この世
この世のことを、塵埃とか、塵垢、塵労などと塵に例えた言葉が多い。塵外に暮らすとは、そこから離れて暮らす意味だ。塵あくたの中に暮らしているのにマヒしている。せめて美味しものを食べ、楽しい映画でも見ていようかと思う。そんな映画のあらすじときたら、やはり悪玉が出てきたりする。桃源郷はどこにあるのだろうか。
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この世のことを、塵埃とか、塵垢、塵労などと塵に例えた言葉が多い。塵外に暮らすとは、そこから離れて暮らす意味だ。塵あくたの中に暮らしているのにマヒしている。せめて美味しものを食べ、楽しい映画でも見ていようかと思う。そんな映画のあらすじときたら、やはり悪玉が出てきたりする。桃源郷はどこにあるのだろうか。
人から言われたひとことに一喜一憂してしまうのがわれわれ人間である。どれほど屈強な人物でも言葉による影響を免れない。それまでの本人の努力、実績、歴史、経済力などがたった一言で崩れ去ってしまうほどの力がある。周囲の目も言葉の一つだから、生きている間は影響を受け通しである。どこか言葉のない世界はないのだろうか。
人には限界があるのだろうか。もしかすると、自分で限界を作っているのかもしれない。限界とは好き・嫌いである。好きなことに限界など存在しない。どこまでも突き進んでしまう。突くとは、限界の壁を突き抜けたことを意味する。きっと好き・嫌いの壁を取り払えば、何でもできるだろう。
我慢には限界がある。ちょっとしたことで不満が爆発してしまうのは、そのちょっとしたこと以前にたまっていた不満があるのだ。人は今起きたことだけを問題視してしまう。人間に歴史があるように、我慢にも我慢の歴史があるのだ。
私とは何者か。それが顕著に知れるのが、店先ではないか。服を買うかどうか迷っているとき、私は迷える子羊である。品物を手にしたとき、私はお客である。さんざん説明を聞いた挙げ句、「また来ます」と宣言してしまえば、私は通行人に早変わりである。私は変幻自在の生き物を演じることができている?
普段、塩はアンデスに限ると言っているくせに、それが切れていると、普通の塩で代用している。ペンも人のペンを借りて困らない。何でも代用で済ませている。われわれ人間はどうか。会社を退職しても誰かが自分の代わりをしている。私とは何者?
人は愛する人を攻撃したり、場合によってはあやめてしまうことさえある。愛しているなら、そんなことをしなくても良いのにと他人は思う。本人は相手を愛しているのに、愛する対象がちっともこちらを見てくれないことが原因だ。どうすれば憎まずに済むのか。
好天に恵まれた今日も、秩父鉄道のSLを撮影しようと子供からSLファンまで大勢の人が駅にあふれている。ディーゼル機関車に後ろ向きに引っ張られて駅に入ってくるときはただの黒い塊であったものが、いざ10時10分出発のときは先頭の顔になって、オレが主役だといわんばかりに壮大な煙をモクモクと筒からふかせている。やはり主役は違う。
高齢になるにしたがって腕が上がらなくなる。ブレーカーのスイッチ、天井のフィルターなどに手が届くときは体調もよいようだ。腕を上げるとは、体調がよいことだ。きっと頭の回転もよくなるはずである。
平常心を持てといわれても、持てないのが人間だ。私たちは、ときに浮き足だったり、落ち込んだりする。その上下の幅が激しい人もいる。男性では激昂型、あるいは、躁うつ型と言われるタイプである。そんなタイプの人たちも、こちらが黙って話を聞いていくうちに気持ちが平らになっていき、何となく楽になった、とおっしゃるのである。こちらから何も言わないのが良かったのだろう。
人間の気持ちには波がある。いつもどんなときでも意気軒昂というわけにはいかない。もしそんなことをしていたら、いつか疲れきってしまうだろう。反対に、意気消沈している人も、いつか気持ちが上向きになるときがくる。どうすればバランスのとれた生活を送れるのか。
表現ひとつで受け取り方はずい分変わる。肝が太いと言えば大器のように見えるが、神経が細やかでない、と言えば少し見下した言い方になってしまうだろう。悠然としている、と言えば良いが、平気の平左だと言っては考えものだ。良い方の言い方で表現すれば、きっと良い方向に向かうかもしれない。
8月の退嬰的な休みは、休みに徹することだ。休むときは休み、働くときは働く。スイッチのONとOFFのようにけじめをつけるのが良い。退屈を感じはじめたらしめたものである。ONの出番である。季節は移り変わり、人間の体も移り変わっていく?
夕方になったら植木に水を撒こう、というときの、「夕方」はいつの時間を表すのか。あいまいである。帰宅時間か、太陽が沈む直前、沈んだ後、沈んだ後でも暗くなってからか…厳密な規定はないなかでなんとなく暮らしている。それもいいではないか。
日差しが強い。頭上の太陽の光が容赦なく頭を直撃する。電線の影さえの地面に濃い。若者たちはこの直撃をよしとするのだろうか。よしとすれば、それは耐える力が彼らの内部に存在するからだろうか。異常な暑さが経済の乱高下のように人々の精神と身体を揺れ動かしている。人間は自然にもてあそばれている。自然をもてあそんできた。そろそろ自然をそのままの姿にしておくときではないか。
お盆を過ぎ一気に浜辺から人影が消える。波も高い。人を拒んでいるようだ。あれほどまでに疎ましい陽の強さが懐かしい。かといって強烈な陽に戻って欲しいとも思わない。懐かしむとは失ったものへの愛着なのだ。
代々の墓は、墳塋とは比べ物にならないほどの小ささだ。墓地の通路は人と人とがすれ違うことすらできない。墓は40センチほどの幅しかないので、隣の人を拝んでしまわないように立ち位置に配慮しなければならない。そんな墓地にも献花の花がひときわ妍を競っている。
反省しようと思えば毎日そんなことばかり。こうしておけば、こちらを選んでおけばよかったのに…といった具合にである。済んだことは仕方ないとわかってはいても反省することばかりだ。反省しないことにしたらどうなるだろうか。ある意味幸せかもしれない。回りは迷惑かもしれない。
人間が一番欲しいもの、それは「自由」であろう。自由に振る舞い、自由に発言し、自由に時間を使う。食べたいときに食べ、寝たければゴロンと寝る。それは、墓の下さ、と言われたことがある。それでは身動きがとれないではないか。行きたいところに行く。また一つ欲しいものが増えた。
人から、「あなたは真面目」と言われてしまうと、違いますと言っても受け取ってくれない。いつしか、そう振る舞うように決めつけられてしまうような気がする。気がするうちは良いのだが、それが当たり前になるのが怖い。人間だから、いろいろな面があってよいのではないか。
慎ましさだけでは生きていけない。かといって豪気さはそうそう表には出せない。出せば顰蹙をかうことを人は知っているからだ。出せないということは、「有る」ということ。もっと幸せになりたい、もある意味で豪気さだ。人はみな豪気さを、慎ましさという衣で隠しながら生きている。そんな豪気さも、きっと夢の世界で実現しているのかもしれない。
自分だけが悩みをかかえている、と思いがち。なぜなら、人はそんな顔で外を歩かないから。みな幸せそうに見える。悩みに上下の区別はない。大小の差もない。一つの悩みが解決するとすぐまた違う悩みが出てくる。悩みを悩みと受け取らず、進歩のためのきっかけととらえよう。
苦学して優秀な学校に入っても、そんな子は日本中から集まってくる。よって入学前一番だった子も一番になれるとは限らない。その差にビックリするのが本人である。一番の子以外の子はきっと自信喪失の経験をもっている。それが後年まで引きずらなけらばよいのだが。
私は常に分裂している。買う・買わない、行く・行かない、食べる・食べない…片方をとれば片方に不満が残る。両方を満足させることはできない構造になっている。片方に決めて、片方をなかったことにすればよい。そう決めようか、決めないか、やっぱり分裂している。
幼い子供たちはやることが拙い。言うことだけは立派。それは脳の機能が更進していることを表す。ところが技術が伴わない。その子がいずれ親を凌駕する器用な人物になるのだ。親が自分と比較せず見守ることは難しい。
私たちはいつも、どこでも、どんなモノともでも対話している。缶詰め一つ買うときも、自動販売機で飲み物を買うときも会話している。エッと思われるでしょうが、無意識的にしているのです。美味しいか、そうでないか、糖分が多いか少ないか。声に出しての対話ではありません。たまに声に出して自動販売機と対話している人と私とはどう違うのだろう。
誇りが傷ついた、プライドが傷ついたという時の誇り、プライドとはなにか。それは自分だけが手にすることのできたものである。他の追従を許さない特別なものである。それさえ所持できれば、他の人を睥睨したり、羨ましく思うことはなくなる。それが他の人にとって代わられれば傷つくのだ。そうならないためには、次々と新たな誇りを変えていけばよい。「誇」と「埃」の読みが同じなのはなぜなのだろう。疑問の一つである。
人は外界の影響を受ける。例えば行列、皆がもっているもの、広告、評判…みんな、外界の人達のもっているものを摂り入れて安心している。その一方で私だけのものを欲しいとも思っている。個性的といっても奇抜すぎても不安だ。その範囲はお釈迦様の手のひらの上から出ていないのかもしれない。
人は時にカッとなる。あとになって考えれば、なぜそんなことをいってしまったのかと自分を責めたりする。それは、ユングの言う、優位という考え方である。カッとなる、すなわち感情が優位になると、思考は引っ込んでしまうとユングは言うのである。両者が同時に出現して私をコントロールしてくれれば私は暴走しないのにな、などと考えているときは思考が優位に立っているから冷静でいられるのだ。
好きで始めたこともやがて飽きてしまったり、好きでもないことも続けているうちに好きになったりもする。すべて無意識のなせる術である。本当にすきなことは無意識のなかに隠されていて、自分でも気づけないのだ。すきなことが自分で見つけられたら、誰も失敗しないはずである。自分の無意識を見る方法は、夢を解釈することである。
悩みに大小の差はない。少しのことでもクヨクヨしてしまう。人から見れば些細なことであっても本人にとってはたいへんな悩みである。悩みのない人はいない。問題はどう対処するか。それを工夫という。
「あくまでも個人の感想です」とテレビ番組のテロップは、人がいかに人の感想に頼りやすいかを告げている。私たちはすべてのことを経験できないので、どうしても他人の感想に答えを求めてしまいやすい。言葉優先である上に、いかにも美味しそうに食べているタレントの表情の上に、「美味しいに違いない」と思ってしまう。それは感想を言っている人が好きであることも告げているのである。