仮想空間(1)
仮想空間のなかで私たちは生きている。小説・CD全てが仮想空間だ。今どきの仮想空間と違うところは映像化されているかどうかの違い。この違いは大きい。文字や音という視覚化できないものから映像を思いうかべているのが今までの作業。それが今はやりの仮想空間では必要ないのだ。それがどんな効果を生み出すのか今のところは未知の世界だ。
仮想空間のなかで私たちは生きている。小説・CD全てが仮想空間だ。今どきの仮想空間と違うところは映像化されているかどうかの違い。この違いは大きい。文字や音という視覚化できないものから映像を思いうかべているのが今までの作業。それが今はやりの仮想空間では必要ないのだ。それがどんな効果を生み出すのか今のところは未知の世界だ。
人との交流には、父との交流が欠かせない。父と交流するのは大変だ。小遣い一つもらうにも交渉しなければならないからだ。母と交流している方が簡単だ。だから母を通して父に交渉を頼むことも多くなるので、ますます父が煙たい存在に見えてくる。父は社会の窓口だ。父と交流するのは社会と交流するための足がかり。父が怖すぎたりして話をする機会が無いと、社会が怖いと感じるだろう。父と交流し、その結果ほしいものが手に入れば交渉した結果に喜びを深めることになる。けむたがられる一方ですごいと思わせる何かが必要である。
図書館には誰ひとり閲覧することのない古い本でも必ず一冊は保管されている。そのいずれかのページをめくれば、忘れかけていた記録や記憶、体験などが目の前に繰り広げられるだろう。そこに書かれているのは、その人だけの記憶であり、事実、苦しみ、悲しみにまみれた真実である。誰も否定できるものではない。そんな記憶を私たち誰もが自分の図書館に隠している。
意見はさまざまあって良い。相手は反対意見を言っているのではない。ただ自分の意見を述べているだけなのに、主宰者の耳には、反対していると感じるのだ。それもおもしろい、と受容してくれるだけで相手はホッとするのだ。なかには、わざと反対意見を言う人もいるのは事実。そんなときはどうすればよいのだろうか。
人がこちらに合わせてくれていると、いつの間にかそれが当たり前のようになる。いわゆるイエスマンばかりを周りに集めるようになるということ。さまざまな意見をよろこんで聞けるようにしなければならない。そのためには、自分の意見をよろこんで聞いてくれた体験が必要だ。それが親子の関係でなされていれば良いのである。
「解」の文字は、牛の角を解き放ち、刀でバラバラにする意味の文字。こんがらかった問題が突然バラバラになって解ったときに使う。分、判とは違うので、何かがわかってスッキリしたというときにどうしても解の文字をつかいたくなるもの。日本語は視覚的に豊かだなと思う瞬間だ。
合わせる、ではなく今度は合わせられる側に立って考えてみよう。合わせてくれると、これはこれで心地よい。こちらの提案を支持してくれたように感じるからだ。自分の注文メニューがエコーのように返ってくる。私は食べません、とか、えー!などと言われて嬉しく感じる人はいないのではないか。人間は合わせてくれる喜びをもつ一方で、相手の主張も喜んでも聞けるようにしたいものである。
相手に合わせていると何が良いか。それは居心地が極めてよいこと。相手から怪訝な顔をされることがない。相手と同じ分量を食べているせいもある。そうしているうちにますます自分を主張することから遠ざかる気がするかもしれない。その一方で、そのままが普通になってしまうこともあるだろう。どちらを選択するかが問題である。
私たち日本人は、相手に合わせるのが善で、自分を主張するのははしたないことと暗黙のうちにすり込まれてきた。レストランで隣席の二人が店員に注文している。上司が注文した料理を、部下と思われる男性が「私も一緒です」と返答している。ついで、食後のデザート・飲み物までも「私も一緒です」と答えている。そのシーンに関心が向いたのも、かつて自分もそうしていたからだと思い出したのだ。気になるものはすべて自分自身である。
「私」という存在はもともと存在しない。相手が現前した瞬間に現れるのが「私」である。目の前に両親が現れれば、私、ボク、オレになり、勤めている会社の社長の前では自分になり、子供がやって来ればお父さん、友達が来ればカッチャンになったりする。店に入ればお客様になり、Aランチをご注文の方に変身する。いったい本当の私はこの世に存在するのだろうか。存在するとすればどんなときか。