運勢
「勢いが運ばれる」、と書いて運勢。私という人間が何か力によって勝手に運ばれるのだ。それまで、こうしたいという思いが「姿勢」になっていて、突然来る波に押されるように勝手によい方向に運ばれるのである。「姿」が何を目指しているのか、何かの力とは…それを無意識と呼ぶ。目指しているもの…それを欲望と呼んでいる。
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「勢いが運ばれる」、と書いて運勢。私という人間が何か力によって勝手に運ばれるのだ。それまで、こうしたいという思いが「姿勢」になっていて、突然来る波に押されるように勝手によい方向に運ばれるのである。「姿」が何を目指しているのか、何かの力とは…それを無意識と呼ぶ。目指しているもの…それを欲望と呼んでいる。
間もなく今年も終わろうとしている。元旦だからといって、一日過ぎただけなのだが、やはり区切りはつけたいのが心理ではないか。竹に節があるためにしなやかな強さを保てるのを考えると、やはり節目ごとに区切るのも必要である。どうやって区切ればよいのか。
やり残したことがある人は幸いなるかな。やり尽くしたらそれでオシマイだ。やり残したことが次への目標になるからである。行ってない場所、読んでない本、知らないこと…。幸せが延々と続いている。
体重計の針が60キログラムを切ったので、今年最後の目標を達成した。次の目標が見えてくる。それは食べたことのないものを食べる、知らないことを知る、見る、感じる、まだまだ五官を満足させ切っていないことに気づいた。まだまだ未熟者を脱し切れていない。
何事も最初の一歩がたいへんだ。クルマも出だしがたいへんそうである。動き出せばこっちのもの。ラカンは、牽引力と推進力との二つ必要だと言う。牽引力とは何か。推進力とは何か。
近くの町中華屋の奥さんは、私がここに引っ越してきた35年前から、その笑顔を私に見せたことがない。いつも通り古色蒼然たる店に入る。笑わない。卵丼を注文するのは初めてである。あまりにも美味だったので、つい口をきいてしまった。「これは卵をいくつ使っての味ですか?」と。奥さんは、「二つ!」と指を二本立てて答えてくれた。私は初めて彼女の笑顔を見た。あの微笑の意味はいったい何だったのか。モナリザに次いで謎がまた一つ増えた。
初めから終わりまで一貫していること。それが難しい。人と人との間に生きる限り、徹頭徹尾は困難で、人の言葉で私の言葉が切断されることが多い。寄ってたかって意見を言ってくるので、私の体はズタズタである。よくぞ生きて来られたと思う。きっと、自分で切断箇所を繕いながら来たからだ。この世で生きるのはたいへんである。
クリスマスは最大の年中行事の一つである。その理由は、ツリーだ。「ご神木」信仰である。シンボルとしての依り代、それも視覚的に見上げる威容が欲しい心理の表れであろう。頼もしく、揺らぎない存在こそ人が求めているものである。それを真理と呼んでいる。
人から、「ご家族はお元気ですか?」と聞かれても、気持ちは微妙である。あわてて、「おかげさまで息災です」などと答える。この言葉もまた微妙である。どの程度話せばよいのかわからない。そんなときはこう考えるのも一つの方法かもしれない。相手の家族に何か変化が生じたのかもしれないのだ、と。会話は難しい。
日本語は同音異義語だらけである。教師から、「復習」と言われて、「復讐」ととらえる子どもはいない。仮定、家庭、過程、課程…。文章の前後、空気、設定を総合しながら会話している。ときに言い間違えて冷や汗をかき、笑いをとることもある。われわれは器用なのである。
ゆったりと落ち着いているさま。いつもせかせか、キョロついている身としては、いささか恥ずかしくなる言葉だ。たまには無口でいよう、などと考えると、そんな時があるかもしれない。その時、外側から見たら、どこかのネジが一本抜けた人のように見えるかもしれない。やはりいつも通りの自分でいようと思う。
自律神経は、体中にあまねく張り巡らされている。冷たいものに手が触れて手を引っ込める。驚けば、心臓の拍動を急がせてバランスをとる。それらはすべて自律神経のおかげである。そんな事態をいちいち脳に伺いを立てていたら、脳の働きが過剰になってしまう。そこで、それを防ぐためにその部署に任せっきりにしているのである。自律神経はすごい。私は守られている。
「修」の文字には、洗い清めて整えるという意味がある。「修飾」とは、そのものを美しく見せるだけではなく、さらに美しいものにしてしまう効果があるのだ。「美味しい」の言葉の前に「とても」と付け加えれば味が引き立つだろう。「必ず」という言葉を前に置けば、「幸せになる」気持ちに拍車がかかることになる。それを言う人の心に、「信じる」気持ちがあるからこそ言えるのである。
形を超えたもののことを言う。私たちはその言葉で会話している。「誰さんは円満な性格だ」、と人がいうとき、「円満」も「性格」もともに形を超えたものである。つまり、形のないもののことを言う。聞き手は、なんとなく柔らかで人当たりのよい人、というように受け取っている。そうなんだなといった程度にである。ここに誤解が生じるのだが、それでしか会話できないのである。これからもきっと、そんな感じとして受け取り続けていくのだろう。
高齢者認知症テストを運転免許センターで受けさせられた。絵が机上のタブレットに写し出され、ヘッドフォン越しに、「これはレモンです」、「これはペンです」と記憶するように指示された。「ディス・イズ・ア・ペン」。中学校の英語だと油断してはならない。数字のテストを挟んだのちに、見た絵の名称を思い出してズラリと書かなければならないからだ。油断しそうだったが何とか「飛行機」と書き終えたところで、退席するように促された。廊下で他の人の退席を待っていたのだが、さっさと帰れと警察官に追い払われてしまった。
食べない、と決めると食べたくなくなるものだ。他の人が食べていても一向に食欲が湧いてこない。それどころか、食べ物が異様なものとして目に映る。唐揚げは油まみれの塊、プリンは着色料をまとったインクのように見えてしまう。意識が「そう見えてしまう」のだ。ところがあと数日後には、油とインクの塊に舌鼓を打つことになるだろう。
バッグを変えた。バッグの表面だけでポケットが七つあるので便利と思った。カードはここ、鍵はこちら、携帯は…というそれぞれのポストを与えていざ出陣である。ところが、立派なポストも出先に着くころにはごちゃまぜになり、開けてみれば全部が1ヵ所にかたまって入っている。その方が早く見つけられる。ただの袋みたいなバッグの方がよかったのかもしれない。
指図されるのが嫌で街に出る。頭上注意、足元にお気をつけください、エスカレーターでは左側で立って動くな、エレベーター内では反対側の扉が開きます…。街も嫌になって自然に触れに行く。登山道の入り口に看板が立て掛けてある。熊に注意と書いてあった。
私たちは、指図されることにあきあきしているのではないか。同時に、振り込むようにと、簡単に指図通りしたりする。指図してくれれば何でもしますよ、という人もいるだろう。体によいからこれを飲めと言われているような気もする。いったいどうするのがよいのか…いつのまにか指示を待っている。
上司が言う。「やる気のない奴は帰れ!」と。部下は本当に帰ってしまったよ、と上司は呟く。そのときの上司はこう言うのだ。「そんなつもりで言ったのではなく、励ましのつもりで言ったのだ」、と。一方の部下はといえば、言語にしたがっただけのことである。真の言葉はこうしてすれ違っていくのである。
頑固な人は生きづらい。強情な人も生きづらい。どう違うのか。頑固には根拠がないが、強情にはそれがある。子供たちは、皆が持っているものを自分が持っていないと仲間外れされるから、友達と同じものを欲しがる。子供には子供の事「情」があるのだ。大人にも大人の事情がある。
強い心を持て!と言われて、どうすればよいのか。「強」の文字は、硬い殻をかぶった虫、と辞書にはある。もともと人間は弱いのだ。その弱さを補うものは、言葉である。言われたら言い返す。言い通すことである。言われっぱなしの人は、殻を突き破って外側から破壊されてしまうだろう。言葉を持つことは人間形成の第一歩である。
完熟に至らないこと。至ってしまえば食べられてしまい、そこで終了となる。未熟な部分が次に進む原動力である。完熟と未熟との間で右往左往している、それが人間の長生きの秘訣である。
緊張とは何か。それは過剰と言えるだろう。自分以上に見せようとすること、と言える。普段の自分に満足していれば過剰に振る舞う必要はない、て思っていても、ついなめられてはと思う気持ちがそうさせるのであろう。普通の自分になりたい、普通とはなにか。
人間は、いとも簡単に人の意見で揺らいでしまう。か弱い葦みたいに一生揺らぎ通しではないか。レストランに友達と行けば、食べたいものを宣言した日には、「おまえはそんなものを食べずに、これを注文しろ」と言われて、「私はこれを食べる」と言いとおせるかというと、これがなかなか難しい。つい変更してしまう傾向はないだろうか。ああ、今日も揺らがされないようにしよう、と今だけは思う。
地位や名誉は目で見ればわかりやすいが、人柄はなかなか見えにくいものである。人柄はどこで表れるのか。それは挨拶である。何気なく交わすひと言に全人柄が表れてしまう。その人柄はどのようにして養われるものなのか。お付き合いしてきた人柄によって養われてきたものなのかもしれない。
人や学問が高い境地に達する、というがそれはいったいどういうことだろうか。スカイツリーに登ってみれば一目瞭然である。すべてのものが小さく見える。過去の自分がチッポケな人間だったことを知れるのである。そのままスカイツリーに残ればいいのだが、下界に降りてしまえば、元の木阿弥である。
葬式で遺族にどんな言葉をかければよいかと質問された場合、何も言わずにそばにいるだけでよいのですよとアドバイスする。大変だったかもしれないし、介護疲れから解放されて安堵されているかもしれないからだ。ある人は、「この度は…」とひとこと言ってから、百人一首の「幣もとりあへず手向山、もみぢの錦神のまにまに」と菅原道真の歌を心のなかで唱えてから頭を挙げると言っていた。これもアイディアである。
「廃」の字は、「广」(まだれ)と「発」との組み合わせでできている。广は建物の意で、その中に発、すなわち、たつ、壊すという文字が溢れるように収められている。今までのやり方を破壊したり、廃棄することであたらしいモノを容れることができる、という意味である。古い服を棄てて新しい服を着る。とても気持ちがよい。今まで、こうでなければならない、と考えていたことも、一回廃してみるのも悪くはなかろう。
毎日曜日の朝、SLの勇姿が熊谷の駅舎にその巨体を横たえている。騒音まがいの汽笛を構内に響かせるときは、駅員も幾分胸を反らせ気味だ。動力は先頭の機関車だけだから、どうだと言わんばかりに壮大な煙を吐き出しながら、客車を牽いていく。その様は、俺こそが主役だという面構えである。今日も黒い巨体を秩父の山奥目指して突っ走っていく。
スーパーの駐車場で、隣に停めてきた車の運転手が私に聞く。「この近くにガソリンスタンドはありませんか?」と。どうしたのかと尋ねると、燃料計のメモリが半分を切ってしまったと蒼白な顔で訴える。この人に向かって、大丈夫ですよと言うことは何の役にも立たない。ただ、ガソリンスタンドを教えれば良いのだ。その人にはその人だけのトラウマがある。我々にも自分では気づかないうちに、顔面蒼白になっていることがあるかもしれない、いや、あるのだ。