過去
過去に恨み・つらみの無い人はいない。小さなことから大きなことまで恨み・つらみが人間の過去の記憶にはしっかりと刻み込まれている。相手がいれば直接それをぶつければ良いのだが、その相手は今はいない。それを他人にぶつければ迷惑になる。自分自身にぶつければ病気になるのだ。だから、人は過去を語らなければならないのだ。さもないと人を傷つけたり、病気になるだろ。語る効果はこうしたところにも存在するのである。
過去に恨み・つらみの無い人はいない。小さなことから大きなことまで恨み・つらみが人間の過去の記憶にはしっかりと刻み込まれている。相手がいれば直接それをぶつければ良いのだが、その相手は今はいない。それを他人にぶつければ迷惑になる。自分自身にぶつければ病気になるのだ。だから、人は過去を語らなければならないのだ。さもないと人を傷つけたり、病気になるだろ。語る効果はこうしたところにも存在するのである。
子は授かりもの、という表現がある。そう言われると、大切に扱わないとならない。そう思っていても、それを凌駕するのが感情である。預かりものが逆らい始めるのだ。にも拘わらずお預かりしているという意志を貫かなければからない。子育ては自分との戦いである。
カウンセラーは姿を消さなければならない。カウンセラーが自分を主張しないことという意味だ。喫茶店でカウンセリングするために待っていると、入店したクライエントさんが店内の私を見つけられないという事態がしばしば。私は隠遁の術を使ったかのように姿を消している。
「頑張れ」と言われれば、自動的に、「ハイ!」と答えてしまう。私は頑張っているのだ。これ以上私に頑張れとと命令するのか、とさえ思う。命令するひとの無意識にはいったい何があるのだろう。
人生、傷つくことばかりではないか。人に訴えても、「そんなことくらいで傷つくな」と言われる。それにも傷ついている私がいる。襟に付いた髪の屑だって痛いのだ。「そんなことくらい」と軽々しく言わないで欲しい。そんな言葉の数々が無意識の中に放り込まれている。いつか爆発しなければよいのだが。
ファミレスの隣席の子が、「1425が欲しい」と言っている。メニューを開くと、それは「柔らか青豆の温サラダ」である。考えてみた。柔らか、とは固いとどう違うのか、青豆とは何か、温とは蒸したものか、湯を潜らせたものか…。他にも、「田舎風」、「ミラノ風」、わかった顔をして注文しようとしている。私は何も知らないまま、メニューの中に抛り込まれた物体に成り果てている。ふと我に返って注文する。おっと、これも「1305」と、「2103」であった。
赤ちゃんが出されたハンカチを掴む。手を伸ばすことをいつしか学んでいる。それが心地よいものなら掴んで放すことはない。ときに下に落とす。母がそれを拾って渡す。赤ちゃんが再び掴む。自分の行動が母を動かすことを学んでいる。繰り返し行動のせいで快を味わえるのだ。自分は母を動かせる、他人を動かし、世界を動かせるという実感。私には力がある、これを有力感というのだ。
子どものわがままを、わがままととらえるか、自己主張ととらえるかで見方は大きく変わる。大人が放辟邪侈、したい放題になるのは、子ども時代にしたいことができなかった反動かもしれない。子ども時代に寝てばかりいた人が後年活躍したりするのは、蓄えていたエネルギーが時を得て放出されたのかもしれないととらえるのだ。いつ放出するかが課題である。
古書店で漢和辞典を売価200円で購入した。頁数は同じだが家蔵のものに比べて紙質が厚い分ゴワゴワしている。薄い方が手にフィットする。古書好きの方々はこの感触を指先で味わっているのかもしれない。
すれ違う犬を褒める。飼い主はご指摘ごもっともという風情である。褒めても無反応という人も一方ではいる。そのとき揺れ動くのが感情である。こちらが一喜一憂してしまう。感想だけを告げればよいのだ。そうすれば、早朝から自分を褒めることができたと思えるにちがいない。
腕まくりする、やる気になることを表現する言葉である。私たちは心の動きを身体で表わすことが多い。腰を入れる、目に入れても痛くない…。みな身体で表現している。そのことに違和感をもつことはない。それらの身体表現を言葉に置き換えるのが精神分析である。そのことをラカンは、身体とは文字が刻まれた辞書のようなものであると言った。