カテゴリー「心と体」の記事

2019年4月21日 (日)

価値観

価値観は人それぞれ異なる。国、地域によっても異なる。タコは日本では、たこわさ、たこ焼きなどで好まれるが、外国では悪魔のように見られている。クジラも時に日本では食べられるが、捕鯨禁止の国では牛肉を食べている。どちらも哺乳類なのにである。食べ物でさえ価値観が異なるのだから、考えが違って当たり前である。だから理解し合うためには、そう、とうなづくだけでよいのである。それが分かっているのにできてはいなさそうである。

2019年4月18日 (木)

車内での会話

電車の車内で友人同士が会話している。一人がいう。「昨日、ドイツから帰ってきたばかりなんです」。もう一人が答えて言う。「今、私の娘がドイツからイタリアに着いた、とメールが来たばかりです」と。一つの地名を介して会話が成り立っているように聞こえる。これが普通の会話ではないだろうか。互いが互いに認められたい、という欲望の応酬となっている。片方が自分の話を一切出さずに聞くこと、それを対話とよんでいる。

2019年4月17日 (水)

もう一人の私

私は私自身の主人ではない。会社に行こうと出かけて道を間違えたり、反対方向の電車に乗ってしまったりする。そんなとき、私がもう一人の私の愛を動かしているとしか思えないことがある。私という人間を私の中の無意識が動かしている証拠である。そんなとき、もう一人の私と会話してみることである。どうして道を間違えたのか、遅刻したのかと。そのとき本当の私が語り出す。それを、無意識の声に耳を傾けるという。

2019年4月16日 (火)

姿

写真撮影に際して、カメラマンから「胸を張って」とか、「アゴを引いて」などと注文される。できあがった写真を見ると、それなりに撮れていて安心する。考えてみると、普段は決してそうしたポーズなどしてはいない。日頃はいったいどんな姿で暮らしているのだろうか。知るすべもない。自分の本当の姿を知りたいか、知りたくないか、いったいどちらだろうか。

2019年4月15日 (月)

記憶

近所の桜も散りはじめた。寒さと暖かさが交互に訪れたせいであろうか、桜が長い間咲いていた…そんなことも葉桜の頃になれば、私たち記憶からキレイさっぱり消え去ってしまうことだろう。去年の桜がどうだったかという記憶などあるはずもない。人間の記憶とは、いい加減なものである。過去の悲しい記憶も忘れることができたらどれだけ前に進めることだろうか。忘却とは忘れ去ることである。

2019年4月14日 (日)

無知

私たちは知らないことばかりではないか。自分の経験で知っていることなどたかが知れている。人から「あなたは分かっていない」と言われても、それは当然のことなのである。私たちが一番知らないことといえば、それは子育てであろう。自分が親から育てられたことなどとうの昔に忘れ去っている。育てられる側の気持ちと育てる側のそれとが一致することなど夢のまた夢だ。でも育ててしまった。どうすればよいか。

2019年4月13日 (土)

能力

ひとつの米粒の表面に般若心経の200数十文字を書ける人がいると聞いた。人間の持っている能力に限りがないことを表わしている。虫眼鏡を使えばいい、という考えが私たちの能力の成長を妨げているのかもしれない。幼い子供たちも虫たちを追いかけ、観察に余念がない。親御さんとしては宿題や家の手伝いを優先してほしいところだが、彼らは目の訓練をしていると考えれば、それもまた成長のためである。そう考えると、われわれの視力の衰えは違うものばかり見てきたせいかも知れない。

2019年4月12日 (金)

イベント

暖かくなったせいか、駅周辺ではイベントの数々が繰り広げられている。ひとつイベントを前にして多くの方々が数週間は楽しめることだろう。準備、練習、時間の調整など、日常とは違った世界が楽しめるからだ。人生もまた同様。私たちの毎日はイベントの連続ではないだろうか。朝食は何を食べ、昼食までの間何をするか、何を着て誰と会ってどの道を歩くか・・・本当の楽しみとは毎日の計画そのものである。

2019年4月11日 (木)

本当の私

私という存在は二つに分裂している。それがよくわかるのが人と会話をしている時である。相手の「私って本当に⚪⚪?」という質問に対して「あなたは⚪⚪よ」とは言わないであろう。相手に対してそう思っている私と、相手を思いやって本当のことを言わない私とが分裂している。相手を思いやる私が、真実を言げてしまう私を凌駕しているのである。それを防ぐための方法が、私を分裂させることなのである。真実を告げない私を続けてしまえば、本当の私がなくなってしまうことだろう。そこで本当の私を取り戻す必要がある。そのための時間が、瞑想すること、読書すること、一人静かに過ごすことである。人生の静と動、この二つの間を行き来する私がいる。

2019年4月10日 (水)

名称

写真家の悩みはたったひとつだという、人から、「この写真に写っている桜はどこの桜ですか?」と聞かれることだという。写真家はあくまでも写真の構図・色調・背景とのバランスなどを見る人に楽しんでほしのだが、見る側は場所にしか興味がないという。これこそ撮影する側と見る側の意見の相違を表していないだろうか。見る側は、自分が行ったことのある場所であれば、それだけで安堵し、美しいとさえ思ってしまう。多くの人は、写真家の作品を見ているのではなく、自分の経験した世界を見ているのである。私たちは人の目で見ていると同時に、自らの目の、両方で見ているのである。本当の私の目はどちらなのであろうか。

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