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2025年7月の11件の記事

2025年7月11日 (金)

青山

「人間至る処青山有り」といわれるとおり、郷里を出ておおいに活躍すべきことを言う。ここで言う、「至る処」が「どこにでも」と解釈してはならない。至る処とは、人間が無意識に行きたいと思っていた処だからだ。われわれは無意識に導かれるようにして運ばれているのだ。それを読む方法を教えてくれたのがフロイトである。

2025年7月10日 (木)

同じ話

その話は聞き飽きた。同じ話だ…などと老人の繰り言を揶揄してきた。そのしっぺ返しをわれわれもされないともかぎらない。その自分たちも同じレコードを擦りきれるほど聞いたではないか。落ちがわかっている志ん生の落語を何十回聞いたことだろう。戦争の話も英雄譚も同じように興味をもって聞けないものだろうか。そのためには何が必要なのか。

2025年7月 9日 (水)

感情

ものの言い方によって感情が発生してしまう。あんな言い方をしなくても…、などとちょっとした言い方で言われた方の気分が急降下してしまう。いっそのこと感情などなくせば、悩まされずに済むのだ。昔の人は風の音を吼天氏と表現した。乱暴な言い方も、天が吼えているだけと受け取れればよいのだが。

2025年7月 8日 (火)

想像力

ある小説の一節に、一つの墓標を中心に何千という兵隊が集合しているセピア色の写真を描写した箇所がある。2ページにわたる文から想像がはたらき、背景の山々までが眼前に蘇るように感じられた。ところが、この写真を目にする機会があった。ほんの数秒で納得してしまった。写真は雄弁に語る。その一方でまた、文章から沸き上がる想像の翼もまた魅力溢れるものがある気がした。

2025年7月 7日 (月)

散歩

同じ時間、同じコースを散歩していると、当然のことながら同じ人と出会う。なんと言っても土手の上の隘路である。その人はいつも私のあとから歩を狭めて迫って来る。歩みののろい私はすぐに追い越されてしまう。その瞬間私は意気沮喪しながら「おはよう」と挨拶を返すのだった。我が道を行けの言葉はどこに行ったのだ。

2025年7月 6日 (日)

竹林

竹林のところどころに、根本から伐られた竹のあとがある。目新しい伐り口から想像すると、今年の七夕祭りに供されるものに違いない。「竹を御所望の方は公園管理課まで」という看板に強制力はなさそうだ。事実竹をゆさゆさ揺らしながら一、ニ本運んで行くのを遠くから見たからだ。それにしても何十万本という竹林が続いていることだろう。果てまで行ったことはない。

2025年7月 5日 (土)

嘯風弄月

名称地の木陰には、必ずと言ってよいほど、ノートにペンを走らせているグループがいる。じっと天を仰いでいるひと、沈思黙考しているひと、それぞれが名園を見ては嘯風弄月、俳句を作り合っている。私には望洋とした景色にしか見えなくても、その中からたった一つの枝、葉擦れを抽出して紙片に定着させるのだ。集中とは一つに収斂させることなのであろう。

2025年7月 4日 (金)

名状

人から、「最近どう?」と聞かれても、名状し難いことがある。難しい訳は、話したいことは山のようにあるのに、言いにくいことばかりだからだ。そこでつい、当たり障りのない会話で相手の質問を躱すのだ。本当のことは伝わらないのであろうか。

2025年7月 3日 (木)

気遣い

私たちの生活は右顧左眄の毎日ではないか。反対意見をかぶせてくる仲間もいる。その人達は外部にだけいるのではない。自分の心の中にもいる。どうすべきか、これでいいのか、やめようか…そんな人達のなかで、私はどうしたらよいのか。

2025年7月 2日 (水)

叮嚀(2)

叮嚀も度を過ぎると何を言わんとしているのかわからない。スポーツ選手の言葉が明確で潔く感じるのはこのためだ。試合中、「先輩、こっちにボールを回してください!」などと言うのが我がチームの習わし。その間にボールは相手の選手に取られてばかり。そのせいで、試合で勝てたためしはなかった。

2025年7月 1日 (火)

叮嚀(1)

頼み事の基本は、言葉を叮嚀にすること。相手は簡単にはOKを出さず、ちょっともったいぶるから、さらに叮嚀にする。相手が、仕方ないなと、しぶしぶOKを出すまで根気強く、しかも感情を出さずに言うのである。めんどくさいなどと言ってはならない。あくまでもこちらから頼むのだから。

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