変容
若いときは陰鬱な顔をして誰とも口をきかず、大人たちを斜めからの見るような若者が、いつのころからか明るくすべてのことに喜びを見出す性格になったりするものである。塞ぎ込んでいるから、落ち着きがないからと安直に評価してはいけない。草木が変容するようにただ待てばよい。これを見守るというのである。
若いときは陰鬱な顔をして誰とも口をきかず、大人たちを斜めからの見るような若者が、いつのころからか明るくすべてのことに喜びを見出す性格になったりするものである。塞ぎ込んでいるから、落ち着きがないからと安直に評価してはいけない。草木が変容するようにただ待てばよい。これを見守るというのである。
清澄な空気のなかを闌干たる星空が展いている。一番近い星でさえ人類はすぐに行くことはできない。星に願いをとは叶わぬ夢のことを言うのか。叶えられるとすれば、それは私たちの意志の強さによるであろう。
気に入っていた腕時計を紛失した。金銀を鏤めたようなものではけっしてない。しょっちゅう腕に巻きつけていたわけでもない。文字盤は陽の光で黄ばみ、装着しにくいそれはアウトレットものだ。喪失の安心感をいま得ている。
人柄は言葉に表れる。同時に仕方話にも顕著に表れる。少女たちの指の立て方、小首の傾げ方、ちょっと身を引いて驚いたりするそのやり方はいったいどこで習ったのか。瞬時にできるのは天性だろうか。男は殺風景な生き物である。
朝まだき、そこら中が黯い。ときおりカラスの声が聞こえる。ライトが右往左往しながらこちらに近づいてくる。少し怖い気がする。向こうも怖いはずだ。明かりがあるうちはよいが、空がグラデーションを濃くしていくころになるとライトを消したまま人と交差する瞬間はもっと怖い。夕刻の散歩より足早になるのもむべなるかな。
厳かな式典には八字眉の悲しげな姿がよく似合う。それほどまで打ちひしがれた様子でいられることに自分でも驚く。何を思えばよく、どう振る舞えばよく、何を語ればよいのかも考えさせてくれない時間が過ぎていく。思考を停止するのはこのときだけしかできないのかもしれない。
好きなことがある人は幸いなるかな。いや、すべての人には何か好きなことがあるはずだ。人は好きなことをすることに怖れをいだく。それは、そのことに夢中になってしまうと、擒になることを怖れているからだ。擒、すなわち取り込まれてしまうことへの怖れである。それから脱出できなくなってしまうくらい夢中になれればよいのだが。
朝まだき、マラソンランナーや散歩の人とすれ違うたびに、炳乎たる月影が彼らの横顔を照らす。空気が澄んでいるせいか、その光がより顕証に見える。挨拶をすべきか否か。悩んでいる暇もなく、相手は後方に消え去ってしまう。昼間出会ったとしても分からないだろう。懐中電灯の振れ方で、ああ昨日すれ違ったひとに違いない、そう思いながら歩を進めるだけである。
どこまでも冬枯れの景色が広がっている。かつて緑の簇生が我が物顔に振る舞っていた大地も、その土色を晒している。頬を刺す冷気が土に霜柱を生じさせている。あとニ三か月で人の口から花の話題がもれ始めることなど俄には信じられない。しかし信じることにしよう。自分を信じるように。
目の前の公園で誰かが凧揚げをしている。去年、自分も同じことをしたのを思い出した。きっと同じ光景は所々方々で行われていることだろう。自分のしていることなんか、特別なことでも何でもないのだ。考えていることだけじゃなくて、食べているもの、失敗、失言、得意になり、自分に失望したかと思うそばからふたたび眦を上げたり…皆同じことをしている。