真の欲望
頭に描く欲望が真の欲望とは限らない。赤いTシャツを買いに出掛けたのに、白のTシャツを買ってしまった、靴を購入してしまったという場合、こちらが真の欲望ということである。ペットショップに見に行くだけのつもりが、犬を飼うことになる。マンションが一軒家に変わり、白い車の代わりに赤い車を契約したりする。真の欲望は隠されている。自分にさえも隠しているのだ。
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頭に描く欲望が真の欲望とは限らない。赤いTシャツを買いに出掛けたのに、白のTシャツを買ってしまった、靴を購入してしまったという場合、こちらが真の欲望ということである。ペットショップに見に行くだけのつもりが、犬を飼うことになる。マンションが一軒家に変わり、白い車の代わりに赤い車を契約したりする。真の欲望は隠されている。自分にさえも隠しているのだ。
相手の話に、そうですね、とはなかなか言いにくいものである。それは、意味を考えているからである。自分を非難する言葉を言われたりすると、自分はそうは思っていないのにな、と感じる。それが意味である。意味をとってしまえばよいのだ。例えば挨拶。「おはよう」、「こんにちは」、「こんばんは」などの言葉には意味がない。だからすぐに、「おはよう」と返すことができるのだ。言葉から意味を取り去ってしまったあとには、ただの音だけが残る。すると人は非難されたという意味から解放されるのである。
会話における最大の悩みは、いかに自分を出さずに自分を出すか、であろう。ストレートに自分を出すことははしたないこととされている。自慢話は出せないと知りつつ、相手の話に自分を溶け込ませながらほんの少しだけ自分を織り交ぜながら会話している。極めて高度な作業である。まことに自己主張は難しい。
突然の質問に戸惑うこともしばしばである。頭がフル回転して答えを用意しなければならない。相手が急いでいればたいへんだ。年齢・性別・丁寧か端的にか…。しかも、相手を傷つけないことが最大のテーマである。相手の立場を考慮しながらの返答は難しい。日頃の訓練が試される。
待ち合わせ場所に誰かが来ないとき、周囲の人はいろいろ想像する。事故、急病…それらがすべて的外れであることが後になってからわかる。精神分析では、想像することをやめること、と言われている。実際、遅れた理由が判明してみると、誰も想像しないことが多い。想像することをやめれば、待っている間のイライラもなくなるはずである。
自分が受ける講座に遅刻したことがある。30分の遅れである。他の受講生の落ち着きはらった姿が眩しい。マラソンの先頭集団の背中を見ているようなものだ。なんとか皆に追い付こうと頭を回転させる。それもいいではないか。たまにはエンジンを高速回転させて目覚めさせるのもよいかもしれない。
遅刻すると焦る。電車に乗り遅れそうだという時はなおさらだ。相手を待たせていると感じて汗かきながら現場に着くと、相手はさほど心配していないことがある。汗かいてどうしたという顔をしている。常習的に遅刻する人の心理は解明されている。
「大我」を辞書で引くと、「すべてを虚無であるとさとった自由の境地のこと」とある。それでは馬鹿になってしまうではないかと思うが、馬鹿ではなく、無知に近い。虚は、器の中がからっぽの意。無は器さえも無いこととある。自分さえも無いこと。私はこの世に存在しているのか、いや確かに存在している。それはどんなときか。
元気のある人は静かである。ことさら、私は元気だ、とか、元気で行こう!などと口には出さない。ところが、そう言っていると、塞いでいた人が元気を取り戻したと周囲は勘違いする。元気のないときはしょげていてよいのだ。
「夜雨、文に臨んで酒一杯」。古道具屋で初めて買った江戸時代の掛軸だ。店主が私に軸を持たせて、あなたが引っ張りなさい、とメガネ越しに目線を送る。店主は発相を持ったまま微動だにしない。引っぱって、先頭の一文字が現れたところで、買うか買わないか決めるのだ、と父は言った。全部を見なくても本物はわかると。私は小さな声で、買います、と告げる。店主は来歴、書家のことなど若い私に事細かに説明してくれた。そのとき、江戸と明治と昭和の私は一つになった。
山中に暦日無し、という暮らしに憧れたりもする。仕事から離れ、大所高所から大人の視点で見る様は水墨画の掛軸のようである。きっと理想だから絵に描かれているのであろう。実行した人の話では飽きるそうである。話し相手がいないからという。交わりも必要なのである。
人と接しているとき、互いが互いの様子をうかがっている。相手が自慢話をすると、こちらは少々凹む。そんな顔を見せまいとこちらは、「すごい!」と言う。相手はますます花を咲かせる。「あなたは?」と聞かれても、こちらには自慢することがない。それがわたしの自慢だ、と少々胸をそらせている。
名手長嶋茂雄は、地獄の特訓を受けたあとでも、夜になれば忘れたかのようにぐっすり寝ていたと、野球仲間の証言にある。そのためには、引きずらない、忘れる、切り替えるなどの方法があってもなかなかできない。きっと記憶の良さが邪魔をしているのだ、と頭の良くない自らを慰めている。いっそのことバカになってしまえばよいのだ。中途半端だからいけないのだ。
季節はいつが良いとか、お酒はどこ産が良い、旅行はこの地方が良い…好みはそれぞれであり、そんな会話を互いに交わし合えれば幸せを感じる。そこは比較や検証の場ではない。十人十色と知りつつ、つい自分と比べてしまうのが人情。いっそのこと自分の知識をなくしてしまえばよい。その状態で賭け事や関心のない話を興味深く聞く方法がある。それが傾聴の仕事である。
落語とは、人間の「業」を認めること、といわれている。そうせざるを得ないのが人間だというのだ。勉強嫌い、ゲーム依存、それが業だというのだ。私たちが生まれる前からこう生きろと言われているというのだ。フロイトのいう無意識そのものである。変えるにはどうすればよいのか。
落語の一席に、銀で誂えた煙管(きせる)の雁首を船の上から水中に落としてしまう演題がある。銀製ということをふんぞり返って語る主と、煙草の味には関係がないという庶民とのやり取りが巧妙に語られている。われわれも同様に、自分だけのこだわりがあって、他人からは一向に評価されないというものがある。どちらの立場も落語ゆえに笑える。その笑いは笑っている私自身への笑いかもしれない。
「そんなことぐらいで落ち込むな」と言われても落ち込むことは落ち込む。「そんなこと」とは、「損なこと」、すなち、自分の心が損なわれたことを意味する。私の一部分が破壊されたのである。ひっかかれて痛いレベルではない。自己の消滅に等しい危機である。体の傷と異なり、時間とともに薄らぐが、やがて何かのきっかけで再び落ち込むのだ。早期発見早期治療のためには、何があったのかを語ることである。
礼に始まり礼に終わるといって、人は意外にも形式を好むのではないか。礼を失するとは、形式の流れに沿っていないことを言う。挨拶、服装、敬語などすべて形式である。その一方で、年齢、性別、やかましい言葉遣いから解放されたいとも思っている。自由に語れる場が一つでも欲しいものである。
持っているだけで幸せを感じる人も多い。クルマ、服、時計、CDなど、眺め、触れ、思っているだけで幸せというものである。四六時中着たり、聴いたりするわけではない。持つ喜びである。それは何を意味するかというと、そのモノと対話しているのである。クルマが話しかけてくる、とか、時計がこれを着けろと言うという。妄想と言ってはならない。一流品と対話しているのである。
心を豊かにするもの、それが美である。美は人さまざまである。絵画であったり、自分で撮った風景や子供の写真であっりする。それがその人だけの美である。古びた茶杓が鑑定団で数千万円の鑑定結果が出て話題になった。解説を聞くと、そうかなー、と思う。数千万円しなくてもいい。自分だけの美に囲まれていたい。
地域によって、この地には秋がないと言う。すぐ冬になるという。ついでに春もないと訴える。そうだ、われわれの生も同じかもしれないな、などとしたり顔で一人頷いている。人生、良いときは少なく、苦しいことのみ多かりきかもしれない。だったら楽しいことだけしよう。そうもいかないか。
味覚ほど曖昧なものはない。そもそも味覚は再現できない。「この間の鰻重は旨かった」と言ってもそれだけだ。再現できてしまったら、鰻屋に行く必要がなくなるだろう。美味しかった、という記憶だけが残る。その記憶をたくさん重ねて行こう。
色彩と記憶はセットになっている。白は、祖母が飼っている文鳥の白さにハッとさせられた記憶とセットになっている。白とは、文鳥のあどけない顔、柔和な祖母、その家の佇まいが混ざり合った色なのだ。色彩とは記憶そのものである。
空が高い。あれほど肌を焼いた日差しもやわらかくなった。時は確実に巡っている。人間も自然の一部。季節同様、身体も心も巡り巡って新たなものになっていく。うまくいかないときは、じたばたしないことだ。精神がまとまるときがくる。そのときに備えよう。
「夏だ、キャンプだ、バーベキューだ」と胸を高鳴らせる人もいる一方、雪がちらつき始めると、そそくさと倉庫からスキー板を出す人もいる。オープンカーが好きな人は、夏は暑いので、全開の幌を下、ダウンジャケットに身をくるんで寒風を切り裂いて走るという。みんなそれぞれの過ごし方がある。わたしにとって夏は苦手である。
墜景のときが早くなる頃だ。西の空が茜色から紫色に変わり始めると、市の音楽放送がどこからともなく響いてくる。今日も一日なんとなく過ぎたなと感じる。良いことも悪いことも、あの調子はずれのスピーカー音が帳消しにしてくれる。それも良いではないか。長閑な一日の終了である。
墨子の中で、「人は習慣によって善人にも悪人にもなれる」と嘆いたそうである。人間がいかに他者の影響を受けやすいかを表している。要は、「出会い」がわれわれを決める。出会うためには「種」の存在が必要である。種と種が引き合うのだ。種のことを無意識という。
無くて七癖、有って四十八癖という。今日も癖が歩いている。散歩中、遠くからでもすぐに誰さんと分かる。人から、あなたはこうだよねと言われて、それがなんだと言いたい。直しようがない。自分の癖がなんであるかわからない。癖とは私のオリジナル商標だから。
子どもが、「オレは世界一になる!」と言うのはほほえましいが、大人がそれを言えば顰蹙を買うだろう。その境い目は何歳ころか。一応10歳と見ている。その心は、「歳が二ケタ」になったから。なぜ言わなくなるのか。大人の仲間入りしたということ。世界一になるという言葉は心の中にきっと生き続けている。そんな話の数々を聞きたい。
あの世はどんなところか。「わからない」が答えという。あの世とこの世の間にはしがあるという話はよく耳にするが、あの世のことは伝わってこない。死ぬことは知っていても体験したことはない。体験したくもないし、知りたくもない。楽しいことだけを体験したい。