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2026年5月の32件の記事

2026年5月31日 (日)

鬼

鬼とは人を惑わす反面、人間わざを超えたすごい能力をも指す文字でもある。歴史を動かすほどの人物、人智では計れない発明などは、鬼と呼んでも差し支えないだろう。反面、爆弾にもなる威力も併せ持ってしまう厄介なモノも発明している。そう考えると、鬼は人間を進化させたり災厄を起こしたりもする。やはり鬼なのだ。

2026年5月30日 (土)

何もする気が起きない

それも大事な時である。いつもつっぱってばかりは生きられない。そんなことをしたら延び切ったバネのようになってしまうだろう。「起きない」とは、何かがあるということだ。その時を待とう。

2026年5月29日 (金)

俺

幼い子どもの口から「俺は…」の言葉が発せられるとドキッとする。幼稚園に通いだしたからだと後になってから分かったりする。言葉の善悪も知らずに使いこなしている。教えてもいないことを学び、教わったことは忘れている。われわれは何を学んできたのか。

2026年5月28日 (木)

見てない

「地獄に堕ちるわよ」と言われて誰もがドキッとするだろう。冷静になって、「見たことはあるのですか?」と質問できればよいのだがそれができない。きっと天国に行きたい欲望が自分のなかにあるからかもしれない。

2026年5月27日 (水)

変わる

人は何者にも変われる。選手も監督に変わり、解説者になる。皮膚が剥け変わるように、精神も変わり続けてよいのだ。昨日までの自分はもういないと思うことである。

2026年5月26日 (火)

後になって

子育てが一段落した方々が口を揃えて言う言葉には、「何もしなくてよかったのですね」というものがある。子供は自分で考え、行動していたのだと気付く。それが後になってからのことである。その時はその時で必死だったのだ。それでいいのである。

2026年5月25日 (月)

好き

好きとはいったい何か。それをしていれば一日中していられることではないか。ある人はシンセサイザーをいじっていれば食べないでしていられるという。そう考えると、人の趣味は切断の憂き目を見ながらの時間だったのかもしれない。

2026年5月24日 (日)

挑戦

どれほど挑戦し続けてきたことだろう。歌もダメ、楽器を弾くのも吹くのもダメ。叩くだけならと思ったドラムもダメ。しまいには割り箸に白いペンキを塗って指揮棒にしたが誰も唱和しない。反対にできる人は何をしても様になる。いったい自分の才能とは何なのか。才能というものも定かではない。あるのは好きなことだけかもしれない。

2026年5月23日 (土)

抑圧

大人は抑圧を受けながら暮らしている。あれもダメ、これもダメ、泣けず、叫べず、してはいけないことだらけ。抑圧を受けずに暮らせたのはせいぜい生後半年くらいなものだろう。そのせいで人と人とが衝突せずに暮らせる。「大きな声で叫びたいときがある」と医者に言って驚かれたことがある。いったい何があったのか。

2026年5月22日 (金)

完全な人はいない

完全な人などいない。完全を振る舞いながら生きている。リングに立つボクサーもどこかが故障中だと言う。相撲の力士も満身創痍と聞く。普通の人も怪我こそしてなくても、心はいつも満身創痍かもしれない。心のケアも必要である。

2026年5月21日 (木)

健康

健康は果たしてあり得るのか。われわれはいつもどこかが痛く、不快である。普段は自覚しないようにしているが、ふとした瞬間に思い出されてしまう。それは、人の言葉ではないか。人の「足が痛い」の言葉で、自分も…と無自覚でいたものを甦らせてしまう。同病相憐れむ、この言葉は良いことなのか、それとも思い出してしまう言葉なのか。

2026年5月20日 (水)

無重力

無重力と言うと宇宙。無重力布団と言うと現実。布団にはあり得ない話にとかかわらず受け入れてしまう。人間にそなわっている想像力のたまものである。それが人に心の豊かさをもたらし、ときに想像の罠に陥らせる。「警察の者です」の言葉に注意しよう。

2026年5月19日 (火)

声音

鳥たちのさえずりが爽やかだ。「縄張りを主張しているのです」と言う人がいれば、その方が正解かもしれない。言葉一つで鳴き声の捉え方も変わる。「この服はお似合いですネ」と店員から言われれば悪い気はしない。さあ、どう捉えるか。

2026年5月18日 (月)

新緑

新緑が目にまぶしい頃だ。一陣の風が紅葉の葉を騒がせている。時折風もないのに葉がざわめくことがある。鳥たちの木づたいがそうさせたのだ。葉は鳥たちを邪魔しない。鳥たちも木を痛めつけない。人間だけが傷つけあっている。自然に学ぼう。

2026年5月17日 (日)

散歩

近所の子供たちが隣家の犬に興味津々である。子供たちと一緒に散歩したいと言っているので、家の人は彼らにリードを持たせいざ出発。ところが、犬がそわそわする。この子たちに散歩してもらう義理はないという「言葉」だと私は翻訳した。散歩はすぐに終了。飼い主が再びリードを持って口直しの散歩に行くことになったらしい。その時飼い主は犬と会話しているのだ。

2026年5月16日 (土)

陰も陽も

ものごとには陰も陽もない。地球上に昼夜のどちらもあるように両面ある、ただそれだけである。積極的な人がいる一方で消極的な人もいる。前者だけがよいとは言えない。後者を慎重ととらえれば長所に早変わりする。両面をもち合わせることを統合と呼ぶのである。

2026年5月15日 (金)

暑さ寒さ

暑くもなく寒くもない、ちょうどよい季節、そんな時期のなんと少ないことか。ちょうどよいのも退屈だ。人間の一生は不平不満の一生である。どうしたら暑さ寒さに耐えられるのか。それは自分だけの生き方を貫くこと、その一点に尽きるだろう。稀にだがそんな人に出会ったりもする。

2026年5月14日 (木)

記憶

人にはさまざまな記憶がある。苦しかった記憶や悲しかった記憶が頭のなかに渦巻いている。一方楽しかった記憶はあまり残っていない。苦しい、悲しい記憶の方が強烈だからなのか。そうではなさそうである。強烈に楽しいことがあったとしたら、われわれはそこにとどまってしまうだろう。われわれは楽しみを少しずつ出しながら生きているのだ。お酒をちびちび飲むような人生もまたよいかも知れない。。

2026年5月13日 (水)

癖

癖は無意識である。われわれの頭のなかに刻み込まれた姿だから刻んであるから消し去ることはできない。少しは直そうとするものの、すぐに元に戻って平気な顔でいる。もし直したら本来の自分もなくなってしまう恐れをいだいているのかもしれない。

2026年5月12日 (火)

罰

日本人は礼儀正しいと言われる。電車は秒単位で運行し、街はきれいだし、道は譲り合う。どうしてこれほどまでに規律正しいのか。それは日本人の心に神道が根ざしているからだという説がある。バチ(罰)が当たるよ、と言われて育ってきたためかもしれない。像があるわけでもないのに根ざしているとは、われわれの心に神道が入っているということか。体中にある「神」経とはよく言ったものである。

2026年5月11日 (月)

感覚

暑いぞ熊谷!と言われる。住人はほぼ慣れっこである。近所に引っ越してきた人の感想は、「暑さが噛みつく」と言う。慣れもあるだろう。老化のせいもあるかもしれない。暑さがもう目の前にやってきている。

2026年5月10日 (日)

食事

食事の楽しみは何物にも代えがたい。とは言え限界がやってくる。超えると苦しくなる。楽しみで始めたのに苦しくなるとはどうしたことか。やがて落ち着く。朝目が覚める。また食べたくなる。もし楽しさだけだったとしたら食べ続けてやがて死に至るだろう。楽しさと苦しさ。適度な抑制機能が備わっているのだ。

2026年5月 9日 (土)

連休明け

連休中と連休明けとでは、街を行き交う人の表情も変わる。歩みは軽快、服も軽やか、顔には笑みがこぼれている。欧米と違い、日本は連休が一年をかけてうまい具合に配置されている。連休前の楽しさ、連休中の楽しさ、連休が終われば次の連休までの楽しさの三つが味わえる。すべてを味わおうではないか。

2026年5月 8日 (金)

英知

英知の源は本である。自分では書けず、経験も了見もともに狭小な人間にとって、巨大なガウディの建造物のように仰ぎ見る内容が詰まっている。それにしては安価だ。小さな活字も読めるうちに読んでおこう。

2026年5月 7日 (木)

二者択一

片方を選べば片方に未練が残る。人間の永遠のテーマである。そこで我々が繰り出す作戦は、片方の欠点を見いだすことである。あちらを選んでいたらきっとろくなことにはならなかったに違いない。だからこちらを選択したのは実にあっぱれなことである。自分で自分を称えている。自分しか味方がいないからだろうか。

2026年5月 6日 (水)

経験

経験とは、物心ついた頃から今に至るまでの記憶である。体験の方はというと、それ以前の記憶である。体が記憶しているが、言葉では覚えてはいない記憶のことである。スキンシップ、抱っこなど言葉としての記憶はない。にもかかわらず、体がそれを欲している体の記憶のことである。それは記憶をたどっていってもあと一歩のところでとまってしまう地点にあるものだ。その痕跡は体に刻み付けられている。

2026年5月 5日 (火)

耳

人の耳になれ。話を聞くときの極意である。全身を耳と化すのである。考えてみればわかることだが、日常生活でクラシック音楽を聞くときニューミュージックと比べてはいない。演歌とも比べていない。一音一音を体の中にしみ込ませるのである。するとどうだろう。空調の音も電車の音も聞こえず、相手の言葉しか聞こえてこないのである。耳には選択能力があるからかもしれない。

2026年5月 4日 (月)

私という存在

私という存在は他の人と比べようもない存在である。唯一無二の存在である。こうなろうと思いながら生まれて来たのではない。だからこのままの私を認めるべきである。そうしてくれたら、私はもっと頑張れるだろう。勇気が出るだろう。生きていていいのだと感じるだろう。そうしてくれることはないのだろうか。

2026年5月 3日 (日)

視点

私たちは二つのものを同時に見ることはできない。バラ栽培家の人の話では、バラのつぼみを見ているときは、葉っぱを食い荒らす虫が目に入らない。反対に、虫を目の敵にして探しているときはバラは目に入らない、と言います。どちらに視点を定めるかで見るものが違うのである。われわれはいったい何を見ているのだろうか。

2026年5月 2日 (土)

精神的なもの

精神分析家ユングの元には、仕事にも成功し、社会的にもそれなりの地位を得たと思われるような人たちが訪ねてきたと伝記には記されている。経済的に安定していても満たされないものがあると感じている人が多いのである。彼らはユングの元で何に気付いたのか。それが精神的なものである。最近、精神的なものとは何か、それがわかる気がするのである。

精神的なもの

精神分析家ユングの元には、仕事にも成功し、社会的にもそれなりの地位を得たと思われるような人たちが訪ねてきたと伝記には記されている。経済的に安定していても満たされないものがあると感じている人が多いのである。彼らはユングの元で何に気付いたのか。最近、それがわかる気がするのである。

2026年5月 1日 (金)

余白

富岡鉄斎の描いた作品に、「阿倍仲麻呂在唐詠和歌図」がある。掛け軸の上部から下部にしたがって唐の港が描かれている。中ほどに遣唐使船が一艘浮かんでいる。さらに視線を下に移すとそこには東屋があって、中で阿倍仲麻呂らしき人物と従者が揃って左上に目をやっている。これは、「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」と、望郷の念にかられて彼が作った和歌と伝えられたのを絵にしたものだ。二人の目線の先にあるものは、煌々と光る月である。富岡鉄斎は月だけには彩色を施さず白いままにしている。余白がこれほどまでに深い意味を残した例を見たことがない。

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