右往左往
私たちの日常は右往左往させられ通しである。じっとしていても、テレビからオリンピックの歓声が流れてくる。それだけで読んでいる本から視線がずれてしまう。しっかりしろと思っていても大勢の声には抗しがたい。もし雑音のない世界に身を置いたらどうなるか。人はちょっとした雑音のなかで安らいでいるのかもしれない。
私たちの日常は右往左往させられ通しである。じっとしていても、テレビからオリンピックの歓声が流れてくる。それだけで読んでいる本から視線がずれてしまう。しっかりしろと思っていても大勢の声には抗しがたい。もし雑音のない世界に身を置いたらどうなるか。人はちょっとした雑音のなかで安らいでいるのかもしれない。
人は毎日揺れ続けている。まずは生きているということだ。歩くときだって左右に揺れることで前に進める。思いだって揺れて当然である。ときに立ち止まり、また歩きだす。そうしているうちに一生を終えるのだ。揺れることを楽しもう。
悔いのない人生はあるのか。悔いることはなかったという言葉の人の奥には、きっと「悔い」はあったのかもしれない。モノを買えば悔い、買わなくても悔い、後悔している自分が嫌になって再び悔い…一生悔い通しではないか。毎日後悔しているから「毎」の文字がくっついているのだ。もし、これで良いと思ってしまったら、そこで進歩はとまるのだ。これではいけない、このままではダメと思うことである。後悔とは進歩の別名である。
背中のほくろは指摘してはいけない、と昔から言われている。ほくろは何の悪さもしてないが、指摘されれば気になるからである。白衣の権威から言われて気にならない人はいないだろう。CT検査で、頭に空洞があります、と言われても、それがどうしたと思えばよいのだ。ガンになったらどうしようとも思わない。ガンになったら…と思うだけで、すでにガンが前提になっている。プラスのことだけを考えることが大事である。
「私の子どもは入学試験に受かるでしょうか」と人から問われたら、「もちろん受かりますよ」と答えるだろう。その言葉を相手が言ってほしいからである。反対に、「私は試験官ではないからわかりません」とは言わないはずである。人はことの真偽を尋ねているのではない。この世には真も偽も存在しないのである。あるのは、相手の言葉だけなのである。
気が抜けてうっとりするさまをいう。我々はいつも気が張っている。気が抜けないのだ。外出すれば八方に気を付けなければならない。引きこもりの気持ちがよくわかる。一方で、何かにうっとりすることがあるのは幸せである。その最終型が寝落ちすることかもしれない。
雪解けの季節。雪国の家の屋根に積もった膨大な雪が瞬間的に落ちる。その重さは1立方メートルあたり500キログラムにも達するという。徐々に落ちずに突然落ちる。物事も同様に突然解決する。試験に合格する、手に入れる…すべて突然である。その瞬間まで気が気ではない。しかし、その時を期待をもって待とう。
旅行社でお客が店員と相談している。「どこか楽しい国はない?」と。店員が国名を挙げるたびに、「行ったことがある」と告げている。全部行ってしまったと言うのだ。その人にとってふさわしい旅行先があるのだが。その未体験の国はどこなのか。
いったい健康などあるのだろうか。いつもどこか痛いし、常に腹が減っている。食べれば苦しくなる。何かが不満であり、不足を訴えている。満ち足りた時を過ごそうという言葉がどこか空論のように感じられる。
一人が青空を見上げながら良い天気だと呟く。それを聞いた人が呟く。洗濯日和だと。さらにもう一人が言う。子供を迎えに行く時間だと。最初の呟きはなんだったのだろうか。謎のままである。意見が一致することはあるのか。あるとすればそれはどんな時か。
グルメ好きの人は多い。ところがその評価はまちまちである。歳を取った人と若者の味覚は異なるだろう。自分の味覚と相手の味覚が一緒だという確証はない。素晴らしいフレンチのあとで大衆酒場に行ったとしても空腹の人と比べることはてきない。そのフレンチでさえも、私が空腹で行ったから美味しいと感じたのかもしれない。本当の「旨い」はどこで味わえるのだろうか。
馬上に武者姿で槍を構えているのはいかにも立派な俳優姿である。カメラも下から見上げているのがその効果を際立たせている。その俳優も撮影の合間の姿は別であろう。われわれの凛々しい姿、アングルはいったいどの場面なのだろう。
私たちはどちらにしても悩む。こちらを選べばあちらに未練が残り、買えば買ったで買わなければよかったと思う。それは思考があるからだ。いったん思考をとめてしまえば良い。買ったらそれを受け入れ、買わなかったらそれを受け入れて後ろを振り返らないことだ。食べたことも忘れる…悩まないでよいと言えるのかもしれない。
近所から鬼やらいの声が響いてくる。子どもやお父さんの声を凌駕しているのがお母さんの声だ。寒空を引き裂く響きで鬼も退散したに違いない。本当の今年が始まった。
神社に参拝して祈祷を受ける。厳かな中を宮司さんが木沓を履いてどこからともなく現れる。時を計ったかのように別の宮司さんが太鼓をうちならす。鈴が鳴らされる。その一連の手順がこれから読み上げられる祈祷文の開始を告げる。清浄たる雰囲気のなか、神の存在を感じているのは私だけか。
その借家はもともと料亭であった。三和土の玄関で靴を脱ぐと、少し左に配置された廊下は直接奥の部屋を覗けないようになっている。その部屋は低いかまぼこ天井になっていて、畳に座せば落ち着いた気持ちで庭に植えた八つ手を見るための肘掛け窓にしつらえてある。家全体が暗いが重苦しい感じがない。他にも檜風呂、格天井、欄間の彫り物など、裸電球の四畳半に倦むたびにそれぞれの部屋を巡って気分を癒すのには事欠かなかった。今は残念なことにマンションになっている。昭和の風情がまた一つ消えて行った。