収支
人間の精神は経済でできている。幼いころ甘えさせてもらえなかった人は、その後甘えさせてくれる人と結婚するだろう。遊びを禁止されたひとは後年遊びまくるだろう。反対に、遊びを満喫した人はあとで大学に通いたくなるだろう。そのことに気づくのは20年後のこと。そのときは無我夢中だったのである。
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人間の精神は経済でできている。幼いころ甘えさせてもらえなかった人は、その後甘えさせてくれる人と結婚するだろう。遊びを禁止されたひとは後年遊びまくるだろう。反対に、遊びを満喫した人はあとで大学に通いたくなるだろう。そのことに気づくのは20年後のこと。そのときは無我夢中だったのである。
危険な所には行くな、という戒め。足元注意、頭上注意だけでなく、身の回りは誘惑、騙しに囲まれている。行列があれば何だろうと思い、残り僅か、本日限りの文字に足をとめる。出掛けないと決めても、怪しげなメールがスマホ画面に勝手に侵入してくる。いかにして身を守ればよいのか。
「そんな格好では人に笑われるよ」と言われたことはないだろうか。実際に「笑われた」ことはないにもかかわらず、いつしか、「笑われない」ように暮らしている。いったい笑っているのは誰か。人の目とは誰の目か。どうすれば笑われないで済むのか。答えが見つからないまま今日まで来てしまった。人の目など気にせずに生きて行こう。
となりのビルの屋上に蜂の巣ができたので、不動産屋に連絡した。大きさは野球のボールほどと告げる。この場合、直径何センチではピンとこないだろう。数値を告げれば、聞く側は、まず無味乾燥な球体を思い浮かべ、ついで蜂の巣を想像して2~3匹の蜂を配して…というように頭を使うことになる。手間を省いた方がより相手に伝わりやすい。野球のボールと言っただけで分かり合えている。これもちょっとした喜びではないか。
人生は毎日が賭けである。仕事がうまくいくかいかないかで賭け、オープンしたばかりのラーメン店がうまいかどうかで賭けている。結局自分だけの喜びにすぎないのだが賭けることがやめられない。賭けるとは未来への投企であり、未来に自分を映し出す鏡である。3月に注文して8ヶ月間、洞窟貯蔵する酒は絶対旨いと信じるように、これからも自分はうまくやれると信じている。
返答は難しいか簡単か。実は簡単である。「暑いですね」の言葉に、「夏だからね」という返答はしてはいけない。問題は、「暑いですね」と単純に返答したくないという心理が返答を難しくしているところである。物事は単純に考えよう。返答も簡単にすることである。
人が人に相談を持ちかけるとき、すでに本人のなかで答えは用意されている。旅に出るか出ないかという。行くと決めた上で相談している。なぜするかといえば、背中を押して欲しいからである。人はいつも、どんな場合でも味方になってほしいのである。自分のことだから、自分で決めろと言ってしまってはあまりにもすげない対応ではないだろうか。
啓示とは無意識の別名である。この道を行け…この本を読め…すべて無意識にすでに用意されているモノである。その言葉に耳を傾けることができればよいのだが、なかなか聞くことは容易ではない。どうすれば素直になれるのだろうか。
何かを手に入れることとは、それと引き換えに何かを失うことである。栄光の過去を手に入れてしまえば、それ以上の未来の栄光は手に入れることは困難となる。反対に、苦しみの過去しかない場合、栄光の未来があると言えるかもしれない。そこには一つも問題がある。それは、それを思い描くことが困難になるかもしれないからである。ちょうどよい人生はあるのだろうか。
欲しいものが手に入った瞬間に興味がなくなることは誰もが経験済みである。あれほど熱望していたモノは机上で埃をかぶったままである。「欲望を生かしておくためには満足させないこと」という言葉がある。
予定は未定である。予定通りに行くことなど皆無に等しい。電車の遅延などはまだ訂正可能である。ところが人生の予定に至っては修正が難しい。その理由は無意識の存在である。この仕事は天職だ、苦労して得た資格だという、表の理由が無意識に潜んでいる本当の欲望を見えなくしている。それが見えたとき、人は本当の自分を生きることができる。
レストランでのスマホ操作に慣れてきた。店員を呼び出して言葉遣いを気にすることなく、使い慣れたスマホ画面と対話するだけで、いつの間にか口にしたいものが目の前に運ばれる。ロボットが持参することもあるからぶつからないようにしよう。あとは食事に集中できる。少し寂しい気がしないでもない。
言葉より感情が先に立つ。感情がほとばしり出してしまうのだ。言葉で説明すれば相手だってわかるのに、感情的に言えば相手も感情的になる。それを抑えるのが言葉である。言葉のことを知性という。
行列の一員になったのは数十年ぶりだ。若い人たちの間に挟まれていると、何の騒ぎだ?と通りすがりの老人が尋ねる。同年代と見ての質問だろう。人に話してもただのドーナッツと言われるのは目に見えている。ひとの評価ではなく、自分で自分を評価すればよい。一人で食べた味はとろけるばかりの記憶の海に繋がって行った。
張平山の描いた「仙家友会」という絵がある。車座の仙人たちが中央に目を注いでいる。注いだ先にあるものは見えない。骨董を見ているらしいことは、画面右隅に耳つきの壺が置かれていることで知られる。全員が押し黙っている。感嘆の声をあげるでもなく、疑惑の目を向けるでもなく、皆が一様に中央のものを受け入れている。言葉がなくても納得しあえている。「友会」とはこれを言うのであろう。
どちらにするかそれが問題だ…悲劇役者でなくても、日々刻々悩む。玉子サンドから食べるか、カツサンドから食べるかで口を開け閉めし、左足から出すか右足から出すかで転びそうだ。どっちでも態勢に影響はないなどと言うなかれ…わたしにとってはそれが問題だ。選択の悩みがなくなるのか。それは死だ、とフロイトは言う。嗚呼。
バーベキューはなぜ美味しいか。ある情報によると、快楽をつかさどるドーパミンの放出のブレーキが外れるからだ、という。改まった会食の場合は、気を使いながらの食事。それがブレーキがかかっている状態だ。それを外せるのが環境や仲間のおかげということ。昔から、ときに羽目を外す、というのは理にかなっている。ただし、上司から、「今日は無礼講で行こう!」と言われたときは、要注意である。
神社仏閣巡りに出かけるのは、モノへの執着や競争社会との訣別を意味するのだ。古色蒼然たる建築物を前にして、人は悠久の彼方に想いを馳せる。近代建築は100年もたないでしょう、と言う京都の人たちの矜持を前に、歴史をもたない自分は頭を垂れるばかりである。
笑いとは何か。それは破裂である。胸のどこかに溜まっていた空気が一気に放出ではなく、爆発する音である。それにくらべると、日頃の笑いには一種の作為がある。自分もそんな笑いをしているのかと思うとゾッとする。ほんとうの笑いはいつすることができるのか。
ちょっとユーモアを言っただけで、相手が伝法に笑うことがある。それではこちらの方が辟易してしまう。ユーモアにはユーモアで反応してほしい。会話とは同等に反応を示すことだからである。
顔を赧らめたことの一つや二つ経験があろう。自分でコントロールできないことの一つだ。歳とともに赧くならなくなった。赤子というくらいだから、赤子は感情を露にし、子どもは言い出せない言葉を顔色で表し、大人は抑え込んでいるのかもしれない。大人になるということは、感情を否定すること。すなわち、人間的でなくなりつつあることを表しているのかもしれない。
「人間至る処青山有り」といわれるとおり、郷里を出ておおいに活躍すべきことを言う。ここで言う、「至る処」が「どこにでも」と解釈してはならない。至る処とは、人間が無意識に行きたいと思っていた処だからだ。われわれは無意識に導かれるようにして運ばれているのだ。それを読む方法を教えてくれたのがフロイトである。
その話は聞き飽きた。同じ話だ…などと老人の繰り言を揶揄してきた。そのしっぺ返しをわれわれもされないともかぎらない。その自分たちも同じレコードを擦りきれるほど聞いたではないか。落ちがわかっている志ん生の落語を何十回聞いたことだろう。戦争の話も英雄譚も同じように興味をもって聞けないものだろうか。そのためには何が必要なのか。
ものの言い方によって感情が発生してしまう。あんな言い方をしなくても…、などとちょっとした言い方で言われた方の気分が急降下してしまう。いっそのこと感情などなくせば、悩まされずに済むのだ。昔の人は風の音を吼天氏と表現した。乱暴な言い方も、天が吼えているだけと受け取れればよいのだが。
ある小説の一節に、一つの墓標を中心に何千という兵隊が集合しているセピア色の写真を描写した箇所がある。2ページにわたる文から想像がはたらき、背景の山々までが眼前に蘇るように感じられた。ところが、この写真を目にする機会があった。ほんの数秒で納得してしまった。写真は雄弁に語る。その一方でまた、文章から沸き上がる想像の翼もまた魅力溢れるものがある気がした。
同じ時間、同じコースを散歩していると、当然のことながら同じ人と出会う。なんと言っても土手の上の隘路である。その人はいつも私のあとから歩を狭めて迫って来る。歩みののろい私はすぐに追い越されてしまう。その瞬間私は意気沮喪しながら「おはよう」と挨拶を返すのだった。我が道を行けの言葉はどこに行ったのだ。
竹林のところどころに、根本から伐られた竹のあとがある。目新しい伐り口から想像すると、今年の七夕祭りに供されるものに違いない。「竹を御所望の方は公園管理課まで」という看板に強制力はなさそうだ。事実竹をゆさゆさ揺らしながら一、ニ本運んで行くのを遠くから見たからだ。それにしても何十万本という竹林が続いていることだろう。果てまで行ったことはない。
名称地の木陰には、必ずと言ってよいほど、ノートにペンを走らせているグループがいる。じっと天を仰いでいるひと、沈思黙考しているひと、それぞれが名園を見ては嘯風弄月、俳句を作り合っている。私には望洋とした景色にしか見えなくても、その中からたった一つの枝、葉擦れを抽出して紙片に定着させるのだ。集中とは一つに収斂させることなのであろう。
人から、「最近どう?」と聞かれても、名状し難いことがある。難しい訳は、話したいことは山のようにあるのに、言いにくいことばかりだからだ。そこでつい、当たり障りのない会話で相手の質問を躱すのだ。本当のことは伝わらないのであろうか。
私たちの生活は右顧左眄の毎日ではないか。反対意見をかぶせてくる仲間もいる。その人達は外部にだけいるのではない。自分の心の中にもいる。どうすべきか、これでいいのか、やめようか…そんな人達のなかで、私はどうしたらよいのか。
叮嚀も度を過ぎると何を言わんとしているのかわからない。スポーツ選手の言葉が明確で潔く感じるのはこのためだ。試合中、「先輩、こっちにボールを回してください!」などと言うのが我がチームの習わし。その間にボールは相手の選手に取られてばかり。そのせいで、試合で勝てたためしはなかった。
頼み事の基本は、言葉を叮嚀にすること。相手は簡単にはOKを出さず、ちょっともったいぶるから、さらに叮嚀にする。相手が、仕方ないなと、しぶしぶOKを出すまで根気強く、しかも感情を出さずに言うのである。めんどくさいなどと言ってはならない。あくまでもこちらから頼むのだから。