気取って
エールビールとともに、アペタイザーとしてイカの塩辛をチョイスした。メインは残りご飯のおにぎりだ。からし菜は欠かせない。仕上げはキットカットを折って口に頬張る。今日はよいメニューを拵えたと一人満足感に浸る。こんな毎日、飽きるに違いない。
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エールビールとともに、アペタイザーとしてイカの塩辛をチョイスした。メインは残りご飯のおにぎりだ。からし菜は欠かせない。仕上げはキットカットを折って口に頬張る。今日はよいメニューを拵えたと一人満足感に浸る。こんな毎日、飽きるに違いない。
頭をからっぽにする時期がやってきた。年に3~4回はその時期が来る。いつもは頭の中が情報と手筈でいっぱいになっているのを一旦外に出すのだ。からっぽにしたらまた入れればよい。きっと違った世界が入ってくることだろう。
「美味しかった」とひとりごちしている。しかしそのときの味は再現できない。文字に仕立てて記憶しているだけだ。「オニオン味」、「濃厚」、「まったり」などの言葉を総動員してみたりするが、味そのものではない。われわれは、「味」という文字の回りをとみこうみしているだけである。だからこそもう一度食べたいと思うのかもしれない。
とりすましたレストランで食事をしていると、あちこちのテーブルから会話が聞こえてくる。それぞれファッショナブルなドレスやスーツで身を包んだ人たちである。映画の一シーンかと勘違いしそうな雰囲気を漂わせている。こちらの服が野暮に見える。問題は、会話の内容であろう。どのように処理しながら聞けばよいのか。
誰かから、「元気ですか?」と聞かれて戸惑うことはないだろうか。それは、私たちは元気なときもあればそうでもないときも両方あることを物語っている。そのどちらでもあるし、どちらでもないというのが答えである。そんな答えをしたら、頭が変になったといわれてしまうだろう。だからその場は、はいと明るく答えることにしておこう。
人から問いかけられて返答に困ることはないだろうか。「晴れるかな?」、「この服装でおかしくないかな?」、あるいは、「試験に合格するかな?」。いずれも、私は試験官でもないし、天気予報士でもないから、と言いたくなるような質問ばかりである。相手の求めている答えにどう答ればよいのだろうか。
ことさら体のどこにも異常がないとき、人はボーッとした状態にいる。ところが、どこかが痛いと感じたときにのみ、その部位の存在を知る。だから人はやたらと香辛料をかけたり、頬を叩いて活を入れたりするのだ。ボーッと生きていてはいけないという、自らの課題を自分で自分に課しているのだ。
淹れたてのコーヒーを啜る。うまい。その間、五感を総動員している。そうしようと思っているわけではない。自動的に五感がはたらいているのだ。カップが唇に触れ、香りを嗅ぎ、舌で味わっては旨いと感じ、たゆたう湯気を愛でながらゴクリと喉を通す。一つでも欠ければ味わいに支障をきたす。それは鼻が効かないときに飲むコーヒーが旨く感じられないときに知れる。さらにもう一つ旨いと感じられる要素がある。それは何か。
間は無意識である。間がすべてを語っている。元気ですか?の問いかけに、はい、の言葉を返す。その言葉の前に須臾の間があれば否定である。同様に、私は大丈夫かな?の質問に、もちろん!という答えを返す。その言葉の後に間があればそれも否定である。どうしたら、元気です、大丈夫だよと間をおかずに答えることができるだろうか。
受け取り方が異なれば、意味も異なる。空模様一つでも、晴天を喜ぶ人と、雨天を喜ぶ人とがいる。庭師は雨の日が休日になるからだ。叱られて落ち込む人がいる一方で、叱られて元気が出る人もいる。どのようにしてプラスに受け取ることができるのだろうか。
好みは千差万別である。人は自分だけの好みがある。それぞれの好みを提出し合うのを、「並列」という。ところが、「理解できない」、「変」と言えば、「対立」になってしまう。互いの好みを理解し合いたいものである。それには、聞く側の好みを一度脇に置く必要がある。難しいことかもしれないが、やってみる価値はあるはずだ。
こちらから、いらない!と言うと、相手が、いらないなら頂戴!と言われることがある。惜しく感じる。それは、こちらが欠如状態を作り出したからである。今まで自分の所有物だったものが、突然なくなってしまう現実を突きつけらたからだ。物は何かの縁でここにあるように運命づけられているのだ。
空模様が一定でないように、人生もまた一定ではない。一生幸せに暮らしました、というのは童話の世界。もしそんな世界にいたらきっと退屈だろう。ときに落ち込むのも、バネに飛躍の力を溜めている時間と受け取ろう。退屈もこれで凌げるだろうからだ。
推理している時が楽しい、という人もいる。そして、推理はたいてい外れるともいう。反対に、推理通りでも面白味はないのだそうである。人生思い通りに行かないということもあるが、実際には、密かに思っていたことにしたがって生きているのだ。その思っていることこそが無意識である。それは本人にさえ明かされてはいない思いなのである。
私たちが語っているもの、それが欲望である。子供たちは日がな欲望を語り続けている。聞く側はたいへんである。さっきと違う欲望であったり、いったい何がしたいのだ…という具合に翻弄されっぱなしである。それは今を生きている証である。欲望がなくなったらどうなるのか。
ほしいものは無限である。しかしそのうちのほんの一部しか実現できないのが人生だ。レストランに行けば明瞭である。ほかの欲望はどうやって実現させているのか。それは語ることで実現させている。レストランでも頭のなかで実現させている。
公園で母から、「そっちに行くと転ぶよ」と言われ、本当に転んでしまった子どもを見た。予測が当たったというべきか、はたまた、望んでいたのか。誰かが失敗すればいい、などとということは恐ろしくて口には出せない。だから無意識というのだ。私は必ずうまく行く、私はOKだ、といつも心に言おうではないか。
早起きしたくない、会社に行きたくない、嫌な上司の顔を見たくない、勝手に勤務地を決められたくない…。人間はどれほど「嫌」を押し付けられていることかしれない。好きなことだけするにはどうすればよいのか。
争い事は嫌いだがボクシングは好きな人もいる。矛盾である。絵空事のようなドラマは嫌いでもオペラには足しげく通う人もいる。人には厳しいくせに自分には甘い人もいる。人間は矛盾をかかえているのだ。表と裏、陰と陽、光と影…しっかりと、自分は矛盾だらけの人間なのだと自覚すればよい。そうすれば、相手の矛盾も受け入れられるようになるだろう。
過去に恨み・つらみの無い人はいない。小さなことから大きなことまで恨み・つらみが人間の過去の記憶にはしっかりと刻み込まれている。相手がいれば直接それをぶつければ良いのだが、その相手は今はいない。それを他人にぶつければ迷惑になる。自分自身にぶつければ病気になるのだ。だから、人は過去を語らなければならないのだ。さもないと人を傷つけたり、病気になるだろ。語る効果はこうしたところにも存在するのである。
子は授かりもの、という表現がある。そう言われると、大切に扱わないとならない。そう思っていても、それを凌駕するのが感情である。預かりものが逆らい始めるのだ。にも拘わらずお預かりしているという意志を貫かなければからない。子育ては自分との戦いである。
カウンセラーは姿を消さなければならない。カウンセラーが自分を主張しないことという意味だ。喫茶店でカウンセリングするために待っていると、入店したクライエントさんが店内の私を見つけられないという事態がしばしば。私は隠遁の術を使ったかのように姿を消している。
「頑張れ」と言われれば、自動的に、「ハイ!」と答えてしまう。私は頑張っているのだ。これ以上私に頑張れとと命令するのか、とさえ思う。命令するひとの無意識にはいったい何があるのだろう。
人生、傷つくことばかりではないか。人に訴えても、「そんなことくらいで傷つくな」と言われる。それにも傷ついている私がいる。襟に付いた髪の屑だって痛いのだ。「そんなことくらい」と軽々しく言わないで欲しい。そんな言葉の数々が無意識の中に放り込まれている。いつか爆発しなければよいのだが。
ファミレスの隣席の子が、「1425が欲しい」と言っている。メニューを開くと、それは「柔らか青豆の温サラダ」である。考えてみた。柔らか、とは固いとどう違うのか、青豆とは何か、温とは蒸したものか、湯を潜らせたものか…。他にも、「田舎風」、「ミラノ風」、わかった顔をして注文しようとしている。私は何も知らないまま、メニューの中に抛り込まれた物体に成り果てている。ふと我に返って注文する。おっと、これも「1305」と、「2103」であった。
赤ちゃんが出されたハンカチを掴む。手を伸ばすことをいつしか学んでいる。それが心地よいものなら掴んで放すことはない。ときに下に落とす。母がそれを拾って渡す。赤ちゃんが再び掴む。自分の行動が母を動かすことを学んでいる。繰り返し行動のせいで快を味わえるのだ。自分は母を動かせる、他人を動かし、世界を動かせるという実感。私には力がある、これを有力感というのだ。
子どものわがままを、わがままととらえるか、自己主張ととらえるかで見方は大きく変わる。大人が放辟邪侈、したい放題になるのは、子ども時代にしたいことができなかった反動かもしれない。子ども時代に寝てばかりいた人が後年活躍したりするのは、蓄えていたエネルギーが時を得て放出されたのかもしれないととらえるのだ。いつ放出するかが課題である。
古書店で漢和辞典を売価200円で購入した。頁数は同じだが家蔵のものに比べて紙質が厚い分ゴワゴワしている。薄い方が手にフィットする。古書好きの方々はこの感触を指先で味わっているのかもしれない。
すれ違う犬を褒める。飼い主はご指摘ごもっともという風情である。褒めても無反応という人も一方ではいる。そのとき揺れ動くのが感情である。こちらが一喜一憂してしまう。感想だけを告げればよいのだ。そうすれば、早朝から自分を褒めることができたと思えるにちがいない。
腕まくりする、やる気になることを表現する言葉である。私たちは心の動きを身体で表わすことが多い。腰を入れる、目に入れても痛くない…。みな身体で表現している。そのことに違和感をもつことはない。それらの身体表現を言葉に置き換えるのが精神分析である。そのことをラカンは、身体とは文字が刻まれた辞書のようなものであると言った。