視覚優位
ケーブルカーの乗客が小さな声で叫ぶ。「下りのケーブルカーの方が速い!」と。上り下りがすれ違うとき、速度が相対的に2倍になるからそう見える、というのが知識である。こちらが一定の速度で動いているからそう見えてしまうのである。という説明など何の役には立ちはしない。われわれも、役職、服装などで人を見ているかもしれない。その人自身を見るにはどうすれはよいのか。
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ケーブルカーの乗客が小さな声で叫ぶ。「下りのケーブルカーの方が速い!」と。上り下りがすれ違うとき、速度が相対的に2倍になるからそう見える、というのが知識である。こちらが一定の速度で動いているからそう見えてしまうのである。という説明など何の役には立ちはしない。われわれも、役職、服装などで人を見ているかもしれない。その人自身を見るにはどうすれはよいのか。
子ども時代、遠足前日ともなれば持ち物をリュックから出したり入れたりしていた。言うならば前夜祭も楽しいのである。遠足当日はバスの中でウトウトしていた。切羽詰まってから準備する人は、ウトウトなんかしていないかもしれない。遠足そのものを楽しんでいるに違いない。
「弱い犬ほどよく吠える」。何百回となく聞かされてきたことわざだ。ところが、上司から厳しい叱責を受ければ、ことわざなど一瞬のうちに吹き飛んでしまう。それが感情の強さである。どうすれば感情を経験によって抑えることができるのだろうか。
和歌の形式の一つに枕詞がある。名称の前にわざわざ何かの言葉を配して表現する形式だ。あしびきの山、久方の光などみなそうだ。深谷の叔父さん、和服の似合う誰々さん、暑いぞ熊谷、などみなそうだ。われわれは無意識的に平安の伝統を受け継いでいる。
完璧な仕事あるいは完璧な計画などはない。同様に完璧な人もいない。にもかかわらずそれを相手に求めがちである。自分を相手に投影して、そうあって欲しい自分を実現しようとしている。その方が努力しなくて済むから。そのために存在するのが演劇や映画なのである。
物事には好機というものがある。つかみ損ねると次はしばらくはこない。難しいのは好機かどうかの見極めである。それを意志という。意志をもつとは、見極める力をもつことである。
かつて野や山を無目的に走り回っていた時代があった。何が楽しかったのだろう。自由奔放はそのときに済ませておかなければならない。今、街中を走り回ればたちまち捕まってしまうだろう。そんな人はきっと、走り回ることが禁止されていたのかもしれない。
私の時間を相手に捧げる、それが奉仕だ。人に捧げるように、赤ちゃんにも捧げる。これが難しい。相手が当たり前のように要求してやむことがないからだ。それでも捧げる。かわいい笑顔が唯一のご褒美である。
奈落に突き落とされたようだなどと言う。人に先を越され、買おうと思っていたものは売り切れだ。よく生きてきたものだとも思う。身の回りは奈落だらけ。それともこの世が奈落そのものなのか。「キャリー」という恐怖映画のラスト1分にそれが描かれている。
時代を先駆けた新製品が身の回りにある。車、CD、電話、テレビ、スマホ…。すべては奇想天外な発想のお陰だ。普通の人の中にも奇想天外なアイディアがあるはずだ。まさかあの人と結婚するとは…。あんな仕事に就くとは…。反対派のなんと多いことかしれません。人間の心の中にも奇想天外と反対派が共存している。せめて一人でもよいから、賛同してくれる人がいればいいのに。
美しい景色を言う言葉である。見慣れた景色から離れて、都会の人は自然に触れようとする。人も皆違っていいのではないか。自分のことを変わっていると言わずに、奇勝と思ってほしい。そうすれば皆認め合えるにちがいない。
ストレスを感じると、人は後ずさりする。帰りたい時、人からお茶に誘われれば、後ずさりをするだろう。ストレスとは圧を受けることだ。相手は付き合えと圧をかけてくる。熊と遭遇したら、ゆっくり気付かれないように後ずさりしよう。
人が生き辛いと感じることの一つには、言いたいことが言えないことであろう。職場に行きたくないときに、そのことが言えたらどれほどホッとすることかしれません。学校に行きたくない、面倒なことと向き合いたくない…。そう考えると、現実逃避はとても人間的な行為なのかもしれない。
俳優は何者にもなれる。乞食の役から太閤秀吉まで、同一人物が勤めているとは思えないほどだ。私たちも時々刻々役者を演じさせられている。演じているのでなく、演じさせられている。社長は社長らしく振る舞うのだ。周囲からそうすることを求められているからだ。その人が家に帰ればお父さんを演じることになる。私たちはその都度の役者なのである。
人と異なったことを言うと、たちまち奇人扱いされることがある。三人の口で言われようものならなおさらだ。それが同一化である。自分たちと一緒にすることで安心感を得るからだ。ちょんまげをしたら奇妙である。自分だけの考え、趣味はそっと隣の人と語り合えばよいのだ。
どうしようもないとき、にっちもさっちも動けないとき、人は気息奄々になる。いつも元気ではいられないのだ。24時間動き続ける電動芝刈機をホームセンターで売っていた。勝手に動き回り、自動で充電器に戻って充電し、終わると再び作業を続けるという。ちょっとその機械が心配になってきた。
人間は生きている限り変遷し続けている。生き物が脱皮したり、環境に合わせて変異していくように。職場を変え、住まいを変えたりする。趣味、髪型、服装を変えるように変遷し続けるのは、人間である証しかもしれない。
要職にある人が何かのきっかけで職を追われたり、その場に居づらくなったりすることがある。本人は辛いことだろう。見方を変えれば、その時期は過ぎたということであり、その場所にふさわしくないととらえてみることも必要ではないか。きっと、他人はそのことを密かに知っているのかもしれない。
天知る、神知る、我知る、子(あなた)知る。誰も知らないだろうと思っていても、当事者がいる限りその事実はあるのだ。努力していればその事実は表れるし、人に尽くしていることは自然に伝わるのかもしれない。
セットも撮影も設定も今の撮影技術に比べれば昔日の観光趣がある映画だが、未だに忘れられない映画である。人間の体はどうなっているのかに興味があったからだろう。同じように、人間の心はどうなっているのか、に関心を向けて創設されたのが精神分析なのである。
店員の説明にうっとりすることもある。辞典のように解説してくれるだけで心が豊かになる。天籟を聞くようだ。内容は少しも覚えていなくても、美しい音楽を聴くような気持ちになる。つい買ってしまうのは声の響きを身につけたいのかもしれない。
私たちが日頃交わす会話は天衣無縫のようである。いつ果てるともなく延々と会話が続いている。あのように一つのことについて滑らかに分かりやすく情熱的に語りたい。そのためには、飽くなき関心が必要だ。関心とは何か。それは没入、忘我の世界である。我を忘れるほどの感動に身を捧げたい。
電車に乗るのは久し振りである。車内は空いていて、目の前の男はぐっすりと眠っている。と見るや、突然頭を挙げて停車した駅で降りた。よくもああ都合よく目が覚めるものだと思った。駅を間違えて引き返したのかもしれないと思い、目で追っているとちゃんと改札口を通過している。これも訓練のたまものかもしれない。
翻訳書を読むのも面白い。海外の文筆家の思想に触れることができるのも、翻訳家のお蔭と言っていい。そのあとで、日本の文筆家の著作に触れると、分かる度合いが翻訳書の比ではない。すんなり心に入ってくる。こんなに面白いものなら、若くて眼の良いうちにもっと読んでおけばよかった。
数十年前の文庫本が出てきた。活版印刷だけあって、ときどきインクムラがあったり、活字潰れが生じている。それがパッと見ると、地図を見るような景色をなしている。今時のキレイに刷り上がった本や、スマホの画面に比べると、ガタついた道路を行くが如しである。それが味になっているせいか疲れない。古書好きの人はきっと味を求めているのかもしれない。
周りの上級生たちはみな話好きであった。私たち下級生はただそうですね、と頷いて聞いていればシゴカれずに済んだからである。「お前よ、牛は枯草ばかり喰ってるんだ。あんなもの喰えるか?喰えないだろ。そのおかげで俺たちは肉が喰えるんだ。」と、少し険のある目を私たちに注ぎながら果てることなくしゃべり続けるのだった。友だちは牛や草に興味がないらしく、私ひとりが相手をするのが常だった。そのお蔭で、人の話をひたすら聞けるようになった。もつべきはクセ強の先輩である。
言葉にトゲがあるなどと言う。言葉にトゲがある人には見聞こえない。言われた人だけが感じるものである。なぜトゲがあるのか。きっとトゲの言葉をかけられてきたからだろう。その人にとってそれが標準だ。トゲに気をつけてくれと頼んでも、気付かない。私たちもどこかでトゲを知らないうちに出しているかもしれない。
「そんなつもりで言ったのではない」ことは多い。「やる気のない人は帰れ」と言ったら本当に帰ってしまった。「間抜けな奴」と言ったら相手は落ち込んだ。それは言ってはダメだよ、と言ったところで、そんなつもりで言ったのではない、励ましたのだと言うだろう。つもりはやめよう。相手が傷つくだけだから。
人はなぜもっと上を目指すのか。それは、現状維持が難しいからだ。仕事に飽きた、つまらない気持ちがあるせいだ。それを経済的に証明しようとすれば、精神が置き去りになる。精神的向上を目指せば、経済が成り立たない。二つ対立する気持ちのなかで、少しでも精神を優先させよう。
成功者と称えられた人物がある日突然失脚することもある。そんなに上を目指さなくても十分に名を挙げたではないかと俗人は見るかもしれない。片方で、無意識のなかに成功したい気持ちがあるのかもしれない。人はその立場に立って気付くこともある反面、立っても気付けないこともあるのかもしれない。主人と奴隷の弁証法が思い出される。
洒落たデザインのクルマが真っ赤に色づいた紅葉の中を走り抜けていく。クルマのコマーシャルである。ああ良いクルマだなと思う。紅葉に魅せられて欲しくなっているのか。クルマ自体を欲しくなっているのか。後者なのだ。欲しいと思わなければ、紅葉もクルマもコマーシャル自体も目の前から姿を消してしまうだろう。目は欲望を写し出す鏡だからである。