指図(1)
私たちは、指図されることにあきあきしているのではないか。同時に、振り込むようにと、簡単に指図通りしたりする。指図してくれれば何でもしますよ、という人もいるだろう。体によいからこれを飲めと言われているような気もする。いったいどうするのがよいのか…いつのまにか指示を待っている。
私たちは、指図されることにあきあきしているのではないか。同時に、振り込むようにと、簡単に指図通りしたりする。指図してくれれば何でもしますよ、という人もいるだろう。体によいからこれを飲めと言われているような気もする。いったいどうするのがよいのか…いつのまにか指示を待っている。
上司が言う。「やる気のない奴は帰れ!」と。部下は本当に帰ってしまったよ、と上司は呟く。そのときの上司はこう言うのだ。「そんなつもりで言ったのではなく、励ましのつもりで言ったのだ」、と。一方の部下はといえば、言語にしたがっただけのことである。真の言葉はこうしてすれ違っていくのである。
頑固な人は生きづらい。強情な人も生きづらい。どう違うのか。頑固には根拠がないが、強情にはそれがある。子供たちは、皆が持っているものを自分が持っていないと仲間外れされるから、友達と同じものを欲しがる。子供には子供の事「情」があるのだ。大人にも大人の事情がある。
強い心を持て!と言われて、どうすればよいのか。「強」の文字は、硬い殻をかぶった虫、と辞書にはある。もともと人間は弱いのだ。その弱さを補うものは、言葉である。言われたら言い返す。言い通すことである。言われっぱなしの人は、殻を突き破って外側から破壊されてしまうだろう。言葉を持つことは人間形成の第一歩である。
完熟に至らないこと。至ってしまえば食べられてしまい、そこで終了となる。未熟な部分が次に進む原動力である。完熟と未熟との間で右往左往している、それが人間の長生きの秘訣である。
緊張とは何か。それは過剰と言えるだろう。自分以上に見せようとすること、と言える。普段の自分に満足していれば過剰に振る舞う必要はない、て思っていても、ついなめられてはと思う気持ちがそうさせるのであろう。普通の自分になりたい、普通とはなにか。
人間は、いとも簡単に人の意見で揺らいでしまう。か弱い葦みたいに一生揺らぎ通しではないか。レストランに友達と行けば、食べたいものを宣言した日には、「おまえはそんなものを食べずに、これを注文しろ」と言われて、「私はこれを食べる」と言いとおせるかというと、これがなかなか難しい。つい変更してしまう傾向はないだろうか。ああ、今日も揺らがされないようにしよう、と今だけは思う。
地位や名誉は目で見ればわかりやすいが、人柄はなかなか見えにくいものである。人柄はどこで表れるのか。それは挨拶である。何気なく交わすひと言に全人柄が表れてしまう。その人柄はどのようにして養われるものなのか。お付き合いしてきた人柄によって養われてきたものなのかもしれない。
人や学問が高い境地に達する、というがそれはいったいどういうことだろうか。スカイツリーに登ってみれば一目瞭然である。すべてのものが小さく見える。過去の自分がチッポケな人間だったことを知れるのである。そのままスカイツリーに残ればいいのだが、下界に降りてしまえば、元の木阿弥である。
葬式で遺族にどんな言葉をかければよいかと質問された場合、何も言わずにそばにいるだけでよいのですよとアドバイスする。大変だったかもしれないし、介護疲れから解放されて安堵されているかもしれないからだ。ある人は、「この度は…」とひとこと言ってから、百人一首の「幣もとりあへず手向山、もみぢの錦神のまにまに」と菅原道真の歌を心のなかで唱えてから頭を挙げると言っていた。これもアイディアである。
「廃」の字は、「广」(まだれ)と「発」との組み合わせでできている。广は建物の意で、その中に発、すなわち、たつ、壊すという文字が溢れるように収められている。今までのやり方を破壊したり、廃棄することであたらしいモノを容れることができる、という意味である。古い服を棄てて新しい服を着る。とても気持ちがよい。今まで、こうでなければならない、と考えていたことも、一回廃してみるのも悪くはなかろう。
毎日曜日の朝、SLの勇姿が熊谷の駅舎にその巨体を横たえている。騒音まがいの汽笛を構内に響かせるときは、駅員も幾分胸を反らせ気味だ。動力は先頭の機関車だけだから、どうだと言わんばかりに壮大な煙を吐き出しながら、客車を牽いていく。その様は、俺こそが主役だという面構えである。今日も黒い巨体を秩父の山奥目指して突っ走っていく。
スーパーの駐車場で、隣に停めてきた車の運転手が私に聞く。「この近くにガソリンスタンドはありませんか?」と。どうしたのかと尋ねると、燃料計のメモリが半分を切ってしまったと蒼白な顔で訴える。この人に向かって、大丈夫ですよと言うことは何の役にも立たない。ただ、ガソリンスタンドを教えれば良いのだ。その人にはその人だけのトラウマがある。我々にも自分では気づかないうちに、顔面蒼白になっていることがあるかもしれない、いや、あるのだ。