彩
ブラインドから漏れる太陽光線が壁に斜めに縞模様を描いている。垂直・水平の壁を切り刻むようにそれは異彩を放っている。古人が「彩」の文字を斜めの光線からヒントを得たことがわかる。このとき、私は古人と時代を超越しながら対話しているのである。対話はいつでも、どんなときにも、誰とでもできるのである。
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ブラインドから漏れる太陽光線が壁に斜めに縞模様を描いている。垂直・水平の壁を切り刻むようにそれは異彩を放っている。古人が「彩」の文字を斜めの光線からヒントを得たことがわかる。このとき、私は古人と時代を超越しながら対話しているのである。対話はいつでも、どんなときにも、誰とでもできるのである。
散歩中、「おじさんは昔イケメンだったでしょう」と言われた。それから、散歩開始時間を早め、暗いせいで、顔が見えないころからがスタートすることにした。現実を直視することはこれからもできそうもない。
雨日、一日部屋に籠る。退屈だ。手元の本をパラパラめくる。突然文字が目に飛び込んでくる。神の啓示のように網膜を刺激する。偉人の一文は示唆に富んでいて、その先を読むことができない。再び本を閉じる。退屈でなくなった。
指にはそれぞれ名称がついていて興味深い。第一指、第ニ指とは呼ばず、親指、人差し指などと名付けている。真ん中の中指はそうだとわかるが、薬指とはこれいかに。私の子ども…と言いながら小指を立てたら誤解を招くこと請け合いなのになぜか小指と呼んでいる。精神分析では指から何を分析するか決まっているのだが。
ファミレスで一人ドリンクバーの薄いコーヒーをすすっていると、隣席からさんざめきが伝わってくる。楽しげな話もさほどではなく、深刻な話と思われていた話が自慢話ということもある。しかもそれが普通なのである。私たちは人と何を会話しているのだろうか。
人とも付き合わず、流行りの楽しみにも関心がない。人から変わり者と呼ばれ、話しかけてくれる人もいない。それに比べて、周囲の人たちは、あちらで群れを作り、こちらで何かを語り合っている。どんな話しに打ち興じているのか。それはそれでいいではないか。対話する相手に歴史上の人物や理論があればそれで満足することにしよう。
手でしっかりとつかむこと。何を、自らを。自分とは何かを知ることである。自分とは、強い自分もいれば弱い自分もいる。冷静な自分がいる反面、どこかおっちょこちょいの自分もいたりする。それらすべてが自分であると把捉しておけば安心である。完璧な人間などいないのだ。
自らをどこかの位置に投げ、それをもう一人の自分が見ていることを言う。北海道に行きたいと思った瞬間、すでに北海道のどこかに立っている。その場所がふさわしいか見ている。ラベンダー畑がふさわしいか、温泉の中がベストかと斟酌している。未来に自分を投企すれば未来は自分のものだ。過去に投企すれば子どもになってしまう。私たちは過去と未来に自由に往き来できるのである。
皆が、旅行をやめよう、と言っている最中に、一人が行こう!と言ったために行くことになるものだ。その心理は何か。人間の心には、今のままがよい、があるからだ。無事・現状維持の心理である。それを覆す言い出しっぺの心理もまた、誰の心にも存在する心である。人の心は複雑だ。
多勢に無勢、皆から異口同音に告げられると、自分が間違っているのではないかと思うことはないだろうか。天気になるといいなと言っても、周囲の人が明日のことなど分からない、などと言われてへこむものである。言っているあなたも不安になれ、希望を持つなと言われているようだ。人と会話するのは楽しいようで怖いと感じたりもする。
計画を立てるとは、未来への投企である。言の字に十と書いて計の字になる。十が、私には+(プラス)に見える。一桁から二桁への変化、口に十と書いて叶うなど、変化の兆しが感じられる。これも牽強付会と言われようとも、そう思うことで未来に自分を生きさせている。
死ぬ、物騒な言葉だが、精神分析的には、捨てる、やめるという表現に使う。死ななきゃ直らない、武士は死ぬことと心得たりなど今の自分を捨てて新たな自分に生まれ変わることを指す。人は日々生まれ変わっているのだ。それが顕著に見られるのが入学式である。大人もピカピカの一年生を毎日しようではないか。
フロイトが、「人間は寄る辺なき存在」と称した通り、何かに頼らないと不安で仕方がないのだ。趣味、生き甲斐をもつのはそのためだ。古人は、自分の未来を星座占いに求めたりした。それで希望を未来に繋げることができたのだ。何を拠りどころにするか、それが生きる原動力になることだろう。
知識を吸収する、とか、技術を吸い取るなどと学びとることを動作で言い表すことが多い。美味しいものを食べ、甘いものを飲んだことが知識や技術を吸収した快感に繋がっているのではないか。そうしたことは、すべて無意識になっているので、日頃意識することはできないのだ。日頃から美味しいものだけを飲みかつ食べることにしよう。
飛行機に乗っている人にとってそうは感じなくても、見上げている側から見れば乗客の下には何もない。船も電車も、車も…みな浮遊している。地球上のわれわれも、地殻が浮遊しているから、盤石とは言えない。われわれの心が揺れ続けているのも当然である。
デパートの試食品が美味しく感じるのは一口目だからである。コーヒーなどの飲み物、香りなどは最初の一口目がうまいのだ。美味しさを持続させるには、品数が多ければよいのだ。こうしていつも食べ過ぎているのかもしれない。
山々に緑が目立つ頃だ。麓の木々も芽吹き始め、花もその色を濃さを増していくと、街を行き交う人の服装も花が咲いたようだ。そのとき、人も自然の一部であると認識させてくれる。百花繚乱まであと少しである。
こちらのひと言を復唱してくれると嬉しいものである。「これは美味しそうなお菓子ですね」のひと言に、「美味しいですよ」と返事してくれれば、美味しさが二倍になろうというものだ。あるラーメン屋に入ろうとして先客に同じように問いかけた。先客は、虚空に向かって、「さ~?」と呟いた。感想は当たっていた。正直と言うべきか。
土手のあちこちに翠のかたまりを覗かせている。少しすれば、草摘みの人影が見えてくる頃だ。葉は去年のものだと知りながら桜餅を食べる。未来への期待の表れととることにしよう。満開まであと少しである。
「早く起きろ」、「出かけろ」、「片付けろ」…の声によって私たちは動かされている。その声は誰の声かと言えば、それも自分である。私たちは、二つに分裂している。その声に従っていることを統合されていると言う。声に従いたくない状態を統合不全と言う。行きたくない場合は、頭が痛い、足が痛いと言う症状が本当の自分を語っているのである。その語らいに耳を傾けることを、体の声を聞くというのである。
ビル・ゲイツ、ピカソ、エジソン…才人と呼ばれる人たちは、幼少期からその事だけをして才能を開花させた。今、そんな幼少期を過ごすのはたいへんだ。凡人になったのは時代のせいか。世が世なら、私だって天才の誉れを受けたかも…。しかし天才は孤独かもしれない。
生まれつきの才能はあるらしい。走る才能、音楽の才能…。後天的にはどうにもならないその人だけの才能があるとしか思えない。そんな人に囲まれていたら、きっと自分の才能が見えなくなってしまうだろう。埋もれた才能に気付く方法はあるのだろうか。
「あなたの気持ちはよくわかる」と人から言われて、理解されたと感じることはできるのか。そのあとの相手の一言で理解されていないことが分かる。その一言とは、「しかし…」の一言である。どうしたら、理解されない苦しみを解消できるのだろうか。
「非」の文字は、鳥の羽が左右に別れているさまを示すものだという。右と左では世界が異なる。右手でできることも左手ではできない。互いに役割が違うのだ。人間関係も相手を分かろうとせず、ただ受け入れればよいのだ。無条件に受け入れることを受容と呼んでいる。
私たちは常に過去に戻りたがっている。栄光の過去があったら尚更だ。そうでなくても、どこかの赤ちゃんが母親の懐に抱かれているのを見た瞬間にハッとさせられたりする。未来の自分にウットリできればよいのだ。期待をもって未来を見つめよう。
自己実現と言うと、大きな事業を成し遂げることのように思われるが、それだけが自己実現とは限らない。クッキーを食べたいと言ったときに、食べたいねと返事してくれるのも自己実現。明日は天気になるといいですねと人に言ったときに、晴れますよと言われたときも自己実現である。自己実現とは、希望したことが言葉で返してくれることを呼ぶのである。
抑抑とは、慎み深いことを言う。抑えているということは、抑えられているものが「有る」のだ。私たちの無意識には抑えられていることがある。それは言葉である。言葉とは欲望だから、たくさんあるにちがいない。それは言ってはならないように心の奥の奥のそのまた奥にかくされている。だから抑の文字を二つ重ねて表しているのだろう。
かつて門限など存在しなかった。警官に呼び止めるからだ。東京駅付近を歩き回っているところを職務質問された経験がある。今はよほどの風体でない限りそんなことはない。子どもたちが安全に帰宅するにはどうすればよいのか。
朝早くから国道は満載の車が東西南北を行き交っている。コンビニは星の運行など存在しないかのように道のあちこちに光を放っている。星の消滅と共に起き出す人たちと、戴星のもとに働く人たちとがいる。一日中寝ている子ども時代がかつてはあった。今は寝ているのが辛い。子ども時代に寝てばかりいたせいかもしれない。
世界では戦争が絶えない。私たちの日常ではどうか。戦い抜く、経済戦略、作戦…当たり前のように戦の文字を使っている。フロイトが言うように、戦争はなくならないのだろうか。せめてスポーツの世界だけに限定されればよいのだが。
親戚に会うときに必ず言われる言葉が、「お前は親父に似て来た」というもの。それがなんだと言いたい言葉を呑みこむ。このギャグ一つで何十年もきたことに驚かされる。先日、集まりがあったときに、甥っ子に同じセリフを言いそうになった。危うし。
真の私などいるのだろうか。あるときは元気いっぱい、別のときは意気消沈して人からの慰めを受けたりもする。正確無比の反面、ずぼらだったりと、一本も筋が通ってない。しかし、それでいいのではないか。真面目一辺倒では人生を楽しめないだろう。いろいろな私が私のなかで犇めいている。今日はどんな私が登場するのであろう。