理屈っぽい
レストランの壁面に一枚の絵がかかっている。4人のキューピットが空中を浮遊しながら下方に向かって矢を射ようと弓を構えている構図だ。左右にキューピットがそれぞれ配置され、上方には正面を向いているキューピットがいる。とてもバランスが取れている。さらに画面左上に目をやると、そこには黙ってその様子を見ているキューピットが描かれている。これは静と動だ…などと理論で眺めている。やはり理屈っぽいようである。
レストランの壁面に一枚の絵がかかっている。4人のキューピットが空中を浮遊しながら下方に向かって矢を射ようと弓を構えている構図だ。左右にキューピットがそれぞれ配置され、上方には正面を向いているキューピットがいる。とてもバランスが取れている。さらに画面左上に目をやると、そこには黙ってその様子を見ているキューピットが描かれている。これは静と動だ…などと理論で眺めている。やはり理屈っぽいようである。
私たちはときに、「この景色は見たことがある」と感じることがある。初めての旅先であっても同じことを経験する。そこにきたことがあるのではなく、その景色のどこかに昔のことを思い出しているのだ。それが良い思い出であろうとなかろうと、無意識に刻み込まれた体験を物語っている。いったいそのとき何があったのだろうか。
私たちの言葉遣いはすべてマネが起源である。最初に出会った人のマネをするところから言葉の学習が始まる。日本語のなかに生まれ落ちた宿命と言ってよい。大人同士の会話ももちろん素知らぬ顔をして学んでいる。自分の言葉が少し変?と感じたら、それは誰のせいなんだろう。
競馬ファンはこれだ!と思う馬に賭ける。考えに考えた末賭ける。私たちがコンビニに並んでいるスィーツを選ぶときにも賭けている。いつも本命ばかり手にしているのではない。もしや、と思うウマそうなものに手をのばすこともあるだろう。賭ける対象は自分自身。漢字の「賭」はお金を自分に賭けることを意味している。これからも自分自身に賭け続けることにしよう。自分は裏切らないから。
周囲には、気になる人がいるのではないだろうか。
よく見ると、その人は自分自身の鏡像である。
しかし、認めたくはなく、ただ気になってしかたない、という人物こそ自分自身である。
自由奔放で、言いたいこと主張してはばかることがない、という人こそ、自分である。
それは多くの場合、自分の子どもであることが多い。
こちら側の人生を先取りした形を生きているので、気になってしかたがないのだ。
ちょっと腹が立つ、というくらいの生き方をしている。
そういう人がいたら、その人をよく見てみることである。
自分の無意識にしまいこまれた、シャドウがその人の上に見えてきたら、その人のことを愛せるはずである。