光風霽月
晴れた日のうららかな風と、雨上がりの晴れわたった月は清々しい。それは風景を語っているのだろうか、それとも、それを言う人の心を述べているのだろうか。
晴れた日のうららかな風と、雨上がりの晴れわたった月は清々しい。それは風景を語っているのだろうか、それとも、それを言う人の心を述べているのだろうか。
褒め言葉は難しい。9歳の男の子に、「かわいい」の言葉はふさわしくないだろう。「カッコいい」、「強そうだ」、「男らしい」の言葉が適しているだろう。それは本人が求めている言葉だからだ。それを配慮という。それを言える人もその言葉をもっているからである。人を褒めるとは自分を褒めることである。
すでに一年のうち4分の1が過ぎた。流れ去る水が元に戻ることがないように、過ぎたことは仕方がないのだ…と思いつつつい昨日のことを思い出してしまう。だから前に進めないのだ。なかには、今朝食べたことを思い出せない人もいる。幸いなるかな。
なかなか決められないとき、人は「優柔寡断」だ、とか、「不断」だなどとこちらを評していう。反対に、本人も別のときはそうだったりする。決められないのはなぜなのか。それは、どちらにも意味と価値があるからだ。片方にしてしまうことを果断という。
人が語っている内容はいったい何なのか。自分だけの経験、最新の情報を語っているのかもしれない。沈黙している人は、もしかすると心の奥底に大きな企画を隠し持っているのかもしれない。
全山は緑の木々で囲繞されている。つい数ヶ月前まで悲しげな茶褐色の襤褸を纏っていた山々とは思われないほどだ。遠くに目を凝らせば、場所によっては斑雪も散見される。足元には赤や黄色の花が太陽光線を浴びている。この賑やかな季節もやがて濃い緑で山の形まで分からなくしてしまう。自然の変化の速度は早い。それに比べて人間の変化の速度はいかに遅いことかしれない。
問柳尋花、野に出れば見渡すばかりの新緑が目に眩しい。新緑には花の青も赤もよく似合う。伸び盛りのときは手一杯に枝葉を広げ、やがてその中から自分に合った枝だけを伸ばせばよい。繁茂から収斂へのプロセスを経なければならない。収斂させるのはいつ頃になるのか。いまだに収斂せずに伸び放題のままである。
悩みとは選択の悩みである。あちらを立てればこちらが立たず。こちらを選べばあちらが引っ込む、その繰り返しのなかで悩む。誘われたランチに参加するしないで悩み、春色の服を買うか買わないで悩む。人に決められるのも嫌だ。二つに分裂した私がいる。
心の傷つきはなかなか癒えるには時間がかかる。「傷弓之鳥」のごとく、一度の怖い体験による怯えに打ち勝てるものではない。それに比べて楽しいことが消え去ることのなんと早いことか。だから、楽しいことだけしていたい、切にそう思う。
先輩の一人は、自分のことを「ミー」と呼ぶ。後輩であるわれわれは目引き袖引き笑いをこらえるのに大童であった。それは今に始まったことではないからだ。先輩はそのことに一向に気づく気配がない。口癖とは、周囲が知っていて本人だけが知らない言い方のこと。私には私の言い方があるが、そのことに気づけない。