しいのか。そのどちらもやっているのかもしれない。

2025年6月 2日 (月)

魔法的な存在

私たちはデパートの店内に山積みになった品物を横目で見ながら、帰り道の土手の片隅になん十年もの間、忘れ去られたように転がっている犬釘に目が行くことがある。そうだ、土手のような場所は、かつて妻沼線が通っていた廃線跡だと気がついたりする。この犬釘は線路を取り外したときのものだと知ると、曲がった錆だらけの鉄の塊が魔法的なものに見えてくる。どうだすごいものを見つけたぞと言いながら玄関に置いたが、だれも見向きもしない。

2025年6月 1日 (日)

波瀾

生きていく間には波瀾の一つや二つあるもの。おおいなる波瀾に直面する一方で、日常のちょっとした波瀾だって転がっている。ちょっとした波瀾もはたから見れば、なんと言うこともない場合がほとんど。しかし当人には波瀾の一日だったはずだ。もし、波瀾もない人生があったとしたら、きっと退屈にちがいない。明日はどんな波瀾が待ち構えているのだろうか。

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